第12話 悪の楽園
イルソルス=アマワタル大教院の一角で法主は満足げに喉を鳴らした。
喉仏の埋もれた太い首を反らして葡萄酒を飲み干した彼は、掲げたグラスに揺蕩う夕日をゆったりと眺めてほくそ笑む。
「法主聖下。どうぞ、もう一杯」
向かいに座ったシドウ大教院長・マサカールがここぞとばかりに葡萄酒を恭しく注ぐ。うむ、と鷹揚に受けた法主に対してマサカールの追従が縋り付く。
「ラハルト殿下は妖魔討伐のため遠征中。主のいない朱玉府は法主聖下の思うがまま。加えてあの青二才の動きを封じられておる。いつもながらに見事な手腕には毎度驚かされます」
さすが法主聖下、と添えられたお世辞が無様に宙を漂った。
味わい深い葡萄酒を舌の上で転がしながら、法主は醒めた眼差しでマサカールを見やる。軽蔑の一瞥でさえも媚びた笑みでへつらうマサカールは完全に太鼓持ちと成り果てていた。
しかし太鼓持ちとしても三流な男だ、と心中秘かに呟く。
喋れば喋る程に無能が剥きだしになって来る。
そんな法主の真意を知り得ないマサカールは上機嫌でペラペラと喋っている。
「幾ら有能といえども誰彼構わず噛みつく狂犬など使い物になりません。ランディバル侯爵も彼奴をとっとと引き摺り下ろせばいいものを。あれは法主聖下に楯突いた報いを受けるべきだ」
「……あんな査問会程度では足止めくらいにしかならん」
「いや、しかし」と言い掛けたマサカールをグラス越しにじろりと睨む。
途端に彼はあの、いや、と意味のない言葉を繰り出しながら慌てて両手で言葉を打ち消した。
「異論がある訳ではなく……! ただこのまま彼奴をのさばらせておくのは生温いのではないかと。何しろ法主聖下に刃向って来た愚か者です。このままお咎めなしというのは……!」
「生温い。生温いか」
タンッとグラスを卓に置いて、法主は悠然とソファーの背にもたれる。
彼は両手を腹の上で組んだまま、しばらく目を閉じていた。再び開いた時にはその両目は力を孕んで煌々と輝いていた。
しかしそれも束の間のことだ。下卑た笑みが全てを覆い隠していく。
「警務大務の妹君というのは足が不自由ではあるが、大層な美人らしい」
独り言のように呟いた声には隠しようのない欲情が滲んでいた。
「まぁ、兄君の美貌を見れば推してはかるべしだな」と言い添えて、意味ありげにマサカールを一瞥する。
「今、兄君は警務師に缶詰め状態だな」と念押しした彼にマサカールの目と口が滑稽な程に開いた。
理性ある大人の顔ではない、と心中断じて法主は空のグラスに葡萄酒を並々と注ぐ。
酌すら忘れたマサカールは掠れた声で「ですが」と呻いた。
「警務大務の妹はヴァルンエスト家が一門を上げて保護しているとか。手を出すのは到底無理ではないでしょうか」
「分からんのか」
法主はグラスを目の高さに掲げて陰険に目を細めた。
「この私が望んでいるのだぞ」
マサカールの喉がごくりと音を立てる。
小心者らしく揺れる瞳の中で、マサカールの心が戦っている。
無理だ、と声高に論じる良心と、法主の不興をかってはならないという野心とが。
ややあって彼はがくりと目を伏せた。
「承知しました。すぐに」
決意の一言を残して、マサカールはせかせかと部屋を出て行った。
残された法主はゆっくりとグラスを傾けて、葡萄酒を口に含む。口から鼻に抜けるふくよかな香りを楽しんでから、ごくりと嚥下する。
彼の口元が卑しく横に広がった。
舌なめずりしそうな程に緩みきった笑顔で法主は1人呟く。
「皇太子という大玉は逃したが、この玉都にはまだ玉がごまんとおる。その名の通りにまさしく玉の都よ」
◆◇◆
整えられた爪がトン、トトンと苛立たしく卓の上で跳ねている。
グリゼルダは何度目かの怒りの吐息を洩らして、ぐいと強気に前髪を払い上げた。
何もかもが厭わしく、腹立たしい。
皇帝に直訴してまで臨んだ棄民排除は皇内大務スルンダール上級伯に阻まれて、中途半端に終わってしまった。
この査問会にしてもザインベルグを排除するには根拠に乏しい。彼を追い落とせない下らないものであるのに、途中で切り上げることもできない。
本当にうっとうしいことこの上ない。
ささくれだった心を更に逆撫でするのは彼女を取り巻いて、無駄な気炎を上げる取り巻き連中である。
「それにしてもランディバル侯爵のご指摘はいつも鋭い。聞いていて惚れ惚れとしてしまいますな」
「侯爵の前ではあんな官僚貴族の言い訳など聞くに堪えない戯言ですな」
「今日こそあの男を警務師から叩きだしてやりましょうぞ」
グリゼルダはダンッと床を蹴って立ち上がった。
強く扇子を握り締めて、口元を引き結んだ彼女に周囲の取り巻き達が思わず黙り込む。
「外の空気を吸って来ますわ」
ぞんざいに一言投げつけて、グリゼルダは廊下へと出て行った。
警務師の廊下にばしり、と硬質な音が響く。
「何一つ上手くいかない。本当に無能ばっかり……!」
扇子を床に叩きつけたグリゼルダはそれでも怒りが抜けきらず、思いっきり扇子を蹴り飛ばした。
廊下をくるくると回転していった扇子が不意に現れた爪先に当たって止まる。
「大層、ご立腹なご様子で」
屈んで扇子を拾ったのはザインベルグであった。
微かに笑みを含んだ声が殊更に癇に障る。
グリゼルダの目元がたちまちに敵意に包まれる。
このくだらない査問会を開く羽目になった、そもそもの原因は全て目の前に立つこの男のせいなのだ。
新世位なんていう貴族を名乗るのもおこがましい家門にありながら、大務の椅子にふんぞり返っている恥知らず。
同じ場にいて同じ空気を吸うことすら厭わしい。
グリゼルダは露骨に顔を背けて、扇子を差し出す彼の脇を通り過ぎた。嫌悪感に顔を歪めて通り過ぎる彼女をザインベルグは黙って見送る。
「こんな茶番を続けていても意味はないはず」
すれ違って数歩行った所でザインベルグが静かに切り出した。
グリゼルダの足が止まる。
今の査問会が茶番であるのは同意できる。しかし、その根本原因となっている人物に言われたくない。
そういう頑なな気持ちがグリゼルダに振り向くことを許さない。
背中合わせのままでお互いに振り向こうとしない2人の間に目に見えぬ火花が散った。
冷たいせめぎあいの果てに先に口を開いたのはザインベルグだった。
「お互いやめにしませんか」
落ち着いた声で告げられた言葉をグリゼルダはせせら笑う。
「何を抜け抜けと。稚児崩れの下賤の者が。いつまでもその不遜な態度がまかり通ると思っていたら大間違いよ」
グリゼルダの容赦ない返しが場の空気を切り裂く。背中越しに、ふっと苦笑する吐息が洩れた。
「私も随分と嫌われたものだ。しかし、だからこそ意味がある」
「……どういうことかしら」
ザインベルグの一言がグリゼルダの琴線に触れた。
思わず振り返ると、ザインベルグも振り向いてグリゼルダを見ていた。彼の平坦な眼差しが今日も冷静沈着に彼女を捉える。
彼は手にした扇子を再度差し出して、艶然と微笑んだ。
「茶番はやめにして、建設的な話し合いをしませんか」
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