第15話 亡国の使徒
「……腐肉腫だ。すぐに離れろ!」
「総員退避!!」
ラハルトの警告に即座に反応したユベールの指示が飛ぶ。未知なる凶事に隊列を乱しかけた警務師の偵吏達が、ユベールの檄で速やかに退避して行く。
「無様、無様!! 手も足も出まい!」
退避して行く警務師の背を法主の狂った笑い声が追いかけた。彼は自らの盾となっていた神官達さえも見捨てて、祭壇の奥にある扉に取りつく。
「待て! 法主!!」
扉に手を掛けた法主がザインベルグの声に振り返った。その顔に浮かぶのは地獄のごとき怨嗟の笑顔だ。
「地位まで賭したのに哀れなことよ! 自らの敗北を呪いながら飲まれるがいい!!」
「ファルスフィールドォォッ!!」
アンリエットの絶叫が尾を引いて、彼女の刀が立ちはだかる腐肉腫を横様に切り払った。ぶしゅ、という不快な音と共に激しい腐敗臭が辺りに広がる。
「……なっ……!!」
勇ましく切り払ったアンリエットの顔が驚愕に引きつった。
思わず声を洩らした彼女の前で刀が急速に錆びてボロボロと崩れて行く。成す術なく腐食していく刀をただ見つめるアンリエットの様子に、法主の姦しい哄笑が爆発した。
「誰も私を追えまい! 最後に笑うのは私であったな!!」
扉が開け放たれる。
法主の高笑いが扉の向こうへと吸い込まれて行き、遠ざかって行く。
「法主!!」
思わず前に飛び出そうとするザインベルグをユベールが背後から慌てて制止した。
「放せ、止めるな! ユベール!!」
「やめろ、アルフレッド! ここで死んでどうする?!」
ユベールの叫びに断末魔の合唱が重なった。
ぶくぶくと広がる腐肉腫から逃れている内に、壁際へと追いやられた神官達の絶望が悲鳴ごと取り込まれて行く。
阿鼻叫喚と化した礼拝堂の中で、忌まわしい斑模様の肉塊が脈打ち、のた打ち回って、信じられない速度で広がって行く。
「全員、私の後ろに下がれ!!」
ラハルトの叫び声と同時に足元に薄青く明滅する精道陣が浮かび上がり、風が巻き起こる。一同を飲み込まんと、ぶわっと伸びあがった腐食腫が咄嗟に張られた防御の精道法に阻まれてわずかに後退した。
「あれに触れてはならぬ。触れたが最後、全身が腐り落ちて死ぬぞ」
「殿下。殿下はあれの正体を御存知なのですか」
3人を背にかばった老皇族は、防御結界の範囲を更に広げながら、ザインベルグをちらりと見やった。そしてすぐに正面に視線を戻して、腐肉腫を睨み付ける。
「あれは帝国の前身たるオプティエ=リュミエ王国時代に都市ひとつを壊滅させた伝説の妖魔だ」
「そんな危険な妖魔を何故、法主が?」
「大方、闇市場に流れて来たものを入手したのだろう。……痴れ者が」
話しながらもラハルトの額に大粒の汗がぽつり、ぽつりと滲み出して来る。
一旦は祭壇方向に後退した腐食腫だが、すぐに勢いを取り戻して不気味な波濤となって礼拝堂を喰らい尽くして行く。
「くそっ、囲まれたか」とユベールの呟きが洩れた。
周囲をぐるりと見回す彼に釣られてザインベルグも防御結界の内側から辺りを見回した。だが入り口に至るまで腐食腫に覆い尽くされてどこにも脱出口はない。
「貴殿らよく聞け」
ラハルトが口を開いた。
「私が活路を開く。その隙に脱出するんだ」
「しかし、それでは殿下が!」
「殿下を盾に私達に逃げろと?!」
ラハルトのまさかの提案にユベールとアンリエットの抗議が前後して上がった。
「見誤るな、若造」
ぴしりと叩きつけられた叱咤に3人は言葉を呑む。
「命の使い所を誤るな! 4人まとめてここで死んだら一体誰があの悪党を捕まえるんだ?!」
「しかし、殿下……!」
それでも縋るアンリエットにラハルトの温かな笑みが向けられた。
「それに親友の娘と心中するわけにも行くまい? 死に目に会えなんだ無念をここで晴らさせてはくれまいか」
「……それは……」
アンリエットが面を伏せた。
乱暴に目元をごしごしと拭った後に、彼女は凛として頭を反らす。
「仰せのままに。ラハルト殿下」と、右手の拳を胸に添えて頭を下げた彼女にラハルトの笑みが増した。
「2人を頼んだぞ」
「御意」
「では、参るぞ」
アンリエットがザインベルグとユベールに目配せする。
仄かに目元を赤くしている彼女に、ザインベルとユベールは頷き返した。
「……はぁぁぁぁ!!」
気合の声が老皇族の口から洩れ出でる。
防御結界の膜が目まぐるしく点滅して、薄青い光が弾丸のごとくに入り口方向に向けて放たれた。
絶妙に気色悪い腐りかけの桃色を撒き散らしながら腐食腫が飛び散って行く。
「……やったか?!」
「いや……」
ユベールが期待の声で入り口方向を見透かすも、アンリエットの失望の唸り声が重なった。
光の形に薙ぎ払われた腐食腫の道筋は、出入り口に僅か数メートルという所で途切れていた。しかも薙ぎ払われた部分もすぐに蠢く肉塊となって見る見る内に消え失せて行く。古の妖魔の絶大な威力に、ラハルトからも激しい舌打ちが洩れた。
「想像以上の修復力だな……」
「おぞましい限りよ」
