第7話 紫煙のひととき

“ いい葉巻が入ったから共に楽しもう ”


 薫る風に湿気がのり始めた5月末シリュスレイア。アウルドゥルク邸の喫煙室に通されたザインベルグは、緊張した面持ちで将来の義父の横に腰を降ろした。


「呼び立てて済まなかったな」

「いえ」

 

 アウルドゥルク家の喫煙室は粋な造りの落ち着いた空間だ。

 部屋に入るとまずモザイクタイルの床が目を引く。

 茶色をベースとしたタイルで幾何学模様の大振りな花が精緻に描かれていて、花の中心に当たる部分には、重厚な円卓セットが置いてある。

 入って左手の壁際には様々な喫煙道具が置かれたコンソールテーブルがあり、その脇には飾り棚がある。飾り棚の中には美術史的にも価値の高そうな見事な嗅ぎ煙草入れが品よく置かれていた。


「忙しいかとは思ったが、中々の逸品が入ったものでね? 残念ながら家の息子共は葉巻をやらないんだ」

「そうですね」

 細いシガレットを優雅に嗜んでいたジョーディの姿が甦る。アウルドゥルク家次期当主のジョーディの兄も嗅ぎ煙草を嗜んでいるところしか見たことがない。

「ま、やってくれたまえ」

「ではいただきます」

 

 円卓に置かれた葉巻入れから1本取り出して吸い口をカットする。葉巻をゆっくりと回転させながら、先端全体に着火していく。

 先端の外周にぐるりと火の赤い帯が出来たのを確認して、葉巻を咥えると豊かな香りが口から鼻に抜けた。煙をたっぷりと楽しんでから、ほうと吐き出す。


「これは見事ですね」

「そうだろう?」

 アウルドゥルク侯は機嫌よく返して、自らもゆったりと息を吐き出した。その様はしごくリラックスしており、純粋に煙を楽しんでいるように見える。

 

 だが、相手は歴戦の戦士と言ってもよい政界の重鎮である。

 娘の婚約者といえどもただ葉巻を共に吸うためだけに呼び出すとは考えられない。葉巻を吸いつつもザインベルグの心中は彼の侯爵の意図を見極めようと忙しなく考えが巡る。


 ザインベルグの焦燥を余所にアウルドゥルク侯は中々、用件を切り出そうとはしない。互いの葉巻は徐々に灰となっていき、ついには真ん中を越えてしまった。


「私はこれが綺麗に外れると何となく嬉しくてね」

 そう言いながらシガーリングを外したアウルドゥルク侯は嬉しそうに、おぉ綺麗に剥がれたなと微笑みを洩らす。

 そこまでが限界だった。


「閣下。本日は私に何か用があるのでは」

「用? だからこれが用だが?」

「しかし」

 ザインベルグが食い下がると、アウルドゥルク侯は視線を目の前に広がる庭園に向けて、静かに煙を吸い込んだ。

 ふぅーと長く煙が尾を引く。


「ま、肩の力を抜いてみることだよ。かぶりつきでは全体図を見ることなどできまいて」

 

 気を抜くにはこれが一番さ、と葉巻を示す侯爵の茶目っ気ある笑みに力が抜けた。

 してやられた、という気は不思議と湧かない。ただ、アウルドゥルク侯の寄せてくれる気遣いがありがたく、頼もしかった。 


 灰皿に置いていた葉巻を咥えて再度燻らす。口中を巡る煙を存分に味わって深く吐き出した。過ぎて行く時間が贅沢になる。そんなひとときに言葉はいらない。

 

 満ち足りた時が過ぎゆく中で、不意にかちゃりと扉が開く音がした。

 ザインベルグと顔を見合わせたアウルドゥルク侯が「ノックくらいしたらどうかね」と困ったように声を掛ける。

 すっと小さく開いた隙間から顔を覗かせたのは、恨めしそうな表情のシャルロットであった。


「ひどいですわ、お父様」

 低く呟く彼女は明らかに拗ねた様子である。


「せっかくアルフレッド様が来てくださったのに一刻も独り占めするなんてずるいですわ」

「一刻? そんなに経っておったか」

「だって葉巻1本吸い終わっておいでですもの。そのくらいは経ってますわ」

「それは済まなかったな」

 眉間を気まずそうにカリコリと掻く侯爵は、むくれる愛娘に戸惑う父親そのもので、思わず笑みがこぼれた。

「そなたが来ると聞いてからずっとそわそわしておったのを忘れておったわ」

 

