第3話 遠い死

 コンコンと性急にノックがされる。

 自室で休んでいたナギハは寄りかかっていたソファーから身を起こした。


 どうぞ、とかかる声を待ちかねて一拍早く扉が開く。

 扉の向こうにあったのは頬を紅潮させて肩で息をするフェスタローゼの姿であった。恐らくは全力疾走して来たのであろう。汗に濡れた前髪が額に張り付いている。


 フェスタローゼは滴る汗を拭くのも煩わしい、といった風情でいい加減に顎下を拭って、一直線にナギハの前へとやって来た。


「何だ、どうした。暑苦しいな」

「ナギハ殿、あれは一体どういう事ですか」

「あれはと言われてもどれだか分からないな」

 ピンと来ていないナギハにフェスタローゼも吐息一つ洩らして「キカから聞きました」と厳かに告げる。フェスタローゼの生真面目に吊り上がった眉がぴくぴくと揺れている。


「北都ノスフェラトゥで国外遠征の準備が行われていると。キカ達は南都に課せられた軍備物資をカザクラ家に買い付けに来たって」

「南都には樹人活動期にはいつも世話になっておる。兵の供出は免れてもかかる負担は大きい。困った時はお互い様だからな。当領地で用意できる物を格安で売っただけだ。それが何か?」

 問題はそこではない、とばかりにもどかしくフェスタローゼは首を振る。彼女は澄んだ碧眼を見開いて、ほとんど叫ぶようにして言った。

「現状、帝国の周辺で遠征の目標になる場所、それも北都に軍を集めるという事は、その先にあるのは限られています!」


 ナギハは自らの向かいを指し示して、ゆったりとソファーのクッションに背を当てた。

「……領土問題に端を発したシャン=ルーと紫翠国の紛争は、どうやら紫翠国側が優勢のまま事を終えようとしているらしいな。シャン=ルーと同盟を結ぶ帝国としてはこれをこのまま見過ごす訳にはいかぬ、というのが中央の見解だ」

「しかけたのはシャン=ルーの方です! だからこそ帝国はこの問題に関しての介入は見送ると父上は確かにおっしゃっていました。それが何故今になって遠征などという話に!」

「ここで憤っておっても始まらぬ。落ち着け」

 

 フェスタローゼは憤然としたままに唇を噛んだ。帝国の不可解な動きに対する怒りと不審感が膝に乗せた両の拳にぐっと力を込めさせる。

 前のめりになるフェスタローゼとは逆に、ナギハはぐっと背を反らして天井を仰いだ。


「名目上はフェストーナ第二皇女の進言によるものとなっておるが、裏で青写真を引いているのは噂の警務大務で間違いないだろう」

 何故、警務師が……と呟いてフェスタローゼは眉間に皺を寄せる。

「軍事なら軍務師、外交であれば礼綱師。なのにそれらをさしおいて何故警務大務が」

 確かに、とナギハもフェスタローゼの意見に同意した。こればかりは誰がどう見ても横紙破りもいいところだ。官制八師それぞれに定められた役割の範疇をどう考えても越えている。

 

「ファルスフィールド前法主の失脚から約1年。中央の権力構造はがらりと様相を変えた。その中でも特にランディバル候グリゼルダは第二皇女を擁して一気に権力の中枢へと入り込んで以降、やりたい放題に振る舞っておるらしいな」

「けど、だからと言って!」

「おおよそ察しはつく。どこぞの行方不明になった皇太子の廃嫡をいつまで経っても認めようとしない皇帝に焦れ、第二皇女に分かりやすい実績を持たせたかったのであろう」

「つまりはフェストーナを皇太子にするために」

 フェスタローゼは目を伏せた。

 正直、ランディバル侯グリゼルダのことは良く知らない。しかしフェストーナの方なら嫌という程に良く知っている。兄が死んで以降の彼女が露骨に皇太子の地位を欲していたことも。

 しかし、これは彼女とランディバル侯の権力欲だけで動いていいことではない。

 フェスタローゼは決然と目を上げた。


「けれどもしそれで帝国と紫翠国との間で戦端が開かれてしまえば、事はそれだけに済まなくなります! 和佐殿下にもどう顔向けすれば良いか!」

「何、心配せずとも遠征軍の規模から見ても武力衝突はまず無いであろうて。第二皇女の進言によって遠征が為されたのだという実績が欲しいに過ぎぬ。帝国が動く。ただそれだけの事であっても諸国に与える影響は大きい。悪戯に兵を失うリスクを冒すとも思えん。」

 小賢しいことよ、とナギハはソファの肘置きに頬杖をついた。皮肉気に歪められた瞳にふと、影が差す。

「ただ、そうだな。自らの命と引き換えに親書を国元へと届けた彼の国の第三王子にしてみれば、ひたすらに無念と言えよう」

「……ナギハ殿、今なんて?」


 目を見張ったフェスタローゼにナギハはくっきりとした眉を沈痛に顰めた。

「親書を賜った使節団はその帰路にてトレンタマイアの襲撃にあい、使節を率いていた第三王子は命を落としたそうだ。それでも生き残った者達が何とか親書を無事に国へ届けたというのに、その親書がこうも簡単に反故にされようとはな」

「和佐殿下が、……死んだ? 嘘だ……そんな事」

 理解が追い付かない。

 フェスタローゼの両脇をナギハの静かな声がすり抜けて行く。

「第三王子は遺体も無いままに国葬にて弔われたそうだ。護衛についていた武門の家の当主が追腹を切り、家は取り潰しにあったと聞くが、……何とも不憫な」

 

 フェスタローゼの中で気の良い主従の姿が浮かぶ。まるで姉弟のように寄り添っていた和佐と砂霞の姿が。あの2人にそんな結末が襲いかかっていたとは。

 しかも帰国の途上という事は、和佐の死から既に2年近くも経過していることになる。

 

 和佐の帰国後、急速に悪化して行く自らの立場を思う時、異端審問の合間に、その後の逃亡の日々で。

『同じ月を見ている』

 別れの手紙に書かれていた言葉をよすがに、月を見上げては和佐に思いを馳せていたのに。その頃には彼は既にこの世にはいなかったのだ。


 あの日、最初で最後のダンスを共に踊った日。側近くに迫ったあの鳶色の瞳も、茶目っ気強く微笑んだあの笑顔も。全て2年前に失われていた。その事実が何よりもフェスタローゼを打ちのめした。

 

「……和佐殿下はとても聡明で思慮深く、お優しい方でした」


 万感の思いを込めて呟く。淡い心を寄せた優美な彼の姿を思い起こしながら。応えるナギハの声は穏やかで、優しさに満ちていた。

「そうか。……惜しい方であったのだな」

「……はい」

「少し休め。後の事はそれからにしよう」

 フェスタローゼはこくりと頷いて大人しく立ち上がる。退出する彼女をナギハは黙ったまま見送った。


 扉を締めた後、フェスタローゼは俯いたまま胸元を強く握り込み、こみあげる慟哭を精一杯の意思の力で抑え込んだ。

 関節が白く浮き上がる程に力を込めた指が空しく震えていた。

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