第3話 大遊里の端で

 色街ドゥール=ベルテシアの外郭には貴族達のヴィラ街が広がっている。

 それぞれに趣向を凝らした庭園と建物が綺羅の空間を成す一角に、ザインベルグもヴィラを1軒所有していた。

 

 ザインベルグは体についた水滴を振り払い、ソファーにどさりと座り込んだ。

 頭をぐったりとソファーの背にもたれかけさせたまま、足だけで行儀悪く靴を脱ぎ捨てようとする。しかし雨水をたっぷり吸いこんで重くなった靴は容易に脱げない。


 苛立たし気に眉を顰めて、舌打ちした彼の前にことんと静かに湯飲みが置かれる。ふうわりと甘ったるい湯気が鼻先に立ち上った。


「いけやせんぜ、旦那。不調法なこった」

「お前……! どこから入った?!」

「どこからって」


 ひざまづいてザインベルグの靴を脱がしながら、キリエはいつも通りの含みのある笑顔になった。


「ちゃんと正面から入れてもらいやしたよ? 管理人にね?」

「……ヴィラを使ったのがまずかったか」

「しゃあないですわな。ドゥール=ベルテシアから禊場は近いですからね。それに旦那のヴィラはほったらかしもいい所だ。たまには使ってやらにゃ」

「欲しくて買ったわけではない。首席准参預になった時にヴィラくらい持てとうるさく言われて買っただけだからな」

「今や、その当人が管理人におさまってら」

「まったく」


 泥のはねたザインベルグの両足を綺麗に拭きとって、キリエはどろどろに濡れた靴をどこかへ持ち去る。

 迷いなく、勝手知ったるという態度がまた子憎たらしい。しかも戻って来た彼は軽食の乗ったお盆を捧げ持っていた。


「やつれてやすぜ。しっかりと食べにゃならん時期でしょうが」

 手際よく皿を並べて、よし、とばかりに両膝を打つ。

「何せ、禊場の探索に通常業務に大師卿のアバズレの罵倒にと。大忙しだ」

「最後が一番面倒だ」


 軽口を言って身を起こす。

 疲労が溜まり過ぎて食欲など全く感じる隙もなかったが、目の前に並べられると現金に腹が減る。


「それで、塩梅はどうなんですかい?」

 給仕をしながらキリエが尋ねる。ザインベルグは咀嚼しながら「悪くない」と答えた。

「やはり禊場が怪しい?」

「……まぁな。怪しい動きをしている所が何ヶ所かある。まだ現場は押えることはできていないが、目星はつき始めた」

「騎士団に入ってもらったのは正解でやしたね。それにあの騎士団長と渡りがついたのも相当な収穫じゃないですかい?」

「ヴァルンエスト侯か。確かに、あのお方は得難い助っ人だ」


 素直に認めたザインベルグにキリエの整った顔が意地悪く歪んだ。

「旦那の素敵な義兄上に感謝しないと」

 無言のままにジロリと睨む。

 キリエは涼しい表情で「茶を取り替えましょう」と湯飲みを下げて行った。


 部屋の隅にある小卓で茶を淹れるキリエを眺めながら、ふと気紛れに訊いてみる。

「そういえば最近のドゥール=ベルテシアはどうだ?」

 

 ここの所、禊場の捜索にかかりきりで色街の方まで目が行っていない。

 グリゼルダ所有の妓楼で七大楼の一角でもある“高貴なる薔薇楼”の問題とてまだ解決したわけではないのだ。

「ぼちぼちってぇ所でやすね。あのアバズレの妓楼も相変わらずでさ」

「そうか……」

「後はですね」


 取り替えた淹れたてのお茶を置いて、キリエはさらりと言う。

「アデバ大教院長が法主に途方もねぇ改修費用をふっかけられたぐらいでやすね」

「は?!」

「旦那、こぼれてやすぜ」

「茶なんかどうでもいい。どういうことだそれは!」


 拭くのは私なんですがねと、卓を拭くキリエの表情は特段に深刻そうな雰囲気はない。

「いえね? 帝国真教の12大教院っつーのはどうやら毎年持ち回りで教院の改修費用を負担するらしくて。今年はシドウ大教院の年だが、昨年の大規模な狼害のせいでそれどころではないとか」

「その費用をミスティア大教院に肩代わりしろと?」

 キリエは頷いた。

「その額たるや、金貨1万枚だってんだから仰天ですぜ」

「金貨1万……! 教院の改修とはそんなに費用のいるものなのか?」

「例年だったら金貨千枚ってとこでしょうね。天下の大遊里・ドゥール=ベルテシアを抱えているなら訳ないだろうってのが向こう様の言い分でさ」

「昨年の狼害とはいうが……西方の局地的なものではなかったか?」

「旦那だって御存知でしょう」


 まぁな、と呟いて腕を組む。

 昨年の皇太子弾劾裁判の際のシドウ大教院長の様子が浮かぶ。大教院長で唯一、異議を唱えたアデバを激しく糾弾していた。典型的な腰巾着の行動だ。

 そこからしてもシドウ大教院の言い分は全くのデタラメ。ただ法主に楯突くアデバ大教院長への見せしめであろう。


「しかし愚かだな。馬脚を現すとはこのことだ」

「へぇ」

「高貴なる薔薇楼への締め付けを厳しくした途端に、莫大な改修費用がアデバ大教院長に降りかかった。これは法主とランディバル侯爵とが繋がっている何よりの証だ」

「まぁ、何とかしろと捻じ込まれたって流れでしょうね。法主自らこんな下手を打つとは思えない」

「そうだな」

「持つべきものは優秀な相棒と手下でさ。その点、旦那は恵まれている」

「……確かに」

「今日は素直でいらっしゃる。反論する気力もない感じですかい?」

「うるさい、言ってろ」


 膝に落ちた食べかすを払いながら立ち上がる。濡れた上着を脱ごうとしていると、目ざとく察したキリエが背後に回る。

 彼の手を借りながら「アデバ大教院長には災難なことだったな。しかし、私にも多少の援助はできるし、何ならアウルドゥルク侯やエストソープ上級伯夫君に頼んでもいい。援助は惜しまないと伝えておいてくれないか」

「あぁ、その必要はないでやす。耳揃えて叩きつけてやったので」

「は?!」

「またですかい」


 ころころと笑いながら、キリエは濡れた服をばさりと広げた。

 ザインベルグは中途半端な薄着で突っ立ったまま呆然と「どうやって? 金貨1万枚だぞ」と呟いた。

「遊里には遊里の意地ってもんがありまさ。特に売られた喧嘩は返り討ちってね。ミスティア大教院への嫌がらせを放っておくような事はできやせん。七大楼の内の6軒で掻き集めて、アデバ様に無利子で貸し付けたんでさ。出さなかった1軒は言わなくても、ねぇ?」

「高貴なる薔薇楼か」

「おかげでただでさえ爪はじきなのが確固とした嫌われ者になっちまった。ありゃぁ、今後の商売にも差し障りが出る」

「しかし、無利子とはいえ相当な額の借金ではないか」

「ちったぁ、筋肉が落ちてげっそりするかもですが大丈夫でやすよ。むしろ、法服がゆったりと着られていいやもしれん」


 実におかしそうにくつくつと笑う様からは心配している風は欠片も感じられない。遊里に身を置く者がこういう態度ならば、アデバ大教院長は乗り切って行くことができるのだろう。それでもなお、心配であることに変わりはない。


「何か手助けできることがあったら遠慮なく言って欲しいと伝えておいてくれないか」

「へぇ。伝えておきやしょう。きっとお喜びになる」

「借金は手痛いが、考えようによっては一先ず安泰かもしれんな」

「まぁ、大教院長達とてアデバ様以外の全員が法主に抱え込まれているわけじゃあ、ないですからね。事実今回の金貨1万枚は流石にやり過ぎだ、と公言して憚らない大教院長もいたらしい」

「では当分の間、法主もアデバ大教院長には手出しできないな」

「へぇ」

 首肯して、キリエはニヤリと笑って見せる。


「だからあの筋肉ダルマの心配は御無用ですぜ。安心して禊場にかかってくだせぇ」

「少しは口を慎んだらどうだ。相手は大教院長だぞ」

「アデバ様だからいいってことです。それに法主の遣り口には教団内部でもかなりの不満が溜まって来ている。アレの天下もいつまでもつか」

「……清算の時か」

「何を以てツケを払いなさるか。見ものでやすね?」


 ふと差し込んだ純粋な悪意にキリエを見る。

 キリエはいかにも無邪気そうに目を細めて、ザインベルグの視線を受け止めた。

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