第17話 その果てにあるもの
シャルロットの細い肩が上下している。
開け放った扉を片手で押えて、滑らかな頬を薄らと上気させた彼女は可憐そのものだった。
「あの」と言いかけてシャルロットは口を噤む。
困惑、疑問、怒り。様々な感情が彼女の顔で渦巻いて、容易に言葉を出せない。そんなシャルロットの手に握られた一通の手紙にザインベルグの顔がつと暗くなる。
「届きましたか」
そうザインベルグが呟くと、彼女は急につかつかと室内に入って来て、彼の鼻先に花印付きの手紙をひっぱたく勢いで突き出した。
「アルフレッド様、これは一体どういうことでしょう」
困惑、疑問、よりも怒りの方が勝った彼女の声音は震えていた。ザインベルグは手紙を片手で押しやって、冷静に答える。
「そのままですが。何か不備でも」
「不備とかそういう事ではなく! 婚約解消とはどういう事か、と聞いているのです!!」
「……あぁ」と部屋の隅からキリエの嘆息が上がった。
彼をちらりと見ると、澄まし込んだ表情で当然とばかりに部屋の隅に鎮座している。ザインベルグは苛立ちと気まずさを咳払いでごまかして続けた。
「私はあなたと結婚することはできません」
シャルロットの視線が揺れる。彼女はしばらくの間、答えを求めてザインベルグの表情を探った挙句、ゆっくりと首を振った。
「嫌です」
「嫌です、と言われましても」
ザインベルグは仕方なく口を開いた。
「元々、官僚貴族で領地がない上に大務を辞して地位もない。そんな当家に貴方を迎えることはできない。お分かりいただけませんか」
「当面の面倒は見るとお父様が」
「ご厚意誠にありがたいが、お受けする気はございません」
えぇ……、という背中側からの抗議はとりあえず無視する。
「すぐに明日の費えに困る訳でもないですし。妹と2人、生活して行くくらいのものはあります」
「ですがお父様は貴方の才を欲しておいでなのです」
「何も私でなくとも他にもみえるでしょう」
「器量のぞみならぬ才のぞみなんざ、いいお話じゃあござんせんか」と不意に無責任な声が割り込んで来た。
「お前はいつまでそこにいる気だ」
さすがに我慢ならず睨み付けるも、キリエはけろりと笑って返す。
「あっしはそのお嬢様を気に入りましたがね。婚約解消と聞いて、伴もつけずに乗り込んで来るなんざ素敵な無鉄砲じゃないですか。旦那の奥方になる方はその位やらかす方じゃないと」
「……や、やらかす」
シャルロットが小さく呻いた。
強張っていた頬が徐々に紅潮して行く。
「それに旦那程、男振りのいい者は早々おりやせん。あっしが女だったら是非とも睦み合いたいところで」
「口を慎め、キリエ!」
露骨に過ぎる言い方に思わずシャルロットの背を抱き寄せて鋭く言い返した。直後、にやりと不敵に笑ったキリエにしてやられた、と悟る。
「これはとんだ不調法を。色街育ちの無礼者故、誠に申し訳ございません」
ぴょこんと立ち上がって、キリエは深く頭を下げた。
それから寄り添う2人を見比べて「もう答えは出ているように思いますがね?」と面白そうに付け加える。
お祝いの品は確かにお届けしやしたから、という言葉を置き土産に色街の使い烏は飄々と退出して行った。
残された2人に沈黙が訪れる。
ザインベルグはシャルロットの背に回していた手をぎこちなく降ろして、「あういう男なので誠に申し訳ない」と誤魔化した。
「いえ……あの、大丈夫ですわ」
「まさか飛び込んでいらっしゃるとは思いませんでした」
「はしたないことを……お父様には落ち着けと言われたのですが、矢も盾もたまらず……」
ザインベルグの言葉にシャルロットは悄然とうなだれてしまう。
「ですが何故この婚姻にそこまで。条件の良い縁とは言えないでしょう」
「……言いたくありません」
そう言ってシャルロットはぎゅうと両手を握りしめた。
今までの饒舌が一転。貝の如くに口を閉ざした彼女はそのまましばらく面を伏せていたが、ややあって消え入りそうな声で情けなく洩らした。
「……言わなければなりませんか?」
「聞かせていただけるのならば」
「あの……」と前置きして、シャルロットは上目遣いで「気持ち悪く思わないでくださいませね?」と念押しして来る。
「えぇ、まぁ」
戸惑いつつ先を促すと、彼女は握った拳を開いたり閉じたりしながら訥々と語り出した。
「わたくし、6歳の頃から大事にしている宝物がございますの」
「はぁ」
突飛な方向に飛んで行った意図が分からずにただ相槌を打った。シャルロットは相変わらず、顔を伏せたままぼそぼそと話している。
「咲き誇る薔薇園を背景に少年が微笑んでいる絵ですわ」
ザインベルグは黙り込んだ。
「出入りの画商が持ち込んだ絵ですの。わたくし一目でそれを気に入って、ずっと寝室の壁にかけて、その……あの」
両手の動きが一層忙しくなる。
「毎日……語り掛けておりまして……」
「毎日、語り掛ける……?」
彼女は顔を覆ってしまった。両手から洩れた耳の先は真っ赤に染まっている。
「……もしその絵がフォーサイシン公爵のものならば、モデルは私ですね。多分、12歳の頃です」
「えぇ……存じております」
「えっと、つまり……6歳の頃からずっと絵の中の私に毎日語り掛けていたと?」
「改めておっしゃらないでくださいまし! わ、わたくしも人に申し上げられない癖であるのは充分に自覚しております」
