第3話 わずかなる違和感
毎朝定例の御前会議が無事に終わり、欠伸たっぷりの皇帝リスディファマスが退席して行く。殊勝に頭を垂れて見送った一同に安堵の空気が流れた。
和やかな雰囲気で三々五々と散り始めた大務達に先んじて、ザインベルグはいち早く皇帝の執務室を出た。大股で颯爽と行く彼を後ろから呼び止める声がある。
足を止めて、厳しい視線を向けたザインベルグに片手を上げてみせたのは、シャルロット姫の実父で地統大務のアウルドゥルク侯爵だった。
「呼び止めて済まなかった。急ぎの用でもあるのかな?」
「いえ、特には」
「そうか」
「何か御用でしょうか?」
「いや、別に用と言う用はないのだがね」
「はぁ」
意図が分からずに怪訝な気持ちが顔に出る。
アウルドゥルク侯爵は将来の娘婿の腕を親しくポンと叩くと、心持ち声を潜めた。
「まぁ、老人の戯言と思って聞いてくれれば良い」
「何でしょう?」
ここ、とアウルドゥルク侯爵は自らの眉間をトントンと叩く
「会議の間中、ずっと力が入っておったぞ」
「そう……でしたか?」
眉間を押える若者に老人は、伸び伸びとした笑顔でゆったりと首肯した。
「ちと、気になってな。官制八師の仕事はどれも多岐に渡っていて、重大な決断を求められることも多い。そのように始終、力を込めていては身が持たないぞ」
「以後、気をつけます」
「まぁ、あれだ。大詰めの時こそ慎重に、しっかりと地固めをすることを忘れてはならぬ。気の張り過ぎは闇夜の行燈よ。ついつい視野が狭くなる」
ザインベルグの形の良い唇が優美な曲線を描く。彼は片手を胸に添えて、恭しく一礼した。
「ご忠告痛みいります。肝に銘じておきましょう」
「いつでも力になるから。遠慮はいらんぞ」
そう言うとアウルドゥルク侯爵は会釈を残して立ち去って行った。角を曲がって行く壮健な姿をその場で見送っていると、「これはこれは警務大務殿」と馴れ馴れしくかかる声がある。
特有の鼻にかかった言い方は間違えようもない。
ザインベルグはすっと息を吸いこんで、丁寧にファルスフィールド法主を迎えた。
「いやぁ、ザインベルグ殿。聞きましたぞ」
巨体を揺らして来た法主はにこやかな表情でザインベルグを見上げる。
「シャルロット嬢との婚姻の日取りが決まったとか」
「ええ。お陰様でつつがなく」
「確か、
表面上は友好的に微笑みかけて来るものの、残念ながら目は全く笑っていない。それでも敢えて自分に話しかけて来る流石の胆力に内心舌を巻きつつ、ザインベルグは微笑んだ。
「はい。その時期なら暑さも落ち着いて丁度いい時期だろうと」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも」
うんうんと何度も頷く度に顎下の肉がふるふると揺れる。
「これで貴殿もアウルドゥルク侯爵家との繋がりを得て、ますます栄達の道が開けますな。我らが帝国のためにより一層の献身を期待しておりますぞ」
「勿体ないお言葉でございます」
慇懃に身を屈めつつもザインベルグの中で囁く声がある。
この狸めが。
澄ましこんだその顔もいつまで持つものか。
聖職者然とした顔の裏に隠し続けた醜悪な本性がもうじき白日の下に晒される。後一歩の詰めさえ見誤らなければ、今度こそ確実に尻尾を捕まえられる。
確固とした自信が余裕の微笑みとなる。
そんなザインベルグに向かって、法主は豪奢な僧衣に包まれた分厚い肩を竦めた。
「いやぁ、それにしても私はアウルドゥルク侯爵がお羨ましいですぞ」
「と、おっしゃいますと?」
「アウルドゥルク侯爵は跡継ぎのご子息も地統師の准参預として立派に責務を果たされている上に、今度は貴殿のような若手の有望株を娘婿に持てるとは。いやはや、羨ましい限りです」
