第2話 夜這いの流儀

 キカは空の果てから波状の雲が広がる秋空をふと見上げた。

 かざした指の間で降り注ぐ陽光がたおやかにきらめく。通り過ぎる微風が薄らと汗をかいた肌に心地よく、ついつい足を止めてしまった。


「ほら、キカ! 籠!」というフェスタローゼの声と共に土まみれのクラッパの実が抱えている籠に飛び込んでくる。

 

 ずしり、と急に来た重みに慌てて籠を抱え直す。その拍子にコロンと畑に落ちたクラッパを土の中から顔を出したハヤカゼが瞬時に咥えて地中に消えてしまった。

「あぁ、こら! ハヤカゼ!!」


 もう、と嘆息を洩らしてフェスタローゼが立ち上がる。彼女は泥だらけの手を前掛けで拭って、腰を気持ちよさそうに伸ばした。


「ちょっと休もうか」

「あぁ」と返すと、フェスタローゼは何故か目をぱちくりと瞬かせる。

「何?」

「やだなぁ、何か慣れないなぁ。目線の高さが同じなんだもん」

「俺もう16だぞ。いつまでもローザより小さかったらやばいだろ。色々」

「昔はこんなに小さかったのに」

 おどけた仕草で、こんなもん、とフェスタローゼは親指と人差し指で指し示す。

「俺は豆か!」

 キカの突っ込みにフェスタローゼはころころと如何にも楽しそうに笑った。明け透けに輝くその顔に、普段の充足振りが見て取れてつい嬉しくなってしまう。


「ローザ、変わったな」

 素直にそう言うと、フェスタローゼは「そうかな?」とはにかむ。

「変わった。明るくなった」

「キカは逞しくなったね」

「毎日、ワインの入った箱を抱えて走り回っているからな」

 2人の目が合う。キカとフェスタローゼは、ふふ、と同時に笑みを洩らした。


「ねぇ、キカ」

「ん?」

 フェスタローゼの口調が急に真剣味を帯びる。怪訝な表情で彼女を見たキカに、フェスタローゼは口調と違わぬ真摯な面差しで告げた。


「ありがとう」

「何が?」

「森の中で私を見つけてくれて。あの出会いがなければ、私はきっとここまで来れなかった。キカとピッケは私の恩人だよ」

「……よせよ。そんな大袈裟なモンじゃぁねぇよ」


 照れ隠しにわざと蓮っ葉に言い捨てたキカに、フェスタローゼは、ううんと首を振る。

「私が色んな失敗をしてもキカはいつでも笑い飛ばしてくれて、一度も私を馬鹿にしなかった。ピッケは」

 

 不意にこみ上げて来た感情の塊に思わず声が震えた。フェスタローゼの瞳が薄らと光を帯びて、澄んだ光を放つ。

「そのままでいい、って最期に言ってくれた。2人共、ありのままの私を受け入れてくれた」

 ありがとう。

 秋風がフェスタローゼの涙と言葉を軽やかに攫って行く。ややあってキカは手を伸ばしてぎゅっと強めにその目元を拭った。


「痛い、痛い!」

 フェスタローゼがキカの手を振り払って目元をさする。キカは、べっと舌を突き出して子憎たらしく言い返した。

「湿っぽくするからだよ」

「だからってー! 目が潰れる」

「笑って行こうぜ。じいちゃんもきっとそれを願っている」

「……うん」

 泣いてんじゃねぇよ、とキカがフェスタローゼを小突く。

「泣いてないし! これは、アレよアレ!」

「ふぅん」

「もう、いいからっ、やるよ!!」

 

 

 幼子のように追いかけあう二人を微笑ましく見守りながら、ハルツグはそっと小さく息をつく。


 やっとキカとフェスタローゼとを再会させることが出来た。寄り添って作業をしていた2人は本物の姉弟さながらで、ようやくにして約束を果たせた事に安堵する。


「ありがとう。……ピッケさん」


 その出会いはフェスタローゼにとって大切なものだったのだろう。だからこその今がある。出来れば生きている内にお会いしたかったと、後悔も残る。会って、直接お礼を言えたらどんなに良かったことか。しかし、それはもう叶わない。