「あの……何か……申し訳ない」
だから言いたくなかった、と、か細く呟いてシャルロットは再び顔を伏せてしまった。気詰まりな沈黙が周囲に立ち込める。
「わたくしだって、自分の妄想と目の前のアルフレッド様が同じとは思っておりません」
唐突にシャルロットがぽつりと言った。
目を伏せたままのため、睫毛が頼りなく揺れる以外に彼女の表情を推し量ることは出来ない。
「本当のあなたはわたくしの中の少年よりも素っ気なくて、すぐに仕事に夢中になってわたくしを忘れて。お世辞にも気の利いた方とは言えませんわ」
「それは申し訳ない……」
図星に過ぎる指摘にぐうの音もでない。素直に頭を垂れた様に、彼女は羞恥で潤んでいた瞳を細めた。
「でもアルフレッド様はお優しい。そこだけはわたくしの想像以上でした」
「そうですか」
えぇ、とシャルロットは頷く。
最初から感じていたシャルロットの不可解な好意の正体は思いもよらぬものだった。
フォーサイシン公爵の元で過ごした10年間は過酷とまではいかなくとも、神経をすり減らす日々ではあった。
しかしあの日々が今日のこの日、この
ザインベルグの表情が知らず知らずの内に自然な笑みに解けて行く。
「……苦労をかけますよ」
「そういう風に気を回すところも、本当にお優しい」
シャルロットは小首を傾げて返す。2人の視線が初めて絡み合った。
ザインベルグは彼女の手の内にある手紙に手を添える。
「……大変に失礼な手紙を差し上げましたが、今からでも撤回できますか?」
◆◇◆
ドゥール=ベルテシアの近くにあるジョーディのヴィラでは談笑の声が弾けていた。
花の盛りを終えた薔薇が微かに抜ける熱風にそっと葉を震わせる。窓越しに揺れる薔薇の茂みを背景にジョーディは優雅な仕草で紅茶茶碗を持ち上げた。
「いやぁ。殿下の機転のおかげで今回は非常に助かりました。改めてお礼申しあげます」
「私のしたことは遠征中のラハルト様にお手紙を差し上げたことだけですよ」
エシュルバルドはすらりと伸びた足を組み換えて、笑みを含んだ声で答える。その声はあどけなさの抜けた、低く落ち着いたものだった。
しかも、と彼は背後に立つレトを見上げる。
「手紙を持って精道を行ったのはこのレトです」
「その采配が素晴らしいのですよ。レト殿のおかげで妖魔討伐も相当にはかどったでしょうからね」
「お役に立てたようで安心致しました」
品良く綺麗に目元を綻ばせてエシュルバルドは紅茶を一口飲んだ。
「妖魔討伐にはハルツグ殿も参加されたらしいですね。私もお会いしたかった」
「あの人は本来、武闘派ですから。思う存分に暴れ回って、そそくさと南都に戻りましたよ」と言ったレトの顔に人の悪い茶目っ気が広がった。
「何でも南都で少年の面倒を見ているとか。だから余り空けられないと」
「ほぉ。てっきりお姉様とご一緒なのかと思っておりましたが」
“お姉様”という単語がエシュルバルドの中の寂しさを掻きたてる。
彼は口に運び掛けていた茶碗を下に降ろして両手で抱えた。そういう仕草をすると年相応の少年らしさが俄然前に出て来る。
「……お姉様はどうしていらっしゃるのかな。もう半年以上にもなる」
「まぁ、色々ありましたが今はラムダ殿と共にカザクラ大公領におみえです。元気にお過ごしらしいですよ」
「そうですか」と、そのまま茶碗を戻してエシュルバルドは不安に瞳を曇らせた。
「お姉様には必ず玉都にお戻りいただきます。それまでは例えどのような手を使っても、お姉様の戻るべき場所を守り続けなければなりません」
「全く以て同意です」
「ジョーディ殿。貴方の真意がどこにあろうともと、そう言っているのですよ」
一見した幼さの中に秘められた聡い視線が、飄々たる青年貴族を鋭く見定める。だが当人は欠片も身構える素振りも見せず、紅茶茶碗の中身を匙でさらりとくゆらせるに済まてみせた。
「確かに『私達』にとって、フェスタローゼ殿下が皇太子であるかどうかは些細な問題に過ぎません。……ただ、彼の御方が少しでも戻りやすいように場を整えて置きたかったのは本当です」
「今は信じましょう」
「賢明な御方だ。大丈夫、悪いようにはしませんよ。多分ね」
エシュルバルドが澄んだ瞳でジョーディを見つめる。
一方のジョーディは、エシュルバルドの背後に立つレトの渋面に一瞥くれてから、無辜の子供のような無邪気な笑顔をエシュルバルドに返した。
◆◇◆
皇庭の一角にある星辰宮・
「本当に今度のことでは乳母が相当に参っておりまして。わたくしも心配しておりますの」
「それは何てお労しいこと」
情感たっぷりに言い上げて、グリゼルダは共に溜息をつく。
「確か、乳母のマスティア伯爵夫人は法主殿と縁続きでしたわね? それはお辛い立場ですわね。それに殿下もさぞかし不安なのでは?」
優しく問い掛けられたフェストーナは視線を自らの膝に落として小さく頷いた。
「ランディバル侯……でしたわよね。あなたならどうにかしてくださるのかしら」
「ご安心くださいませ、殿下」
バサリ、と透かし模様の入った見事な扇が広がる。グリゼルダは扇の影で目を眇めてうつむくフェストーナを見透かした。
「以後、どうぞよしなに」
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