第5話 嘆きの壁

 帝国領南域において最も豊かなアウルドゥルク領とカザクラ大公領。その2つを結ぶ物流の要であり、また天領地でもある南都は南域最大の人口を抱える商業都市でもある。


 玉都から遠いこの地の気風は開放的で荒々しい者も多い反面、自立自衛の精神も強く、比較的高水準なレベルの治安を保っている。

 

 そのため、帝国各地から難を逃れて棄民となった者達の流入は年を追うごとに数を増し、街の成長と共に外へ外へと増設された外壁の、更に外側まで膨れ上がっていた。


 その第三外壁を見上げる位置にある、棄民の天幕の並ぶ一角。

 廃材を組み上げただけの粗末な診療所へと戻ると、ガザンは休む間もなく法衣へと着替え、すぐさま患者のいる天幕へと足を向けた。


「トラヤさんの足の具合はどう?」

「先生、いつお戻りに。トラヤさんならもうすっかり。元気になり過ぎて、少しも安静にしてくれなくて困ってる所ですよ」


 ガザンの声に、どっしりとした体型の年嵩の女性が肩をすくめながら振り返る。その向こうでバツが悪そうに首を竦めている老人に、彼はやれやれといった様子で苦笑を向けた。


「その様子ならもう大丈夫そうだね。けど、壊死しかけていたのだから、あまり無理はしない事。それから、今度から怪我をしたら放っておかずにちゃんと手当てをする事。いいね」

「申し訳ねぇ、先生。おかげでまた、この足で仕事を探しにいける。仕事を見つけて、この代金は必ず返しますだ」

「ありがとう。けど、まずは自分の生活を第一にね。治療代は暮らしが落ち着いてからで構わないから」


 老人の足の具合を確かめると、ガザンは続けざまに天幕の中で横になっている他の患者達を順番に診察する。

 生まれによる貧富の差がそのまま命の価値になる。そんな理不尽さを黙って見過ごす事が耐えられずに、漂泊の白緑士となってから随分と経った。

 教院で患者を待つのではなく、自ら患者の中に出向いて行く。初めは戸惑いしかなかった治療の日々も今では、それなりにこなすことが出来るようになって来た。


「まただいぶ数が増えたね」


 一通りの診察を終えた後、手伝いの女性にぽつりと呟く。


 南都の庁舎は集まった棄民達を順次受け入れ、それぞれに仕事を斡旋してはいるが、その数は増える一方で全く手が追いついていない。

 その間にも体調を崩す者、病に伏せる者は続出しているが、彼らは総じて手持ちのお金などない。

 精道符1枚、包帯1個といえども金がかかることには変わりない。持ち出しに次ぐ持ち出しで、膨れ上がっていく借金は全てガザンの両肩へとのしかかる。


 その辺りの事情に通じている女性は口を尖らして小言を洩らした。

「バンジェット商会からの借金の返済の為に、何もわざわざ先生がカザクラ大公家のお抱えになんてならなくても。それじゃ体の良い身売りじゃないですか」

「そう悪く言うもんじゃないな。バンジェット商会の南都支店長にはとても世話になってる。それにお抱えになっても月の半分はこちらに来ても良いと、カザクラのエルマイネ様は約束してくれたのだから。ありがたい事だよ。本当に」

「どうだか」

 ふん、と女性はにべもなく鼻を鳴らす。


「大貴族様の言う事なんてどれほど信用出来るもんだか分かりゃしませんって」

「貴族は嫌いかい?」

「好き嫌いじゃありません。そもそも住む世界が違い過ぎますからね。先生だって、こんな所いつだって見捨てたって構わないんですからね? 先生なら他のどんな所でも引く手数多でしょうに。勿体無いったらありゃしない」