 ハルツグは木陰に佇みながら、見知らぬままに散ってしまったピッケの魂に静かに黙祷を捧げた。


◆◇◆


 カザクラの屋敷を見下ろす小高い丘の上。満天の星空からそそぐかすかな明かりに、枝木が夜風に葉を散らす。薄ぼんやりとした夜闇がほのかに揺らぐ。


 地に落ちる影。そこに出来たほんのわずかな歪みから降り立つと、シェラスタンはその地に静かに舞い降りた。


 エフィオンは精道と同化し、その中を自由に行き来する事が出来る。無論、それには幾許かの熟練を要しはするが、使いこなす事が出来れば千里の距離も無きに等しい。


「カザクラ大公家。帝国領南方の守護者か。よもやこのような所に隠れていようとはな」


 その技を以てしてさえ、見つけ出すには1年半という月日を要した。上手く隠したものだと感心さえする。

 誰の仕業かは考えるまでもない。脳裏に浮かぶ薄ら笑いに忌々しさを覚え、それを振り払うようにして眼下のカザクラの屋敷に視線を向けた。


 感じる気配は未だ微量。だが、確実にその時が迫っているのが分かる。まず間違いはないだろう。


 1年半前、森の中で偶然出会った黄金の芽。


「摘み取るなら早い方が良いのは道理だな」

「こんな深夜に不躾な来訪とはな。マナーを知らんと見える」

 夜風に洩れた独り言に答える声があった。


 大気が震え、目には見えない力と力がぶつかりあってつむじ風が夜空を覆う。ほのかな星の瞬きの内に、ピリリッとした冷気がその場に張り詰めた。


 至極ゆったりとした動作で、ナギハがシェラスタンの行く手を遮るようにして立ち塞がる。一見して年端もいかない少女のようにしか見えないが、シェラスタンはそこでつと歩みを止めた。


「ナギハか。孤高を貫いていた貴様がまさかここにきて帝国エフィオン側に組するとはな。時を重ね、日和ったとみえる」

「ぬかしおる。ワシはどちらにも肩入れはせぬし、どうこうする気もない。ただ、カザクラに害を為すのであれば全身全霊を以てこれを叩き潰すだけの事」

「……精道の損耗が激しいな。惜しいぞナギハ。かつての全盛期の貴様であれば、この俺と対等に闘えたかもしれぬのにな」

「お主の誘いを断った時の話か? 随分と昔の話をする」


 言いながら、ナギハが鞘から刀身を抜き放つ。夜の静寂に星の光を返す切っ先はわずかのブレも無く、まっすぐにシェラスタンへと向けられた。


「ならば今一度試してみるか。シェラスタンよ」


 だが、シェラスタンは向けられる敵意をさらりと受け流し、そっと目を伏せてみせる。

 随分と昔の話。確かにそうだ。いつの間にかそれだけの時間が過ぎているのだと、かすかに自嘲の笑みをこぼした。


「精道とはまさに揺蕩う大河の如く雄大であり続ける。今も昔も、変わらずにずっと。我らはその中に浮かぶ葉の一片に過ぎぬのだ。……この俺も、そして貴様も同じように」

「……何が言いたい」

「流れ満るものであれば時とともに姿も変わる。不変でありながらもその姿は一定ではない。だが、何故その正邪を定めて一方を否定しようとするのか。そんなものは人の驕りに過ぎない。だからこそ俺は、その傲慢さを許す訳にはいかぬのだ」

「小難しい事を考えるものだな。変わらぬよ、お主は」

「ナギハよ。我らと共に来い。このままではいづれ自身の破綻が近い事は、貴様もよく分かっているだろう。今からでも遅くはない。帝国エフィオン共と袂をわかつ貴様だからこそ、おめおめと死なすには惜しい」

「いらぬ世話だ。……お主は難しく考え過ぎておる。この世界の理はもっと単純なのだよ。人はそれぞれに守りたいものがあり、それを全力で守ろうとする。それだけの事だ」

「相容れぬか。……それも仕方あるまい」


 一寸もだじろぐ事なく向けられるナギハの眼差しを受け止めると、シェラスタンは静かにそっとナギハに背中を向けた。


「……何のつもりだ?」

「今はまだ、貴様とここでやりあうつもりはない。……面倒で忌々しいヤツも見てるのでな」

「若い娘に夜這いかけるにはちぃっとばかしおっさんが過ぎるからな。黙って見過ごす訳にもいかんだろ。このエロジジィが」

 新たに割り込んで来た聞き馴染みのある声に、ナギハは目を見張った。


「……リスタルテ。お主、いつから」

 2人がいるすぐ脇の木立で、退屈そうに腕を組んで木にもたれ掛かっていたリスタルテがわざとらしく欠伸をこらえる。

 南都にいるはずの捻くれ者の登場にナギハは驚きを隠せず、シェラスタンは忌々しそうに顔を背けた。


「今日の所は見逃してやる。だが、次があると思うな」と言ったシェラスタンにリスタルテは片手でぞんざいに手を振る。

「帰れ帰れ。そんで二度と来るな」

「子供の喧嘩ではないんだが……」

 リスタルテはナギハの困惑した顔を見やって、ふん、と鼻先で嗤った。

「捻くれた駄々っ子だろ。頭の硬さは相変わらずだし、本当にうんざりする奴だよ。いつまで昔の事をひきずってんだか」

「……捻くれ。お主がそれを言うか」


 今にもべーと舌を出しそうなリスタルテには一切目もくれず、踏み出したシェラスタンの身体が精道に包まれる。


「ナギハよ。……無駄死にはするな」


 一言だけ言い残すと、そのまますっと精道の中へ溶け込んでいく。やがて、その気配すらもその場からすっかりと消え失せた。


「やれやれ。……面倒なヤツだな。本気で二度と来んな」


 心の底から言ってそうなリスタルテに思わず呆れ、「どいつもこいつも」と、ナギハは自身が守り続けるカザクラの屋敷へと振り返る。


 守りたいもの。守り続けたい大切なもの。

 そしてそこにいる、大事な預かり物。


「そろそろ、……潮時かもしれんな」

「そう、……だな」


 独り言ちたナギハの言葉にリスタルテは振り向きもせず、静かにそれを受け入れた。

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