 小声でそっと囁かれる内容にますます笑顔が広がる。ザインベルグは戸口で拗ねる婚約者の方に体を向けた。

「お待たせして申し訳ございません、シャルロット殿。宜しかったらお庭を案内していただけないでしょうか」

「もちろんですわ! いまの時期なら睡蓮の池の辺りがおすすめですの」

「いいですね。それは楽しみです」

「もう宜しいわよね? お父様」

「ああ、いいよ。行っておいで」


 ザインベルグは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。

「本日はありがとうございました」

「いい物が入ったらまた呼ぶよ」

 気安くそう言って、アウルドゥルク侯は2本目の葉巻を掲げた。



 シャルロット嬢のすすめる通り、睡蓮の池は風情のある美しい景色であった。


「でも、あの……」


 池のほとりを共に歩きながら談笑していると、つと彼女が歩みを止める。

 振り返るとシャルロットは目を伏せて何事か言いたげに指を絡ませていた。

「いかがなさいましたか?」

「あの、大務のお仕事が激務でお忙しいのは重々承知しております。父を見ておりますもの。でもここの所はお手紙を差し上げてもお返事がないもので……あの、ちょっと心配しておりました」

「……そうでしたね」


 ぴしゃり、と自分の額を打ちたい気分だった。

 アウルドゥルク侯の“肩の力を抜いてみることだよ”という言葉が甦る。

 ファルスフィールド法主の尻尾を掴む、その事にかかり過ぎて相当に色々な物を取りこぼしていた。


 まだまだだな、自分も。そう思いながら、ザインベルグはうつむいたままのシャルロットに歩み寄る。

「申し訳ございません、シャルロット殿。蔑ろにするつもりは全くなかったのですが」

「いえ私の方こそ……子供みたいなことを申し上げて。ただ、あの……」

「はい」

 シャルロットの伏せた頬がほんのりと紅くなっている。彼女は「あの」と言葉を継いだが、急に首を振ると顔を上げて可愛らしく首を傾げた。

「時々はこうして会いに来て下さると嬉しいです」

「なるべくそう致します」


 歩きましょうか、と促す。トトッとついて来た彼女が控えめにザインベルグの袖口をきゅっと掴んだ。

 いじらしさに絆されてシャルロットの手を取る。彼女は一瞬だけ手を強張らせたが、初々しい眼差しをザインベルグに向けて微笑んだ。


「そういえばアルフレッド様はマジュスの花灯籠はご覧になったことはございまして?」

 ザインベルグはしばし考えてから、いいえと首を振った。

「バラカ通りの並木道は? 今が見頃ですのよ」

「名前だけは聞いたことがありますが、生憎と」

「では禊場には行ったことがありまして?」

「禊場?」

 異質な響きに不審を覚えて問い返すと「御存じありませんか?」と逆に問われた。

「いえ、初めて聞きました」

「あら」

 シャルロットは軽く目を見張る。


「禊場は玉都に来た巡礼者が一番最初に向かう所ですのよ。巡礼者達はまず禊場で体を清めてから各大教院に行きますの」

 巡礼者、という単語に鼓動がドクン、と跳ねた。

「元々は巡礼者が体を清めるための簡易的な温泉施設だけだったようですわ。今では一般に向けても開放されていまして、趣向を凝らした素晴らしい庭園や噴水のある美しい街になってますの」

「なるほど」

「今の時期ですと……薔薇園が一番かしら」

「禊場というのは今でもやはり巡礼者が多いものなんでしょうか」

「あ、えぇ……。開放されておりますけど、基本的には禊する場であることには変わりありませんからね」

「そうですか」


 やって来る巡礼者達に、それを迎え入れる禊場。

 玉都での拠点を探すこの段階で、そのような場所があることすらも知らなかった自身の迂闊さに今更ながら呆れてしまう。

 公的な教院では何かと目立つだろう。確かに人目を忍んで悪事を働くには、こういう場所の方が事は運びやすい。

 法主という獰猛な獣を前に4人それぞれが気負い過ぎていたのだ。常に感覚を張り巡らしているであろうジョーディさえもが。


 やはり没頭し過ぎは良くないということか。


「アルフレッド様? どうかなさいましたか?」

 シャルロットの声で我に返る。

 彼女は心配そうに眉を曇らしている。純粋に光る無垢な瞳にふと、奥底が揺り動かされた。


 15も年齢が違うのに好意を寄せて来る彼女には、はっきり言って困惑しか感じていなかった。

 この先も恋愛感情は抱けないかもしれない。

 でもこの女性を不安にはさせたくない、心安らかにいて欲しい。唐突にそんな願いが浮かんだ。

 

 ザインベルグの肩からふっと力が抜ける。

「薔薇がお好きなのですか?」

「え? ええ」

「では今度一緒に参りましょうか」

 シャルロットの目が見開かれて、見る見るうちに喜色が全身に広がって行く。


「えぇ、えぇ! 是非!!」

 かぶりつかんばかりに前のめりになった彼女に自然とザインベルグも笑顔になる。

 紅潮した頬で寄り添って来るシャルロットと共に睡蓮の咲き誇る池を行く。

 わずかなさざ波を立てて、水面を駆け抜けるそよ風が心地良く2人を取り巻いていた。

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