第7話 交わらぬ時
風にそよぐパルムの木の影が優しく揺れる南都の昼下がり。露店商が軒を連ねる小路にキカの威勢の良い声が上がった。
「えーい! 銅貨5枚だ! これ以上はもうまけられねぇ!」
太い腕を組んで唸る店主に、キカは、いやいやと畳み掛ける。
「おじさんおじさん。考えてもみなよ? このまま日暮れまで店を開いてたって、後どれだけ売れるかなんて分かりゃしない。それを全部まとめて銅貨4枚で買おうっていってるんだ。おじさんは一日の仕事が昼で終わってホックホク、俺は安く買えてホックホクのお互いワハハのいい事づくめ。これを逃す手はないだろ?」
「だがな、……うーん」
「昼間っから飲む酒はどんな味だろうなぁ。それもちゃんと仕事を終えての一杯だ。そりゃきっと格別なんだろうさ。想像するだけで身悶えするね。そうは思わないかい?」
店主の喉が、想像の酒にゴクリと鳴った。しかし、彼の中に根付く商魂が欲望に傾きかけた彼の横面を張り飛ばす。
「いや、でも。……うーん。いや、けどやっぱりここは譲れねぇ!」
「そこを何とか!」
キカも負けまいと必死に両手を摺り合わせて店主を拝む。南都の小路で激しくぶつかり合った商い魂の戦は、頭を抱えて天を仰いだ店主の嘆きで幕を下ろした。
「えぇい、こうなりゃ女房が作ってくれた昼飯用の肉まんを1個おまけにつけての銅貨5枚! こいつでどうだ!」
「よし! おじさん男だね! ついでにもう1個つけてくれれば全部ひっくるめて買うよ!」
「……もってけちくしょー!」
「へへっ、昼飯もうけましたね。先生」
熱戦を終えたキカは勝ち取った戦利品を満足そうに見回して、がぶり、と肉まんを頬張った。
「いやぁ、何と言うか見事なものだ。言葉もないよ。いつもなら銀貨1枚はかかる買い出しがたったの銅貨5枚で済んだ上に、しかもお昼のおまけつき。さすがだね。いい腕をしてる」
キカと共に道端の柵に腰掛けたガザンは、心からの賞賛を彼に贈る。するとキカは、いやいやいや!と慌ててその賞賛を打ち消した。
「やめてくださいよ! 凄腕の白緑士の大先生が何言ってるんですか。俺なんて駆け出しもいい所で、それでもなんとかって位なのに。先生とは比べものにもなりませんって」
「そうでもないさ。キカがいてくれて本当に助かったよ」
「それこそエルマイネ様から預かった届け物のついでですからね。これくらい何て事もないです」
「その歳で、実際たいしたもんだと思う。よく頑張ったんだね、キカは。すごいよ」
「そう、……かな? 何か、余り褒められ慣れていないから変な感じです」
恐縮しきりで首を竦めるキカにガザンは、可笑しそうにくすりと笑みを洩らす。穏やかで懐深い笑顔に包まれる感覚はキカにとってはくすぐったく、どこか収まりの悪いものでもあった。だが、不快感はない。
照れ隠しに肉まんを余計に頬張りながら、ちらりとガザンを見る。
7歳で両親を失ったキカは、父親のことはうっすらとしか覚えていない。その後は祖父のピッケと2人きりの生活だった。
そしてバンジェット商会に入り知り合いが増えたとはいえ、父親の年齢に近い男性にこうして手放しで褒められたことはほぼ初めてだ。
父親に褒められると、こんな気持ちになるのだろうか、とキカは胸中深く呟いた。
面映ゆくも、誇らしい気分にさせてくれる。父親とはそういうものなのか。
旨み溢れる具材と一緒に湧き上がる嬉しさを咀嚼しながら、傍らで肉まんを黙々と食べるガザンを再び盗み見る。
自分にも父親がいたら、きっと。
浮かんだ思いは彼を狼狽えさせるには十分だった。何で今更にこんな恥ずかしいことを考えたのか。
気まずさと恥ずかしさが相まって、残りの肉まんをガブガブと詰め込む。急に速度を上げて詰め込み始めた彼をガザンが不思議そうに眺める。
「どうした? キカ……」
ガザンが声をかけようとした時、突如として通りの向こうからワッと、どよめきが上がった。それと同時に人集りが出来る。
その様子に良からぬものを感じたガザンが厳しく眉間に皺を寄せる。彼は食べかけの肉まんをその場に置いて立ち上がった。
「すまないキカ。少しここにいてくれ」
「……先生?」
戸惑って首を傾げるキカをその場に残し、足早に人集りを目指す。
密集する天幕を抜けて行った先。噴水を中心に据えた小さな広場では案の定、治安維持隊がボロボロの服を着た痩せた男に暴行を加えていた。
棄民と思しき男に容赦のない殴打が浴びせられる。固い石畳みに這いつくばった彼の髪を掴んだ隊員は、その顔に唾を吐いてゲラゲラと哄笑した。
