第9話 愚者の切り札
頭を下げるユベールの後頭部で書類の束が飛び散った。
場所は治安維持隊の駐屯所。南都代宰から接収した館の一室でボズ=ロッソの怒りが炸裂した。
「10日。ここに来てから10日にもなる! それなのに壁外の蛆虫どもが一向に減っていないとは。これは一体どういうことですか!!」
「誠に申し訳ございません」
深々と腰を折ってユベールは謝罪する。その姿さえも苛立ちの元となる。
ボズ=ロッソは中指で性急にコツコツと机を鳴らしながら、散らばった書類を拾い集めるユベールを睨み付けた。
「これだから
「特級参預殿のご期待に沿えないこと、非常に心苦しく思っております」
拾った書類の角を丁寧に合わせてユベールはボズ=ロッソへと差し出す。
「ただですね? 我らとしても特級参預殿のお申し付けに答えるべく、毎日壁外を目指してはいるのです。ですが壁外に到達する前に、街中で暴れる輩に必ず遭遇致しますので、どうしてもそちらに人員が割かれる。そして本日も壁外には到達できない。そんな次第でして」
ユベールの目線は真っ直ぐにボズ=ロッソの背後に控える治安維持隊の隊長へと向かう。彼の目線に気付いた隊長は「あ? 何だてめぇ」と、喧嘩っ早く顎を突き出した。
見せかけのこけおどしはユベールには通用しない。彼は隊長を目線で制したまま、明快に言い切った。
「貴殿らの市民に対する暴虐は悪辣に過ぎる。猛き犬の紋章を胸に掲げるのならば、今一度その振る舞いについては考え直すべきです。特級参預殿からも是非とも言い聞かせていただきたい」
「……言いたいことはそれだけですか」
ユベールは堂々と胸を張って「はい」と首肯する。
「ならばこれが答えです」
バシャン、と派手な水音が上がった。
真正面からかけられた葡萄酒がユベールの顎を伝って、ぽたり、ぽたりと彼の足元へと落ちる。
「分をわきまえろ。平民が」
空の杯を手荒に机に置いて、ボズ=ロッソは戸口を顎でしゃくった。
「出て行きたまえ。目障りだ」
「おら、とっとと出てけよ。三下ぁ!!」
にやにやと顔を歪めた隊長がドン、とユベールの胸をつく。彼は滴り落ちる葡萄酒をそのままに、きっちりと頭を下げて執務室を出て行った。
ぱたん、と扉が閉まる。
ボズ=ロッソは「まったく」と息を吐いて、椅子へと背を預けた。
「忌々しい。グリゼルダ様の改革が成ればあのような者などすぐに追い出せるのに」
「全くその通りで」
相槌を打った隊長を横目で見やる。ボズ=ロッソは何も言わなかった。
彼は冷淡に隊長のおべっかを聞き流すと、新たな葡萄酒を注いで一口、口に含んだ。
「南域の葡萄酒はひどいものですね」
顔をしかめてもう一口。
「私は後どれだけ雑種の入り混じったこの生温い葡萄酒に耐えねばならないのでしょうか」
「……申し訳ありません。南都のアホ共がサボる分、部下達をどやしつけてはいるのですが。何かって言うとバンジェット商会だのカザクラだのと」
「カザクラ、カザクラねぇ」
ボズ=ロッソは日に透かしていた杯を机に置いた。
「
隊長は、はぁ、と間の抜けた相槌を打つ。曖昧に笑みが張り付いたその表情は、彼の理解力のなさを良く示していた。
それでもボズ=ロッソは気紛れに笑みを浮かべると、「カザクラといえば。彼の家には数代前から生きているエフィオンの老婆が1人いるらしいですね。南域の雄などとのたまっているが実際のところはその老婆にいいように振り回されているだけとか」
「へぇ。ババア1人に振り回されるなんざぁ、大公様といえども大したことないのですね。そもそもエフィオンなんて本当にいるんですか? 俺はついぞ見たこともないですが」
「それは私も同じですが、実在はします。そもそもが滅多にいないそうですからね。……もっとも、いた所でたかだか多少精道を使えるという程度であれば取るに足らぬ存在ですがね」
控えめなノックの音がして侍従が金の鳥籠を持って入って来た。
瀟洒な造りの鳥籠の中には光をまとった白鳩が1羽。大人しく目をしばたかせている。
「あんな良く分からん人間もどきなどそもそも、この国には必要ありませんよ。今、この国が最も必要としているは正しき血統に生れついた者達です。
ボズ=ロッソは白鳩に目をやる。
白鳩と重なって浮かぶのは、胸に抱いた高邁な思想を実現するべく玉都で奮闘する、グリゼルダの横顔である。
彼の口元が柔らかく解ける。
鳥籠の扉を開けて、手を差し入れると白鳩は素直にその手に乗る。淡い光が一瞬だけ強烈な輝きを放った後、白鳩だったものは1通の手紙に姿を変えていた。
ボズ=ロッソは華麗な箔押しのある便箋を広げて中身に目を走らせる。
微かに笑んでいた彼の顔が、文章を追って行くごとに爛々とした輝きを増して行く。手紙を読み切った彼から「素晴らしい。何と得難い女性か!」と感嘆の声が洩れた。
ボズ=ロッソは感に堪えぬとばかりに充足の吐息をついて、その手紙を胸に抱きしめる。
「さすがはランディバル侯。東都代宰と同じ権利を賜るとは。彼女こそ、この国の希望。導きの灯です!」
「えぇっと……それはつまり?」
頭を掻いて、きまり悪そうに訊いた隊長にボズ=ロッソは喜色満面で答える。
「つまりは最早、バンジェット商会もカザクラ大公家も恐るるにあらずということですよ、君」