思わず洩れたザインベルグの呟きにラハルトが同意する。
「……言いたかぁないが。万事……休す、か?」
「駄目だ、諦めるな! 必ずや道はある」
ラハルトは気丈に鼓舞するものの、その横顔には、はっきりと焦燥と疲労とが現れ始めている。そして彼の保つ防御結界にも、じわりじわりと腐食腫が取りついて来ていた。
くそっ!、と叫びたい気持ちを抑えてザインベルグは再び周囲を見回す。
だが、薄青い膜を通して見る礼拝堂内はどこもかしこも腐食腫の海と成り果てていた。壁に取りついた腐食腫のせいで陽光は遮られて、薄暗くなった室内で不快な斑模様がどくんどくんと脈動をしている。
「どうにか、どうにか活路はないか」
呟いて、出入り口を見やったその時。強烈な閃光が出入り口から放たれた。
圧倒的な光量の筋が腐食腫を抉りながら一直線にこちらに向かって来て、防御結界に当たる寸前で宙に散る。
腐食腫が弾けて出来た道を走り込んで来た人物が思いっきり声を張り上げた。
「大務殿! 大務殿、ご無事ですか?!」
「……ナタン?!」
「ナタンだと?!」
唖然とするザインベルグ達に向かって右手を大きく振っているのは、あの襲撃以来どこかで静養しているはずのナタンだった。左手は未だ布で吊っているが、至って元気そうである。
手を振るナタンの脇から、ひらりと華麗な袂が零れた。紫翠国名産の南水染めの着物をマントの如く羽織った場違いな姿はどこからどう見てもジョーディである。
「大変そうだな、義弟よ」と片手を上げた姿がいつも通り過ぎて、思わず口元が緩んでくる。
「どういうことだ」
「初めに言っておけば、僕は荒事には同行しない主義なんだよ。でも今回ばかりはね?」
思わせ振りに言葉を切って、ジョーディは後ろを振り向いた。
カラン、とランタンの光が揺れる。
腐食腫が裂けて出来た道をゆっくりと歩いて来るのは足元まで届く、簡素なローブを纏ったクローシュだった。腰まではありそうな長い髪が巻き起こる風に煽られて宙を舞っている。
「玉都の真ん中で腐肉腫を放つとは。さすがに看過できん」
張っているわけではないのによく通る澄んだ声に、必死に防御結界を保っていたラハルトが弾かれたように振り返った。
「あなた様は……!」
「ラハルト、ようこらえた。後は僕が引き受けよう」
ふわりとランタンから光が洩れて、見た事もない術式が隈なく書きこまれた防御結界がラハルトの張った防御結界を覆った。
「かた……じけない……」
薄青く明滅していた防御結界がすっと消えて、ラハルトの体から力が抜ける。
後ろに向かって倒れたその背中をアンリエットと2人で慌てて抱き留める。
「ラハルトを連れてすぐに下がりなさい」
落ち着き払って指示するクローシュの正体を測りかねて、ザインベルグはジョーディを見た。
「この人なら大丈夫。最後の神様だから」と義兄は肩を竦める。
「最後の神?」
そうは言われても極普通の青年にしか見えない。戸惑って自分達の前に立った華奢な背中を見上げる。
「いいから、いいから。心配する方が失礼ってもんだよ、君。早くラハルト殿下を安全な場所までお運びしよう」
「クローシュ様のお力で腐食腫が抑えられている間に!」
「……分かった」
アンリエットと頷き合って、ラハルトの体を抱え上げる。
ナタンが先導して、ユベールが続き、何故か再生して来ない弾けた腐食腫の間を抜けて礼拝堂の外に出る。
一行が無事に出て行くのを見届けてから、ジョーディはクローシュの背中に気安く声を掛けた。
「よろしく、大兄!」
「……気が抜ける。早く行け」
ジョーディの軽やかな足音が遠ざかって行く。
クローシュは溜息ひとつ吐いて、腐食腫を見上げた。
「いつの世も……愚かなことよ」
トン、と杖の先で床を突く。
途端に猛烈な業火が足元から巻き起こって、礼拝堂いっぱいに満ちていた腐食腫を取り巻いた。
ただの業火ではない。精道が直に具現化した業火だ。
容赦なく燃え盛る精道の業火に巻かれて、じり、じりと腐食腫が小さくなって行く。礼拝堂内を飲み込んでいた腐食腫が小石大の大きさになるのに然程、時間はかからなかった。
コロン、と足元に転がって来た腐食腫をクローシュの杖が砕く。
醜い肉塊はぴくり、と最後の痙攣を残すと細かい精道の粒となって霧散して行った。後に残るのは呑み込まれて瓦礫の山と化した礼拝堂だけだった。
「……目覚めた途端にこれか。面倒な事を」
クローシュが頭を巡らして睨みつけるのは皇宮の方角。“
だが、とクローシュは続ける。
「覚醒するのはお前ばかりではない」
言葉は中空に放り投げられた。
吹き抜けた風にクローシュの姿は消え去り、誰もいなくなった元礼拝堂に朝の爽やかな陽光が無邪気に振り注いだ。
◆◇◆
同じ頃。
1人気まぐれに玉座に座して、だらしなく頬杖をついていた皇帝がニヤリと微笑んだ。
「クローシュか。墓守が珍しいことよ」
皇帝の言葉もまた誰にも届かずにただ消え去って行った。
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