 口は悪いが、わずかばかりの給金に文句も言わずに働いてくれているのだからお互い様なのでは。

 そう口にした所ですぐに否定が返ってくるだろうからと、ガザンはその先の言葉を飲み込んで苦笑いで誤魔化した。


 そして、一息つき、名ばかりの診療所へ戻ろうとした時だった。バキバキバキという木材の軋む音とともに、怒声と悲鳴のまじった衝撃音がどっと湧き上がる。


「……先生!」

「事故か!? 何があった!?」


 バッと身を翻して天幕から飛び出す。音の聞こえた場所はそう遠くはない。

 一際大きな悲鳴があがり、不安と恐怖の入り混じったどよめきの中をその場へと急ぐ。

 もしかしたら事故が起きたのかもしれない。積み荷が崩れ、多数の死傷者を出した事故は、実際に一年前にも起きている。


「なっ……!?」


 だが、人だかりを掻き分けて前へと出たガザンが目にした光景は、思っていたのとは全く違ったものだった。


「汚ねぇなっ、トロトロしてんじゃねぇ!」

「おら邪魔だ邪魔だ! ぶっつぶされてぇか!」

「ほらよ! もういっちょ景気よくいくぜ!」


 ハンマーや斧を持った男達が天幕に群がっている。轟音と共にか細い支柱が叩き折られ、その中にあったわずかばかりの荷物もろともあっという間に叩き潰されて行く。

 逃げ惑う者。その場にうずくまる者達は老若男女の区別なく引きずり出され、容赦の無い暴力が振るわれる。


「何をやっているんだ!」


 足蹴にされていた少年の前へと飛びだし、その身を庇うように立ち塞がる。


「自分達が何をしているか分かっているのか!? 誰か、すぐに警務師に連絡をしてくれ! 急ぐんだ!」


 荒くれ同士の喧嘩など日常茶飯事とはいえ、非人道的な暴行が許される訳ではない。外套を脱ぎ、理不尽な暴行に血まみれのまま震える少年をくるむ。

 だが、周りへと呼びかけたガザンのその言葉に、男達はニヤニヤと卑しい笑いを浮かべた。


「警務師ならいるだろが。何言ってやがる」

「何を……」


 卑しい笑みのままに男の内の1人が差し出したのは、犬を象った警務師の紋章が刻まれた徽章であった。

 思わず息を飲む。そんな彼の様子に男達からどっと嘲笑の渦が巻き起こった。


「田舎にもほどがあらぁ! 皇帝さんが棄民は蹴散らせって言ったのを知らねぇのか、全く。俺達はそのために雇われた、れっきとした警務師様よ」

「そんな、馬鹿な。何を言って……」

「あー、申し訳ありません。こちらに見えるのが明後日とお聞きしておりましたので、突然の事で遅れてしまいました」

 

 すっとガザンの前に人影が差す。

 さり気なく男達とガザンとの間に割り込んで来たのは、濃茶の髪を無造作に襟足でまとめた中年の男だった。

  

「何だ? お前は」

 顔を顰める男に彼は慇懃に頭を下げる。

「私は南都台の正参預を務めておりますユベール=オルヴィニタ=セプティアと申します。ささやかではありますが歓待のご用意がございます。皆様どうぞ南都台の方へお越しください」


 男はうん、とも、ふぅんともつかぬ声を洩らして背後に広がる棄民天幕の群れをぞんざいに顎でしゃくった。

「正参預さんよ、こりゃ一体どういう事だ?」

「……と、言いますと?」

「本隊が来る前に様子見で来てみりゃ、まるでゴミ溜めじゃねぇか。どれだけ俺達を働かせるつもりだ? あん?」

「重ね重ね、申し訳ありません。あとは私どもが引き継ぎますので、どうぞ長旅の疲れを先に癒やして下さい」


 頭を下げるユベールの後ろで彼に付き従って来た部下達が怪我人を丁寧に助け起こし、肩を貸す。その内の1人が不満げに顔をしかめたのを、男達の1人が見咎めた。


「おい、そこのヤツ! 言いたいことがあれば言えよ、オラァ!!」

 男は手近にうずくまっていた老婆をおもむろに蹴り飛ばした。か細い老婆の体が枯れ枝のごとき容易さで地面に転がる。飛び跳ねた泥が男の靴に飛び散り、斑に跡を残す。

 男はその足を横柄に突き出した。


「お前達が無能なおかげで靴が汚れちまったんだがな? 無能なら無能らしく、ひざまづいて磨いていけ」

「それは気づきませんで。今すぐに」

 さっと1歩前に出たユベールを制して、男はユベールの部下の1人を指差す。

「お前じゃねぇ。俺はそこのそいつに言ってんだ」

「いえ、部下の不始末は私の責任でもあります。それに未熟な者に治安維持隊の皆様の靴を磨かせる訳には参りませんので」

「……ちっ! 邪魔くせえ!」

 その場に屈んで靴を磨こうとしたユベールの顔面を男の靴が直撃した。

「俺達はとっとと引き上げるから、てめえらでしっかり片付けとけ!」


 周りを威嚇しながら男達は立ち去って行った。その忌々しい姿が見えなくなった後、周りの偵吏達がユベールに駆け寄る。


「正参与殿! 大丈夫ですか!?」

「俺の事はいい。それよりも怪我人に急いで手当てを」


 ちっくしょう、思い切りやりやがって、と悪態を吐きながら彼は蹴られた顔面をさする。そんなユベールにガザンは声を掛けた。


「南都台の長に酷い事をする。怪我の具合を見せて下さい」

「……あんたは? 棄民には見えんが」

「ここで医療に従事してる白緑士です。あの者達は一体?」

「警務大務殿直属として結成された治安維持隊とかいう名のゴロツキさ。奴ら、とうとう南都にまで来やがった」

「治安維持隊……」

「棄民専門に取り締まるクズだよ、クズ」

「はっきり言いますねぇ」

 自然と口元が緩む。貴族とは思えない直截な物の言い方が好感の持てる男だ。


 ピッと1枚、手元の精道符帳から破り取ると、腫れ始めた患部にかざして指輪の嵌った右手でなぞる。淡い緑の光が湧き起って痛々しい傷跡に降り注いでいく。


「これで大分、腫れは引いたはずですが」

「お? おぉ! すごい腕前だな、あんた」

 ユベールは元通りになった自らの顔面をさすりながら感嘆の声を上げた。

 手放しで感動している彼の姿に今度こそ、声を出して笑いながら「しばらくは頬の辺りに動かし辛さが残りますが、数日で消えます」

「すごいもんだな。玉都外でこれ程の腕を持った白緑士がいるなんざ思わなかった」

「そんな大した腕じゃないですよ」

「いやいやいや」


 なおも頬をさするユベールの手が周囲の惨状を前にぴたりと止まる。

 無惨に打ち倒された天幕に、散らばった荷物。呻く声に怨嗟の泣き声が覆いかぶさる。

「……ひでぇ」

 ユベールの顎に力が籠る。奥歯が軋む程に歯を噛み締めた彼の口から懊悩の滲んだ声が押し出された。


「……すまんな。何をしてやる事も出来なくて。本当に、……すまん」


 警務師南都台長官の嘆きは弱々しく宙に消えて行った。

 ガザンは薄らと冷えて行く背筋を感じながら、これから来るであろう苦難の日々にただ口元を引き締めた。

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