第8話 相乗り馬車の行方
色街・ドゥール=ベルテシアの一角にある“高貴なる薔薇楼”の隠された一室で感情が爆発した。
「一体、何なの! あの汚らわしい男はっ!!」
滑らかに輝く卓に向かって精緻な彫金の施された煙管が叩きつけられる。叩きつけられた煙管は卓にぶつかって床に跳ね返った。
床に落ちた煙管を何度も何度も踏み潰して、グリゼルダは部屋の奥にもう一度吠えかかる。
「あなたも一体何をしているの?! あのアデバとかいう無能な大教院長を何とかしなさいよ、今すぐ!!」
「そのように狂乱されては私も分かりかねますよ」
返って来た声はまろやかに凪いだ声だ。他人を宥めることに長けた声。
ファルスフィールド法主は手にした酒をちろりと舐めて、肩で息をしているグリゼルダに目の前の椅子を勧める。
「とりあえず座って話し合いましょう」
「結構よ!!」
今度はバチンと扇が飛んで来た。
法主はうんざりとした顔つきで扇をひょいとよける。彼の肩を掠めた扇は後ろの壁に当たって床に落ちた。
「何がそんなに気に食わないのですか」
「あの男よ! ザインベルグとかいう最下層の若造よ!!」
「ほぉほぉ、警務大務の。あれがどうしたと?」
「この妓楼で雇っている者を不当に逮捕して行くのよ。雇った端からどんどんと。私の妓楼と知った上でやっているわ、絶対に!」
「この妓楼で雇っている者達を、ねぇ」
法主は意味ありげに言葉尻を区切った。
「それで? アデバ大教院長の方は何ですか?」
「この間から監査だの聴聞だのとしつこく……! もうウンザリよ!」
「監査に聴聞……なるほど」
グリゼルダはどすん、とようやく腰を降ろした。
そして美しい吸い口を付けた紙巻煙草に火を点けて、苛々と忙しなく煙を吐き出す。
「何が娼妓は女神の使徒だから、よ。表面をどう取り繕うが所詮は商売女であることに変わりはないのに」
教義に対する明らかな冒涜を法主は無言のままに肩を竦めて受け流した。
口にこそしなかったものの、法主にとってもドゥール=ベルテシアの娼妓達が禊を受けた女神の使徒であることなど、実はどうでもいい。
ただ望んだ女と望んだ風に褥にふけこめればいい。それが岡場所の宿屋の2階だろうが、妓楼の一室だろうが。どうでもよいことだ。
「要は外部では警務大務が、色街内部ではアデバ大教院長がこの妓楼を狙い撃ちにしてくると」
「生意気な連中だわ」
「全く以て。見の程知らずの愚かな連中だ」
法主の一言に、グリゼルダの目が怒りに見開かれた。
「その愚かな連中を抑えるのがあなたの役目でしょう?! あなたが無能なせいで不利益を被る私の身にもなってちょうだい!!」
「……ほぉ」
法主の舌がするりと伸びて、蛇のそれによく似た動作でちびりと酒を舐める。
「おっしゃる通りにアデバ大教院長は私が引き受けましょう。このドゥール=ベルテシアの居心地を良くしたいのは私も同感ですからね」
「そんなの当然でしょ」
グルゼルダは婀娜っぽい唇を生意気にひん曲げて、ふん、と鼻を鳴らした。
「当然。当然ですか」
法主は卓上に肘をついて顎の先を手の甲に乗せる。
「何が当然なのか分かりかねますがね?」
「何ですって……!」
法主の纏う柔らかな雰囲気が急変する。
それはわめきかけたグリゼルダの言葉を押し留める程に威圧的な怒りの波動だった。動物的本能で口を閉じた彼女に、口調だけは穏やかなままに法主は語る。
「私は私の領分でのするべき事をします。ですが、貴殿もちょろちょろとうろつくネズミ共をしっかりと駆除してくださらなければ。所詮ネズミと侮っていると思わぬ病気をうつされることになる」
法主の上唇が凄惨に捲れ上がった。