「汚ったねぇ面を洗ってやったんだよ、礼の1つくらい言っても罰は当たらんだろう!」
「言ってみろよ! 貴重な御唾をありがとうございますってなぁ!!」
「おら、言えよ!!」
隊員は男の顔面に拳を叩き込んで、ゴミでも捨てるような無頓着さでその体を地面に放り投げた。
「目障りなんだよ! ゴミクズが!!」
「二度と街中に入って来るな、クソが! ……って、何だお前」
人だかりから進み出たガザンは倒れている男の脇にひざまづいた。
慣れた手つきで怪我の具合を確かめて、おもむろに精道符を取り出す。
「少しの間じっとしてて。すぐに痛みもひくはずだから」
「……またてめぇか。いちいちしゃしゃり出てくるんじゃねぇ!」
乱暴に肩を掴んだ手を振り払い、ガザンは怯むことなく隊員をねめつける。
「私は大いなる癒しの神、ヨシアキ神を奉じる白緑士だ。『傷つき倒れた者があればこれを助けよ』という教えに忠実に従っているに過ぎない」
信念のこもった力ある言葉に一瞬、隊員が怯んだ。ガザンはその機を逃さずに、更に強く言い募る。
「疑いがあるのであれば教院に尋ねてみてくれてもいい。ヨシアキ神を奉じる者が、怪我人を見捨て、それで教義を守れるのかと!」
「うっ、うるせぇっ! 棄民を排除しろっつーのはアレだ、皇帝の命令だっ。そいつを助けるのはそのまんま、皇帝に逆らうのと同義だぞ!」
「それはつまり何か? 精道神アマワタルの末裔たる皇帝陛下が、精道十二神の一柱であるヨシアキ神への信仰を禁じているとでも言いたいのか? そのような話は聞いた事もないな」
「……ごちゃごちゃとうるせぇ! 屁理屈ばかり並べやがって!!」
臆することなく堂々と反論して来るガザンに焦れた隊員の1人が、彼の胸倉を掴んだ。それでもガザンは目を逸らさずに隊員を睨み上げる。
「バカにしやがって!!」
「待ちなさい」
隊員が振り上げた拳を後ろで止めた者がいる。
「何しやがんだ!」と振り向いた隊員の目が驚きに見開かれた。
まわりにいた別の隊員達も慌てて、威儀を正してバラバラな敬礼をする。
「こっこれは総司令官殿!!」
彼らの敬礼を鷹揚に受けたのは、治安維持隊の総司令官たるボズ=ロッソ、その人であった。ボズ=ロッソは大物然とした仕草で、襟元を正すと棄民を背に庇うガザンを冷ややかに見降ろした。
「ボズ=ロッソ……」
「哀れですね」
そう言ったボズ=ロッソの瞳には優越感と軽蔑とがはっきりと表れていた。
「共に北辺で育った幼き日を思い出します。あの頃の貴方は100年に一人の神童と評され、私はそれをただ羨むしかなかった。それがどうです。今の私は皇帝陛下より勅命を受け、8000人からの部下を抱える警務大務直属の特級参預。片や土と埃にまみれ、棄民に混じって地べたを這いつくばるばかりの貴方」
「……そうか。お前が」と言い掛けたガザンにボズ=ロッソは横面をはたく勢いで言葉を投げつけた。
「言葉遣いには気をつけたまえ。古き血を継ぐ尊き貴族の名を捨ててまで棄民のように暮らす貴方と私では、立場が違うのですよ、立場が」
ボズ=ロッソは優雅に手を後ろにやり、すっと姿勢を正した。治安維持隊の特別誂えの装束が深まり始めた秋の風に、さらりと豪奢に映える。その洗練された意匠の前では、着古したガザンの僧衣が殊更にみすぼらしく見えた。
皇帝の威を高らかにまとったボズ=ロッソは、憐憫の笑みでガザンを見下ろす。
「ですが昔のよしみです。慈悲を与えましょう」
「慈悲、だと?」
ガザンは不審そうに訊き返した。
ボズ=ロッソは短く、左様、と頷く。
「貴方の偽善と欺瞞に満ちた下らない主義主張はともかく、その才能と才覚はとても惜しい。私の元に来るのです。ガザン。今からでも遅くない。貴き血族に連なる者のあるべき姿に戻るのです」
コホン、と品よく咳払いをした彼は、当然とばかりにガザンへと手を差し出す。
それは誇りを失い、地に落ちたかつての学友を救い上げる高潔の士、という彼自身のポーズを何よりも明け透けに示していた。
ボズ=ロッソの中にある分かり合えない頑迷さにガザンは束の間、目を伏せる。
「誰が……」と言いかけたガザンの声にキカの怒声が被さった。
「先生を馬鹿にするな!」
「……キカ!?」
人だかりを押しのけて、飛び出して来たキカが両手を広げてボズ=ロッソの前に立ちはだかる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます