第8話 希望の星

 その報せを受け取るなり、ザインベルグはすぐさまヴァルンエスト邸へと駆けつけた。


「……ユベール! 閣下の容態は?!」


 ヴァルンエスト侯の居室前の廊下。1人佇むユベールは振り返ったものの、口を開こうとしない。

 返答を言い淀む同期の姿に思わず奥歯を噛み締める。

 

 体の内で突き上がるのはやるせない憤りだ。

 相手の戦力を見誤った。

 まさか、あの場にナタンを襲った暗殺者集団までが来るとは。少数精鋭にならざるを得なかったとはいえ、もっと慎重に捜査に当たるべきであった。

 

 次から次へと湧き上がる後悔に顔を歪ませるザインベルグに、ユベールは訥々と語る。


「逃げて来たナタンの一報で俺が駆け付けた時にはほぼ終わっていた。……ヴァルンエスト侯はほとんどの敵を1人で倒しておいでだった。ただ……」

「ただ?」

「その奮闘が仇になったというか……毒の回りが早くてもう臓腑の一部は壊死が始まっている」

「臓腑が……壊死」


 それの意味するところが砕けた心に染み込んで来る。ユベールはザインベルグから視線を外して床に目をやった。

 

 かちゃり、と扉の開く音がして、アンリエットが廊下に出て来る。いつもの甲冑姿ではなく、貴族の夫人がよく纏う平服姿だった。


「ザインベルグ殿、来て下されたか」

 気丈に微笑む彼女に、言葉もなくただ頭を下げる。

「……聞きました」とだけようやく告げると、アンリエットは寂し気に眉を下げた。


「さすがというか何と言うか。外傷はほぼない。寝顔も無邪気なモノです。ですが、白緑士の見立てでは日を跨がずに逝くだろうと。今も痛みの緩和のみで、もう治療はしていません」

「そう……ですか」

 

 ようやく絞り出した言葉は自分でも意外な程に頼りないものだった。

 帝国騎士団長という要職にありながら一騎士として現場にあり続けた。そんなヴァルンエスト侯を失うことは、痛手という言葉では足りない程の損失だ。

 言葉もなく唇を噛みしめる。

 

 その時、アンリエットの背後で控え目に扉が開き、年配の侍従が顔を覗かせた。

「お嬢様、旦那様が目を覚まされました」


 パタン、と背後で扉が閉まる。

 雨が上がり、夕日が揺蕩い始めた室内は穏やかな静けさに満ちていた。

 天蓋付きのベッドに横たわったヴァルンエスト侯は、入って来たアンリエット達に気付くと、すぐに鋭い調子で訊いて来た。


「ナタン殿は? 彼は無事か?」

「無事です」

 この期に及んでも他者を気に掛けるその姿に胸がいっぱいになりながら答える。

「一番安全な所に匿ってもらうと、ジョーディ殿が連れて行きました」


 ザインベルグの言葉に老騎士は微かに笑んだ。

「あの者が安全と言うならば大丈夫だろう」

 緩和の白緑法がかけられていても息苦しさはあるのか。ヴァルンエスト侯はひゅうと音を立てて息を吸い込んだ。


「法主め……まさか棄民に金を飲ませていたとは」

「予想以上に悪辣な手口ですな」

 ユベールの言葉に彼は顔を顰める。

淀神てんしんも裸足で逃げだす惨さよ。あれで精道神の使徒とは片腹痛いわ。……私の手で引導を渡してやりたかったが、それももう叶わぬ」

「ヴァルンエスト侯」

「何を情け無い顔をしておる。元より承知の上よ」

 ヴァルンエスト侯の眼尻が下がった。


「法主の欲望は果てし無い。帝国を喰らい尽くしても満足することはないだろう。あれをこれ以上野放しには出来ん。私が斃れる今、法主に引導を渡すことができるのは貴殿だ」

 

 ひと呼吸置いて、ヴァルンエスト侯の目がひたむきにザインベルグへと向けられた。死の淵に立たされても猶、気概の溢れる視線に自然と背筋が伸びる。


「ザインベルグ殿。必ずや法主を」

「……必ずや」

 決意を込めて強く首肯する。

 ヴァルンエスト侯はしばしザインベルグを見つめた後に、その視線を娘へと彷徨わせた。


「アンリエット」

「父上」

 弱々しく差し出された手をアンリエットが両手で握り締める。

 

「後の心残りは陛下の事よ……。私を救ってくださった陛下は、リスディファマス様は別人のごとくに変わられてしまった。今の陛下の元では、帝国は更なる動揺にみまわれよう……」

「えぇ……」

「それでもこの国に未来はきっと来る。まだ皇太子殿下が……」


 ヴァルンエスト侯は激しく咳き込んだ。身を捩って咳込みながらも、彼の瞳はいよいよ熱を持った光を帯びて来る。

 命を削って、未来を後進に託して行こうとする彼の思いに誰もが圧倒されて、その言葉を聞き洩らすまいと必死に耳を傾ける。


「皇太子殿下の慈愛は必ずやこの国を照らす光となる。彼女だけが希望の星だ」

「……そうでしょうか」

 思わず本音の洩れたユベールに老騎士は、ははっと快活に笑った。


「人は変わるんだよ、ユベール殿。玉都を去る直前のあの方は変わり始めていた。エフィオン達に囲まれて薫陶を受けたあの方がどのようになって戻ってくるか。儂は楽しみじゃ。楽しみでならん」

「そもそも戻って来るかどうかすら」

「戻って来る」

 ユベールの言葉を押し潰してアンリエットが断言した。

「殿下は必ずや戻って来られる。だからこそ法主を野放しには出来ない。法主が法主である限り、殿下に下された異端認定は取り消されない」

「そうさの」


 力強く断言した娘をヴァルンエスト侯は目を細めて見守る。彼の遺志を継いで行く者に向ける笑みは温かく、愛情に溢れていた。


「アンリエット、それを」

 

 ヴァルンエスト侯がベッドの傍らにある小卓に乗せた小さな肖像画を指差す。

 丸く縁取りされたその肖像画では白髪の優しげな貴婦人が花を抱いて穏やかに微笑んでいた。


 肖像画を手渡されたヴァルンエスト侯は愛しそうに、その笑顔にそっと触れて、はにかんで呟く。

「母上の……」

「随分と待たせてしまったの。叱られるかの」

「……無茶し過ぎだと、是非怒られて下さいませ」

「手厳しいの」


 ほろほろと零れる笑みにつられて誰もが笑みを浮かべる。

 ヴァルンエスト侯は、彼を見守る若人達をしっかりと1人1人見つめてから、満足気に何度も頷いた。


「……道半ばであるが悪くない」

「ヴァルンエスト侯」

「託して行く者がこんなにもいる」

 微かに浮かんだ笑みが急速に力を失って行く。


「父上」

「ラハルト殿下に謝っておいてくれ。約束を果たせなんだ……」

「伝えておきます。でもきっと今際の際に謝るなどらしくもない、とお怒りになります」

「……だろうの」

 ヴァルンエスト侯は弱々しく肩を揺らした。


「……頼む。この国を……陛下を。頼む」

 繰り言になって行く言葉が、色を失って行く唇から溢れる。

 

 最期の一時まで国を憂い、皇帝を案じ続けた忠義の人は愛娘に手を取られて、その身をフィレス神に委ねた。


 帝紀467年。6月アトゥラーナ末のことである。

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