第14話 引き際の美学
ザインベルグの糾弾が法主を打ち砕いた。
法主の両肩から力がだらりと抜け、常にはない自虐的な響きがその口から零れる。
「……清算。清算の時か」
厚く凝った肉の奥に引っ込んだ両眼が、彼の前に並んだ一群を端から端までじっくりと眺め回して行く。その眼差しが巡っていく程に、法主の口角がゆるゆると上がっていった。
「見事だ」
硬直した空間に法主の言葉が放り込まれた。
彼は貴石きらめく両手を打ちあわせて高らかにザインベルグを褒め讃える。その拍手には蔑みの色はなく、ただひたすらに相手を讃える素直な心が現れていた。ザインベルグの眉間に力が籠る。
「よくぞここまで踏み込んだ。ここに至るまでの貴殿ら警務師の執念と犠牲は実に素晴らしい」
「何を抜け抜けと……!」
踏み出したユベールをザインベルグが制止した。
無垢な様子で賛辞を口にする法主の歪な姿に改めて、腹の底が捩れるような感覚に襲われる。
敵を侮らない。この特質こそが法主をここまで押し上げた才覚であり、グリゼルダとの決定的な違いの1つである。
ランディバル侯と遣りあう方がまだマシというもの。
心中で皮肉交じりに呟いた彼の前で法主は、いかにも感に堪えぬという風情で2回深く頷いた。
「優秀な現場と全ての責を負い、自らの犠牲も厭わない長。全てが組み合わさってもたらされた見事な結果だ。素直に賛辞を贈りたい」
だが、な。
法主の笑みに陰が籠る。
「詰めの甘さが残念だ」
「詰めの甘さ?」とザインベルグがオウム返しに訊き返した。
「分からぬか?」
法主は目の前に居並ぶ警務師に人差し指を突きつけて声を張り上げる。
「ここまで私を追い詰めてどうして気付かぬのか。いつからこの国は警務師が聖職者を逮捕できるようになったのか!」
礼拝堂の天井に反響した響きは力強く、突然の流れに固まっていた神官達の心理に働きかけるには十分だった。
「……警務師風情が法主聖下になんと無礼な」
「祈りの場に踏み込むとは!」
「捕えられるものならやってみよ!」
法主から離れかかっていた神官の輪が再び彼を取り囲む。法主そのものよりも、今まで心預けていた環境への執着で結束した神官達の輪を背景に、法主がザインベルグを見降ろした。
「どれだけ我が悪事の証拠を固めようと、一体警務師に何が出来るのか。お答え願おう、ザインベルグ警務大務殿」
ザインベルグは答えない。
わずかに首を傾げて、斜から法主を見上げるのみだ。法主の相好が崩れる。
「押し切れると捨て身の賭けに出た、というところか」
「この恥知らず共めが……!!」
いつの間にか立ち上がったマサカールが、乱れた頭髪のままでザインベルグと彼の後ろに整列する警務師をねめつけた。彼はザインベルグの斜め後ろに立つアンリエットを取り分け憎々し気に睨み付けて吐き捨てる。
「このような輩に与するとは、ヴァルンエスト家も地に堕ちたものよ! そのていたらくでは当主が殺されるのも当然よ」
「……ほぉ」
整然と並ぶ列の後ろから低い唸り声が返って来た。
かつん、と背の高い影が教院の床に落ちる。
ザインベルグが右手の拳を胸に添えて、背後へと恭しく頭を下げた。
「何が当然なのか、私に詳しく訊かせてみよ」
優美でありながらも、剛健な皇族最年長の王子の姿に流石の法主も一言も発せない。
ラハルトは卒倒しそうな程に青ざめたマサカールを一瞥して、驚愕に目を見開いている法主を一喝した。
「勘違いするな。貴様を捕えるのは朱玉府の長たるこの私だ」
驚きに打ち震えて、時が止まった法主の肩が激しく上下して、静まり返った礼拝堂に荒い呼吸音がはぁはぁと空しく響く。
「……ど、どうしてここに殿下が。陛下の命で妖魔討伐に行っているはずでは」
たっぷり数分黙った果てに掠れた声が法主から洩れた。
彼は信じられない気持ちから抜け出せずにただラハルトを凝視する。ゆるゆると揺れるたるんだ顎下の肉がいつも以上に彼の老いを際立たせた。
「私が戻って来られまいと油断したか。そのような所で油断するとは貴様も老いたものよ」
「いや、しかし」
弱々しく発した声に我に返ったのか、見開いたままの瞳に力が戻る。
彼は両足に力を込めて、胸を反らした。
「まさか陛下の命を反故にして勝手に戻って参られたのか。戦場放棄とは皇族にあるまじき行為では?!」
「皇帝陛下の命は老体に鞭打ってきっちりと果たして来た。その上で今、貴様の目の前に立っておる」
「有り得ない。妖魔襲撃の規模は甚大。だからこその玉都からの遠征が必要だったのだ。討伐には少なくとも後、ひと月はかかるはず!」
「貴様の思惑通りに全てが動くとでも?」
厳然と言い返したラハルトの目がすっと細くなる。その目に満ちるのは静かに燃え上がる怒りの炎と確固とした決意の光だ。
「引き際の分からぬ貴殿ではないだろう。観念しろ」