慎ましやかに同意を示しつつも、名状しがたい感情がじわりと胸の内に広がる。
「私なんぞは未だに跡継ぎの1人もおらず、身内から誰を迎えようかと算段している次第で。当分の間はこの老体に鞭打って行くしかないようですな」
「そんなご謙遜を。法主聖下のようにご壮健な御方が老体などと」
「ほっほっほ。滅相もない」
心底機嫌良さそうな笑い声を上げて、法主は一歩こちらへと歩み寄って来た。
たっぷりとした顎肉がぐっと、首へと埋まる。やや上目がちにザインベルグをねめつける瞳は不気味な三白眼だ。
「本当にアウルドゥルク侯爵は果報者ですなぁ」
抑揚の欠けた物言いにスッと背筋が冷える。
間近で覗いた法主の瞳にあるのは不敵な光だった。自らの急所を押えられた者特有の揺らぎなどない。ひたすらに自信に満ち足りた瞳であった。
しかし次の瞬間には元通りに身を引いて、法主は聖職者らしい慈しみに溢れた穏和な笑顔となる。
「それはアウルドゥルク侯爵もお喜びなさるでしょう」
「そうですかの。では今度、侯爵に直にお伝えしましょうぞ」
では失礼、と闊達に言い置いて法主は去って行った。
水に垂らされた一滴のインクのごとき疑念がゆっくりと心中に広がって行く。ザインベルグは法主の去った廊下の先を眺めたまま、しばらくその場に立ち尽くした。
◆◇◆
相対した法主との会話を思い出しながら、ザインベルグは馬車から降りた。
一度生まれた違和感は中々に胸から去らない。
アウルドゥルク侯爵の忠告と合わせて沈思黙考していた彼は、玄関前ですれ違った貴婦人におざなりな会釈をして脇を通り過ぎる。
その瞬間に、しまった、と思ったが時既に遅し。聞き慣れた居丈高な調子が辺りに轟いた。
「あらまぁ。警務大務殿は随分とお忙しそうですのね」
足を止めて振り向く。
そこには場違いな徒花が1輪、咲き誇っていた。思わず舌打ちしたくなる不運な邂逅に、無駄と分かりつつも背筋を正して頭を下げる。
「失礼致しました。ランディバル侯爵」
ランディバル侯爵グリゼルダは婀娜っぽい唇を歪めてこちらを睨みつけて来る。
昨年の秋口に、大師卿だった夫君を強引に押しのけて大師院に乗り込んで来た彼女は、事あるごとにザインベルグに噛みついて来る厄介な存在だ。
「本当にそう思っているんだか」
目を眇めて言い放った様子からして簡単には解放されそうにない。ザインベルグは一刻も執務室に戻りたい心を押し隠してグリゼルダに再度頭を垂れた。
そんなザインベルグにグリゼルダの容赦ない叱責が浴びせられる。
「貴族紛いのあなた方、
グリゼルダはこれみよがしに全身で溜息をついてみせた。
彼女が大師卿についてからはこんな光景が頻繁に繰り広げられているのだ。声を張り上げる彼女を避けて行く職員達の表情は迷惑を通り越して、最早呆れ顔である。
「ま、尤も」
そう言って彼女はクルリと踵を返す。
美しい刺繍のほどこされた裾がふわりと華麗な軌跡を描いた。
「裏で手を回して大務の地位を手に入れたあなたみたいな方には、何を言っても無駄ですわね」
思い込みと独断で練り上げられた、身勝手な悪口をザインベルグは黙って聞き流す。それこそ彼女みたいな、自らの偏見を世間の常識と思っている人間には“何を言っても無駄”なのだ。
下げていた頭を元に戻す。
彼女に浴びせられた言い掛かりなど、どうでもいい。今は胸の内にわだかまる違和感の正体を探る方が遥かに重要だ。
悪意の奔流を引き連れたグリゼルダを見送って、ザインベルグは足早にその場を後にした。
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