第5話 忠義の拠り所
禊場の街外れ。ナタンとヴァルンエスト侯の姿は本通りから離れた区画にひっそりと建つ教院にあった。
「こんな所に教院があったのですね」
森閑とした教院の床に生憎の雨で濡れそぼった装備から落ちる滴がぽたぽたと跡を残す。慎重に様子を窺いながら進むナタンの後ろで、ヴァルンエスト侯がぐるりと内部を見回して呟いた。
「一応手入れはされているようだの」
ヴァルンエスト侯の視線が正面の祭壇で止まる。
祭壇に掲げられているのは星を抱いた細い上弦の月だった。上弦の月は命の女神・フィレス神の象徴だ。女神像こそないものの、ここはフィレス神の教院のようである。
「フィレス神か」
「町外れでフィレス神となると共同墓地かもしれないですね」
「禊場周辺にあるということは客死した巡礼者のためかの」
「そうですね」
「しかし」と前置きしてヴァルンエスト侯は水分をたっぷりと吸った上衣の裾を絞った。
「禊場というのは色々と潜んでやるのには最適な場所ではあるな。有名、無名の小規模な教院が点在しておる。ここにしてもな。これは一度、教院の総点検を陛下に進言した方がいいやもしれぬ」
「今回の事が上手く法主にまで繋がれば邪魔する者もおりませんからね」
「でもまぁ……」
齢を重ねて来た老騎士の円熟した横顔に影が差す。
今の皇帝に言っても届かない。
徒に言をひらめかして周囲の者を困惑させるだけの今の皇帝では。
ヴァルンエスト侯は最後まで言わなかった。
代わりに彼は教院内部を熱心に見て回る相棒に声を掛ける。
「本当に共同墓地ならばカタコンベがあるかもしれん。探してみよう」
「外に墓地がある様子もありませんでしたからね。確かにカタコンベの可能性が高そうです」
「気持ちのいい探し物ではないがな」
ヴァルンエスト侯は苦笑いした。
その笑顔と共に笑い合う内に、ナタンの胸中に先から抱いていた疑問をぶつけてみたい、という思いがふつふつと湧きあがって来る。
反射的に「あの……」と言葉を繋ぐ。
「何故、閣下は今回の捜索に自ら出ておられるのですか? 仮にも帝国騎士団長ともあろう御方が」
ヴァルンエスト侯の表情がつと固まった。
ナタンは慌てて手を振って「失礼は百も承知です! 迷惑であるとかそういうことではなく、ただ気になったというか」
失言でした、と悄然と頭を下げる彼をヴァルンエスト侯は沈黙のままにしばらく見つめていた。その口元が、ふ、と解ける。
「確かに、奇異なことではあるな。一軍の将が先陣切って駆けていくようなものではある」
「そういう奇妙さというよりも、閣下の指1つで騎士団はいかようにも動きます。そこを敢えて自ら動かれているのをかねてより不思議に思っておったのです」
「そうだなぁ」
のんびりと返答して、ヴァルンエスト侯は真っ白な顎鬚をしごき始めた。
「敢えて言うならば、法主は私の目の黒い内に引導を渡しておきたい。そして今追っている事実は何よりも法主の致命傷足りえる。だから自らの目で見届けたい。そんな所かの」
「しかし何故そこまで法主に……いや、十分に悪質なのは理解しておりますが」
ナタンの問い掛けにヴァルンエスト侯の双眸が急に光を孕む。
彼は顎鬚をしごく手を止めて、ぐっと胸を反らした。
「法主に個人的な恨みがあるわけではない。全ては陛下のためだ」
「陛下のため」
「私の全ては陛下のためにある」
毅然と言いきって、ヴァルンエスト侯はナタンに目を向けた。
「私にはかつてアルドゥールという甥がおった。武芸に秀でた自慢の甥っ子であった。彼にはアスティーヌというそれは美しい婚約者がおっての」
「アスティーヌ……もしや」
聞き覚えのある名に、ナタンがはっと身を固くする。