「仲間の無能のせいで不利益を被るのがいかに迷惑千万なことか。貴殿ならお分かりでしょうからな?」
グリゼルダの全身がわなわなと震える。
彼女は一歩前に踏み出したが、すぐにクルリと踵を返すと乱暴な足取りで部屋を出て行った。バン、と勢いよく閉まった扉だけがグリゼルダに出来た精一杯の抗議だった。
怒れる猛獣が去った後、扉が気弱に開いて薄様を纏った少女が1人。音もなくするりと入って来た。途端に法主は蕩けんばかりに相好を崩す。
「戻って参ったか。
ほれ早くここに、と肉付きのいい膝を叩く法主の言うがままに少女は大人しく横向きに座ると、甘えた仕草で胸にすり寄った。
「あんな猛獣の後では一層可愛らしいのぉ」
女の香の少ない華奢な背を法主の分厚い手が愛撫する。
「しかし猛獣であることは別に構わない。ただ、相手を見くびる癖はいただけないな」
なぁ?、と同意を求めると少女は曖昧に笑ってみせた。
分からぬことがいい、とばかりに法主も満面の笑みを少女に返す。
そして、少女を膝から下ろすと、「ちと重いがあそこの彫刻を持って来てくれんか」と、部屋の片隅に置いてある小卓の上の少年像を指した。
少女はこくりと頷くと、素直に少年像を運んできて法主の前にゴトン、と置く。
その少年像は高さ約50cm程。腰布をまとっただけの半裸の肢体を優美にひねった姿が目を引く、見事な作品であった。
わずかに傾いだ細い首や自然に解かれた唇に妖艶な美しさが宿る少年像を見つめる目に賞賛の光が宿る。
「実に素晴らしい。この者こそ美の女神の使徒といえよう」
ほう、と豊かな溜息が洩れた。
法主は再び膝に乗って来た少女の耳元で優しく囁く。
「世の中には斯くも美しい男がいるのだよ」
「これは実際にいる人なのですか?」
「もう少年ではないがね」
「どなたのことですの?」
いとけなく訊いた少女の頬をそっと撫でて、法主は喉の奥でくつくつと笑った。
「これはね今の警務大務のザインベルグ一等爵士の若き日の姿さ」
「まぁ。お偉い方ですのね」
「そう。お偉い方なのさ。この彫刻を作り上げたフォーサイシン公爵は当代を代表する偉大な芸術家だが、彼の傑作群が作られた“ 黄金の10年 ”を支えたモデルがザインベルグ殿なんだよ。彼と組んだ10年間のフォーサイシン公爵の作品はどれも実に素晴らしい」
「でも警務大務にまでなられるような偉い方が、どうして10年間もモデルを務めたのですか?」
「それはね領地を持たない貧乏貴族に生まれたからだよ」
「お仕事」
ぽつりと少女は呟く。
少年像を見つめるつぶらな瞳に悲しみの影が過ぎった。
「そう。お仕事だ。しかもこのフォーサイシン公爵は芸術家であると同時にあることでも有名だったのさ」
小首を傾げた彼女に法主は「少年愛だよ」と、こっそり耳打ちした。
「あら……では」
「さぁ? どうだかね。真相は闇の中だ。私としてはそういう間柄ではなかったと思っているが」
「この方は今でもお美しいままですの?」
「あぁ、美しいよ。今でも十二分に。惜しむらくはフォーサイシン公爵がもうこの世にいないことだな。今の男盛りのあの美貌を彼の芸術家がどのように彫り上げるか見てみたかったものだ」
ぽっちゃりとした指が少年像の肢体をするすると這って行く。
「私はこの男を尊敬しているよ。貧に喘ぎながらも、自らの力量で人生を切り開いて行ったその強さを非常に高く買っている」
しかし、な。
彫刻の首に指がかかる。ぐぐっと力を込めた所で彫刻の虚ろな瞳は揺らぎはしない。
「ただ立ち尽くしているだけならば良いものを」
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