第16話 振り合う手

 法主の逃走から約ひと月。

 闇に潜んだ彼の行方は杳として知れないままだ。

 ザインベルグはグリゼルダとの密約通りに警務大務を辞任し、10数年勤めた古巣を去った。

 そして本日は警務師南都台に異動となったユベール一家を見送るため、ナタンと共に朝からセプティア家を訪れていた。 


 ころころとした影がセプティア家の玄関前に立つザインベルグに駆け寄って来る。


「アールフ!!」

 

 まだ“アルフレッド”と言えない舌足らずな可愛らしい声と共に足に取りついた幼子を、ザインベルグは笑顔で抱き上げた。掲げた幼子の向こうで真夏の空がどこまでも青く冴え渡る。今日も暑くなりそうだ。


「テネル、昨日は寝れたかい?」と尋ねると、ユベールの三女は明るく輝く瞳をにっこりと細めてしっかりと頷く。

「テネル、ちゃんと寝たよ! 遠くに行くもん!」

「それは偉いね」

 テネルは誇らしそうに鼻を膨らませてから、小首を傾げてザインベルグを見上げた。

「アールフ、新しいお家に遊びに来ていいからね?」

「そうかい、ありがとう」

「何なら一緒に行くか」

 

 軽口を叩きながらユベールがやって来る。彼の後ろには長女フェリシーと次女のマリアンヌが続いていた。

 あどけない盛りのテネルを父に渡し、ザインベルグは最後にやって来たユベールの妻・デジレに頭を下げる。


「すまない、デジレ殿。私の力が及ばないばかりに」

「それはもう聞き飽きましたわ、アルフレッド様」

 さっぱりとした口調で返して、デジレは人好きのする笑顔になる。丸い頬をふっくりとさせて笑う様はまんまテネルだ。


「こんな事でもないと南都に行く事なんてまずございませんもの。たっぷり堪能して来ますわ」

「しかし」とフェリシーとマリアンヌに目をやる。


 事情の分からぬままにワクワクしているテネルと違い、上2人は南都下りをはしゃぐ気にはなれないだろう。特に多感な年齢の長女フェリシーの瞼は腫れぼったくなっており、泣き明かしたことを雄弁に語っていた。


「何事も経験ですわ。人生なんてくよくよしても始まりませんもの。ね?」

 最後の「ね?」を優しく投げかけて、デジレは長女と次女をその頼もしい両腕で抱き寄せる。ザインベルグを真っ直ぐ見上げたその頬に、くっきりと笑窪が出来た。

「だから私達は大丈夫ですわ。アルフレッド様こそ考え過ぎないように気をつけてくださいまし」

「はい」

 苦笑いで返す。

 彼女はお茶目に「久し振りに妹孝行でもして下さいな」と言い添えてナタンに目を向けた。


「もう……左腕は?」

「ええ。何とか切らずには済みましたが、毒の処置が間に合わず麻痺が残ると」

「そう」

 ナタンの左腕は不自然にだらりと下がったままだ。

 デジレの眉が曇る一方、当の本人は快活に歯並を見せた。

「警務師は退職せざるを得ませんでしたが、ザインベルグ様の屋敷で雇っていただけましたので。当面は大丈夫です」

「当面、とは引っ掛かる物言いだ」

 むっとして言い返したザインベルグの顔にデジレがふふ、と微笑む。

「アルフレッド様に放り出されたら是非とも当家へ来てくださいな」

「それは心強い」

 こき使いますわよぉ、とおどけて言い添えて彼女は2人の娘を促した。


「さぁ、乗りましょう。4日後までにはタスエに行かないといけませんもの」

 長女フェリシーが、絶望的にぐすと鼻を鳴らす。次女マリアンヌはそんな姉の背中を両手で後ろから押しつつ、馬車に乗り込んで行った。

 先に乗り込んでいたテネルの「大きいねぇしゃま、泣きっぱなし」と遠慮ない大声が聞こえて来る。


「……そりゃあ、不安でしょうね。玉都を離れるなんざ、考えたこともないでしょうから」

 ナタンの呟きに、親友だけは守りたかった、という悔恨が再びぎりぎりと胸に迫って来る。だがその苦い思いは不意に打ち込まれた腹への一発で霧散した。


「余計なことを考えるな。仕方ないことだ。何せ新警務大務が、よりにもよって『あの』ランディバル侯なんだからな」


 ユベールのからりとした快活な口調とは裏腹に、ザインベルクの表情がわずかに陰る。


 ザインベルグが大務を辞して後、その後釜にはランディバル候グリゼルダ本人がすぐさま就任した。抜け目のない周到さには辟易もするが、ザインベルグにはすでに何かを言う権利さえない。