その場に立ち尽くす法主にザインベルグが告げる。すると法主は明らかに動揺を浮かべつつ、一歩、また一歩と後ろに後ずさった。
「まさかこのような、……ありえん。一体何がどうなっておるのだ。このような事を、認める訳にはいかぬ!」
祭壇の奥へと身を寄せた法主が、その周りに潜む者達に向けて合図を送る。法主の周囲から凍てつくかのような殺気が膨れ上がるのと同時に、アンリエットが抜刀してザインベルク達の前へと踏み出した。
「殺せ! 相手が皇族だろうと構わぬ! この場から1人たりとも生きて返すな!」
「させない!」
柱や天井の陰から黒尽くめの男達が飛び出し、ザインベルグ達に向けて刃を突きつける。気配を殺し、存在を隠して法主に盲信する陰の者達。その数は軽く小隊規模を超えていた。
よくぞここまでと感心すらしてしまう数に、身の回りを守らずにいられない法主の臆病ぶりが分かる。臆病な者ほど残忍にもなれる。
ザインベルグは「道理だな」とユベールと共に一歩さがって身構えた。
前面に立ち塞がったアンリエットが黒尽くめの者達に刃を向ける。だがその刹那、足元に大きく異質な精道陣が浮かび上がった。
「……これは!?」
黒尽くめの男達の中の1人が精道符を取り出して術を展開する。
精道法だ。まさかここで精道法を使われるとは思っておらず、わずかな戸惑いが一瞬の隙を生んだ。
足元の精道陣から紫色の煙が吹き上がり、瞬く間に広がってアンリエット達の身体に絡みつく。
五感が鈍り視界が閉ざされる。吹き出した紫煙は光を遮り、相手の視野を奪う目的のものだった。
絡みつく紫煙を振り払う事も叶わず、閉ざされた視界の中で殺意の塊が突き出される。
気配を頼りに動くしか無い。
アンリエットがそう覚悟を決めたその瞬間、一気に目の前の視界が元の状態へと戻った。
繰り出される毒の塗られた刃を一閃で叩き落とす。正に九死に一生を得るタイミングでそれらを打ち払ったアンリエットの背後で、高らかな怒声が響き渡った。
「この私の前で小賢しい真似が出来ると思うな!」
朱玉府の長にして、宮廷精道士団長たるラハルトが黒尽くめの男達の精道法を打ち払う。
武においてヴァルンエスト侯に優るもの無く、術においてラハルトに優る者無し。
帝国における双璧の片割れ。亡き父にとっての生涯の親友にしてライバル。
確かな存在感に背中を支えられ、アンリエットは迷わず前へと突き進んだ。
帝国騎士に名を連ねる者としての矜持。
そしてまた、帝国最強を謳われた父親を持つ娘としての思いが、暗殺を生業としてきた者達を鎧袖一触に斬り伏せる。
鬼気迫るその姿には、さすがにザインベルクも感嘆の息を飲む他になかった。
「……強い。さすがと言うより無いな」
「すでに嫁いでるんだよな。あの家の夫婦喧嘩は想像もつかん」
ボソリとユベールが呟く。どこか緊張感のずれた親友に肩をすくめると、ザインベルグは改めて法主へと向き直った。
「この役立たず共が! たった1人に何てざまだ! 使えんにも程があるわ!」
祭壇に追い詰められた法主が懐から何かを取り出す。遠目に黒い卵のようにも見えた。
言い様の無い不吉な予感が頭を過る。それはザインベルクの長年実務に関わってきた経験から来る勘のようなものだった。
身を乗り出して前へ行こうとするユベールの肩を掴む。法主が卵のようなものを床へと叩きつけて割ったのは、正にそれと同時だった。
「アンリエット殿! さがって!」
直感的に叫んだザインベルグに、アンリエットが後ろへと飛び退く。
叩きつけられて割れた卵から何かが飛び出したのが見えた。そしてそこには急変する事態に頭を抱えて蹲っていたマサカールがいた。
「何をしているマサカール卿! すぐに下がれ!」
「……え? 何が、……え?」
一見して動物の臓物に見えた。
どす黒い赤とピンクが入り混じった斑模様に、青紫の血管が不気味に脈を打つ。
見た目からして忌まわしい。拳大の腐ったはらわた状のそれは唖然とするマサカールに突如絡みついた。
「うわぁっ、嫌だ!? 誰か、誰か助け……!?」
艶かしく蠢く臓器の塊が膨れ上がり、悲鳴を上げるマサカールを包み込む。
彼の姿が見えなくなる最後の一瞬、ザインベルグは断末魔を上げる間もなく腐り落ちて飲み込まれるマサカールの姿を垣間見た。
「何だ、あれは……!」
「えげつねぇ。……かなりやばいぞ!?」
腐った臓物様のものはマサカールを飲み込むと、床に倒れている黒尽くめ達をも次々と飲み込み、更に大きく膨れ上がっていく。
「……腐肉腫だ。すぐに離れろ!」
困惑する事態に誰もが呆然として場に縫いとられている中、唯一正体を知るラハルトの切羽詰まった声が駆け抜けた。
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