ヴァルンエスト侯はなおも祭壇を眺めたまま、ぽつりと言い落した。
「そうだ。現皇后アスティーヌ様は私の甥の婚約者であったのだ」
「婚約者がみえたのに何故、アスティーヌ様は皇后に?」
ナタンの疑問には答えずに、ヴァルンエスト侯は逆に問い掛ける。
「ナタン殿は混濁帝のことは覚えておいでか」
「いえ……私はそのころ年端も行かぬ子供でしたので。その上、平民でしたから皇帝陛下のことなどちっとも知りませんでした」
「そうか。それでも混濁帝の悪癖は聞いたことがあるだろう」
「異常な女狂い。色情魔であったことは……」
ナタンがヴァルンエスト侯を見る。
「まさか」と絶句する彼に老騎士は残酷に頷く。
「混濁帝からのアスティーヌ様を入内させるようにという命を我らは突っぱねた。あのような地獄に東都の友人から預かった大事な姫君を行かせるわけにはいかん。数か月後、軍人であったアルドゥールは戦地に赴き、そこで戦死した」
「戦死……」
「20歳だったよ」
20歳だったんだ、と洩れる悲しみにナタンは息を呑んだ。
それは普通の戦死だったのか、と聞くより早くヴァルンエスト侯の話が先に続いて行く。
「アルドゥールの死後、どれ程後であったか。1ヶ月だったか半月後だったか。宴の席で混濁帝が側近に言い放ったのだ。過ぎたる者を持った罰が若造に下った、と。神々はアスティーヌを我にくだされたのだと」
混濁帝の様子がありありと目に浮かぶ。
口の端から酒を垂らし、片腕には側室を抱き込んだ混濁帝が下卑た笑いを響かせる。
楽しみだ、アスティーヌは閨でどのような声を上げるか。たまらん、今からたまらん!
老騎士は刀の柄をぐっと握り込んだ。
「怒りに目が眩んだ。咄嗟に柄に手をかけた私を止める手があった」
「それが、陛下……当時は皇太子だったリスディファマス様」
「そうだ。あの方はさり気なく私の手を止めて静かにおっしゃられた。今は耐えてくれ、貴殿を失いたくないと」
だがな、ヴァルンエスト侯の肩が目に見えてがくりと落ちる。
ここから先は耐えかねるとばかりに天井を仰いで、彼は目を閉じた。声が途切れて静まり返った教院内を降りこめる雨音が柔らかく抱き込む。
「……間が悪かった。鯉口を切った私に混濁帝が気付いてしまった。しかも私を庇って、弁明をする陛下に言い放ったのだ。母親のようにお前もみっともなく糞尿を垂れ流して獄死するか、と」
「母親とは先の皇后陛下、サストミーア様のことですか」
「そうだ。大逆の罪を着せられて誅殺されたサストミーア様を混濁帝は陛下の前で罵倒した。その時、リスディファマス様の中で何かが弾け飛んだ」
止める間すらなかった。例えあったとしても止めなかったかもしれない。
瞬時にヴァルンエスト侯の刀を抜き放ったリスディファマスが混濁帝に斬りかかる。上がる悲鳴に重なる醜い断末魔。
ごくりと唾を飲む音がやたらと大きく聞こえた。
「つまり……陛下が混濁帝を。自らの父親を」
「私のせいだ。私の短慮があの方に父親を斬らせてしまった」
こつん、こつん。
老騎士は歩き始める。ナタンはその場に立ち尽くしたまま、ヴァルンエスト侯の行く先を見つめる。
ゆっくりと祭壇裏に回って行った彼はナタンを振り返り、「だから私の全ては陛下のためにある。私の人生を守ってくださったあの方に私は全てを捧げる。……例え陛下がどう変わろうとも」
穏やかな声だった。
穏やかなだけに決意の際立つ。そんな口調で言い切った老騎士は重ねた年月の刻まれた目元を緩ませて、地下への階段を指し示す。
「カタコンベの入り口だ。取りあえず下に行ってみようかの」
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