「俺のことなんて真っ先にクビ切りたかったろうよ。南都台出向で済んだだけマシさ」

「だが」

「お、もう一発いるか?」

 はーと拳に息を吹くユベールに笑顔がこぼれてしまう。ユベールも拳を下げて、ははっと豪快に笑った。


「確かに、法主の逃亡を許したのは痛い。でも今まで隠され続けて来たあいつの悪事は白日に晒されたし、帝国中に手配がされた。全てが無駄だった訳ではない」

「……そうだろうか」

「そうさ!」とユベールは言い切った。

「確かにフォーン=ローディン真教会はいい方向に変化して行くでしょうね。何せ一番の癌がいなくなったのですから。それに法主代行にアデバ様が就任したのも大きい」

 ナタンもユベールに同意して深く頷いたものの、直ぐにその声を潜めて他の2人を見比べた。


「でもこれから気を付けるべきは宮廷内でしょう」

「……ランディバル侯か」

 ユベールがふむ、と太い息をついて逞しい顎にぐっと力を込めた。

「新皇内大務のムンゼー伯爵は彼女の肝いりらしいな」

「肝いりというか愛人の1人というか」

「愛人を押し込んで来たか。先が思いやられる」


 3人の間に沈黙が落ちる。

 20年に渡って政権の基盤を支えて来たヴァルンエスト侯とスルンダール上級伯を失い、ランディバル侯という新たな火種を抱えた宮廷が、この国がどこに向かうか。

 先行きは不透明で、闇夜の手探りよりもなお深い恐怖がそこにはある。


「でも、ま。ここで悩んでも仕方ない」

 今日の空のごとくに闊達に言いぬけたのはユベールだ。

 彼は高くなり始めた真夏の太陽を眩しそうに見上げて「それぞれの立場で出来ることをするしかない」と呟いて、ザインベルグを見る。


「それにお前は一応、新婚になるんだからな? どうせ暇になったのならちゃんと花嫁を迎える準備をしておけよ? リアーヌ殿に一任するなよ」

「……分かっているさ」

 曖昧に笑ったザインベルグにふとユベールが眉を顰めた。

 お前さ、と言い掛けたその背中に「とうしゃまー」とテネルの無邪気な声が掛かる。


「早くしないとお船逃げるよー?」

「それは困るなぁ。父様泣いちゃうなぁ」と答えるとユベールはザインベルグと固い握手を交わした。


「道中、気を付けて。カルラ神のご加護を」

「おぅよ。お前も元気でな」

「あぁ」

 ユベールはぽんぽんと空いた手でザインベルグの腕を叩き、ナタンに気安く片手を上げると馬車に乗り込んで行った。

 

 ぴしり、と手綱を振う音がしてゆっくりと馬車が動き始める。本宅に残る使用人達からさざ波のごとき嗚咽がひっそりと洩れる。

 見送る大人達の悲哀を余所に、窓際に陣取ってはしゃぐテネルの小さな手が最後までひらひらとあどけなく舞っていた。


◆◇◆


「お帰りなさいまし、旦那」


 ユベール一家を見送り、寂寞感を抱いて帰宅したザインベルグを迎え入れたのは、色街の胡散臭い笑顔だった。


「お前はいつから本宅こっちにも出没するようになったんだ」

 素気無く言った彼にキリエは「人を虫か何かのように」と切り返して部屋の隅にある椅子に腰を降ろす。

「いえね? 仕事の虫がぽっかりと空いた余暇にくさっちゃあいないか様子を見に来たんでさ」

「余計なお世話だな」

 水差しから乱暴に水を注いで一気に飲み干す。喉に通りきらなかった水をぐいと拭って振り返る。

「お前こそ暇な身ではないだろ。そもそも今日はお前の大好きな9日じゃないか」

「ええ。あっしの大好きな新たな娼妓を見初める禊の日ですがね」

「ならば、どうしてこんな所にいる」

「札引きなのに店札を取り上げられたからでさ」

 キリエは黒衣の袖をばさりと広げて、ぱたぱたとおどけた仕草で羽ばたいて見せる。その表情はいつも通りの人を食った、陰険な凄みのある笑い顔だ。


「入れる札もないんじゃぁ、禊に行ってもね?」

「……どういう事だ」

「ちぃーとばかし、深入りしてしまいやしたね。旦那の男振りが良過ぎて、つい」

「ランディバル侯、要は高貴なる薔薇楼か」

「下らん横槍ですよ。うちの旦那様もアデバ大教院長も随分と取り成してくださったが、あっしのために色んな方面に迷惑かけるのも」

「それは」


 言いかけて、ザインベルグはキリエに向けて深々と頭を下げた。

「すまない。私のせいだ」

「やめてくだせぇ、旦那の脳天見たくて来た訳じゃない」

 キリエがはすっぱに横を向く。彼は無作法に傍らのチェストに肘をついて、部屋の中央にある包みを爪先でぷらぷらと差した。

「今日のあっしはお届け鳥でさ。小鳥亭の旦那から預かった物を持って来ただけで」

「小鳥亭の旦那から?」

「旦那、来月には祝言でしょう。そのお祝いでやんす」

「祝言、祝言な……」


 たちまちに瞳を曇らしたザインベルグに、キリエが真剣な面持ちで身を起こす。

「まさか」と彼が口を開いたのとほぼ同時に、部屋の扉がバンっと凄い勢いで開いた。


「アルフレッド様! 婚約を破棄したいとはどういう事ですの!? きゃっ!?」


 勢いよく開き過ぎた扉が壁に当たってまた元に戻る。戻って来た扉を両手で、ドンと押し返した人物にザインベルグの両目がぽかんと丸くなった。


「おやまぁ」

 腰を浮かしかけたキリエがわざとらしく両袖で口元を覆って、ストンと座る。

 ザインベルグは戸口に立つその人の名をそっと呼んだ。


「……シャルロット殿」

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