開店から絶え間なく訪れていた客足も落ち着き、のんびりとした空気が漂い始めた店内で、キカは帳簿をつけているリスタルテの顔をじっと見つめていた。
「何だよ、俺が男前過ぎて見惚れてるのか?」
顎に手をやり、気障に構えたリスタルテにキカは無情な一言を投げつける。
「あ、それはないから大丈夫です」
「いや、そこはもうちょっと気を遣おうよ、キカ君! 出世しないよ?」
「そういうの特にいいんで」と言いながら、手にした瓶を棚に並べ始める。
「見ていると人間にしか見えないですけど、リスタルテさんもエフィオンなんですよね?」
「あぁ、まぁな」
「俺、エフィオンてもっと神秘的な存在だと思ってました」
「んー? それはどういう意味かなぁ?」
「どういう意味でしょうねぇ」
子憎たらしく、ふふんと笑いながら葡萄酒を両手に取る。
「ローザと一緒にいるラムダさんにカザクラのナギハ様に。エフィオンって意外といるもんですね」
コツ、コツ、とリズミカルに瓶を置いていく彼にリスタルテが何気なく「ハルツグとかな」と答える。
「……は?」
「おい、お前の抱えているその葡萄酒。当たり年の最高傑作品だからな。割ったらお尻ペンペンするぞ」
「いや、それ……貴重なのか、どうでもいいものなのか全然分かりませんが」
慎重に棚に瓶を納めてから、キカは勢いよくリスタルテの方を振り向いた。
「……ハルツグさんって聞こえたような」
「ハルツグさんって言ったぞ」
「本当に?」
「ここでお前を騙しても俺が愉しい以外に何もないだろ。本当だよ」
リスタルテは帳簿を目で追いながら、ペン軸を顎先に当てて「まぁ、ローザ周りで言えば、後2人。今は聖地にいる奴らがいるな」
「エフィオンって結構ゴロゴロいるんすね」
「いる所にはいるんだよ 俺達、群れないと生きていけない淋しい奴らなの」
「あ、そうすか」
ヨヨ、と泣き崩れる振りをするリスタルテを軽く受け流してキカは満足気に棚を見渡した。
「リスタルテさん、取りあえず商品の補充は済みました」
「お、並べ終わったか。じゃあ行ってもいいぞ。あれを忘れずにな」
あれ、とリスタルテの指差す箱を確認してみる。中には真新しい包帯がギッシリと詰まっていた。清潔な白さの頼もしさに思わず、おぉ、と呟きが洩れる。
「ガザン先生には、これは俺からの賄賂って言っておいてくれ」
「承知しました!」
チャーミングに片目をつぶってみせるリスタルテにキカの返事も胸踊る。
採算度外視でやっているガザンの窮状をよく知っているからこその気遣いは素直に嬉しくなってしまう。
「エフィオンとかそんなの関係なく、リスタルテさんていい人ですね!」
箱を抱えて弾むように言ったキカに、リスタルテは早く行け、とばかりにしっしっと手を振る。
「じゃ、お使いに行って参ります!」
張りきった笑顔と共にキカは威勢よく通りに飛び出して行った。
ガザンの診療所は城門近くの寂れた裏通りにある。大通りにあるバンジェット商会からは歩いて約20分程の道のりだ。
癒しのスペシャリストである白緑士はその報酬の莫大さから、庶民にはなじみのない存在である。もしも庶民がかかろうと思ったら、癒しの神、ヨシアキ神の教院が月に1回開く施しに近い診療に行くしかない。それとて、全員が診てもらえるものではなく、何日も何日も前から延々と並んでようやくである。
それ程に貴重な白緑士の診療が安価に受けられるとあって、ガザンの診療所は連日大盛況である。元より小さな診療所のため、すぐに人が溢れて小路に長蛇の列が出来る。
通い慣れた道を幾つも通り抜けて、診療所のある小路に入ったキカの目に映ったのは、いつも通りに小路に溢れかえる人の列であった。
「……あれ」
異変はすぐに分かった。
小路が人で溢れているのはいつもと変わらぬ風景である。そして、人々が診療所の方を見つめている風景も。しかし今日そこにいる人々が診療所に向けるのは、いつ来るともしれぬ診療を待ち侘びる手持無沙汰な目ではなく、憂慮と好奇心の入り混じった目であった。
肩を寄せ合い、額を寄せ合ってひそひそと囁き交わす彼らの姿に、キカの胸の中で言い知れぬ不安が鎌首をもたげる。
たまらずキカは小路に飛び込んだ。
「すいません、ちょっと通して! すいません!!」
人々を掻き分け、押しのけてようやく診療所前へと到達する。
ガザンの小さな診療所はいつでも乱雑な雰囲気がしていた。
だが、幾ら何でも診療台が横倒しになっていたり、包帯が通りに転がり出ていたり、精道符が床一面に散らばっていたりはしない。
「……何だよ、これ……」
呆然と1歩踏み出したキカの足裏で、さり、と微かな音が上がる。一体何か、と見降ろした足元にあるのは砂埃にまみれたカザクラ家の紋章が入った帯封だった。
「精道符の帯封……」
「あぁ、あんた! キカじゃないか!」
背後から掛かった声に振り返る。
そこにいたのはいつもガザンの手伝いをしていた年嵩の女性だった。近所に住んでいる顔見知りの女性に付き添われた彼女は、ヨロヨロと歩いて来ると、必死の形相でキカに縋りつく。
「何があったの? 先生は?」と尋ねるキカに女性は悲痛な叫びで返した。
「あいつらだよ! 治安維持隊さ。奴らが先生を連れていっちまったよ!!」
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