第2話 執務室の3人
警務大務の執務室でユベールとザインベルグは憂慮に満ちた顔を突きあわせた。
「連絡は来たか?」
ザインベルグの問いにユベールが力なく首を振る。
ユベールはそれ以上何も言わないが、組んだ腕を忙しなくトントンとたたく人差し指に彼の焦燥が見て取れる。
それは書机の前にいるザインベルグも同様だ。頬杖をついた彼は決裁を待つ書類の束をしきりに指で弾いていた。
「昨日あたりには玉都に到着すると聞いていたが」
そう答えてユベールは参ったとばかりに天井を仰ぎ見る。
「関番に確認してみたが、ナタンらしき人物が門を通過した形跡がない」
「……まさか玉都に入る前に?」
「あれがそんなヘマをするとは思えないが、奴さんも必死だろ。万が一ということもある」
「街道筋に当たってみるか?」
いや、とザインベルグは自らの言葉を否定して、沈痛な面持ちで目を閉じた。
「もし万が一ならば街道にはないだろうな」
「だろうなぁ」
「……どちらにしても、もうしばらく待つしかないか」
ユベールは重い吐息をついた。
充血した目を閉じて、眉間をしかめ面で強く揉み込む。ザインベルグも凝り固まった肩回りの筋肉をほぐすべく、ぐるりと肩を回した。
待つしかない身の焦燥と疲労が室内に澱のごとく凝っていく。そんな中、不意にノックの音が高らかに響いた。
「どうぞ」と声を掛けるより早く開いた扉に、ザインベルグの表情が更に苦々しくなる。
「困ります!」
秘書官の迷惑顔を背景に能天気な笑顔が戸口で咲き誇った。
「やぁ、麗しの義弟よ!」
「……まだ婚約中ですが」
「では、未来の義弟よ。未来のお義兄さんが来たよ」
遠慮なくツカツカと入って来たジョーディは、ユベールに優雅な一礼をすると、さも当然とばかりにその向かいへと腰を降ろす。
ザインベルグは憤懣やる方ない、といった秘書官に「すまないな」と詫びを入れると、ゆったりと足を組んで微笑む貴公子に皮肉な一瞥をくれた。
「未来の義兄上殿はここがどこだか毎回、失念されるようですが」
「いや? 分かっているよ。警務大務の執務室だ」
無邪気に目をぱちくりとさせる様に言い返す気も失せる。
ザインベルグはぐったりと椅子にもたれかかって、半ば投げやりに問い掛けた。
「で? 今日は何ですか」
「それよりも紹介してくれないかね?」
「……ん?」
ジョーディがひらりと手の平をユベールに向ける。ユベールがきょとんとして自らを指差すと、彼は鷹揚に頷いた。
「……彼はユベール=オルヴィニタ=セプティア殿。警務師
「おぉ! 貴殿がユベール殿か」
「こちらは、ジョーディ=トソリアント=アウルドゥルク殿。……シャルロット姫の兄君です」
「アルフレッド殿の義兄のジョーディです。以後、お見知りおきを」
気安く出されたジョーディの手を、ユベールが愛想よく握り返す。
ジョーディの高等遊民らしい屈託のない笑みを見つめるユベールの目には、奇異な物を眺める好奇心がありありと浮かんでいた。
「それで? 義兄上は一体何の用で?」
「昨夜のことなんだが。知人と月夜のお茶会と洒落込もうとしたらある拾い物をしてだね」
「また酔狂なことを」
「手厳しいな、君」
やれやれと肩を竦めたジョーディの瞳が一転。不穏な光を灯して僅かに細くなる。
「……ナタン、と言ったかな。その拾い物は」
「今、なんと?」
ユベールが身を乗り出す。ザインベルグも思わず身を起こした。
「ナタンと名乗る人物なんだが、彼は毒にやられていてね。今は僕のヴィラで静養中だよ」
「つまりナタンは無事、ということですか?!」
「知人がその場で毒抜きをしてくれたからね。まぁ多少の療養は必要だが、命に別状はない」
ユベールの肩から力が抜ける。彼はソファに身を投げ出して、腹の底から深く息をついた。
「それでね?」
ジョーディの優美な手がすっと応接机に置かれる。かたり、と小さな金属片がその手の内から現れた。
息を詰めたザインベルグとユベールの顔を交互に眺めて、年若い貴公子は可愛らしく首を傾げる。
「僕にも説明してくれるかな?」
◆◇◆
ユベールの簡潔で的確な説明にジョーディは腕を組んで何度も頷いた。
つまりは、と切り出した彼の様子には、普段の気障ったらしいポーズは全くない。鋭敏そのものの横顔は、父・アウルドゥルク侯を彷彿とさせる。
「あのナタンは特命で人身売買組織を追っていたというわけか」
「組織的に棄民狩りを行っている者がいるのでは、という報告が上がったのが大体3年前です。ナタンは当初から捜査に専従しており、多大な成果を上げて来ました。しかし相手が中々に悪質だった」
そう言ってユベールはぐっと両手を握り込んだ。筋が浮かび上がる程に強く籠った力に全ての無念が詰まっている。
親友の無念はザインベルグ自身の無念でもある。彼はうつむいたユベールの横顔を見やって、言葉を継いだ。
「捜査に送り出した偵吏はことごとく殺されて、唯一生き残ったのがナタンだったのです。そして彼は組織の実態を解明して、確かな証拠も押さえた」
「その証拠とやらがこの金属片に?」
そうです、とユベールは頷いた。
「その金属片にはナタン達が調べ上げた全ての情報が精道法で刻まれております」
「その情報を精査して、後は玉都での拠点を探し当てれば全てが結実する」
「……当然、あれは死にもの狂いで抵抗する」
「そりゃあそうでしょう。どう見ても地位と金に固執するタイプでしょう」
低く呟いたジョーディにユベールが同意する。
ジョーディはユベールとザインベルグに視線をやって、その口元を厳しく引き結んだ。固く結んだその口から、1人の名が洩れる。
「ファルスフィールド法主……か」
3人の胸の内に欲望のままに肥え太った彼の貪欲な姿が浮かぶ。
己の利益のために皇太子を弾劾裁判に追い込んだ法主の抱えた闇は世間が思う以上にどす黒く、深い。
「しかし、どうなんだ」
「何がでしょう」
顎に手を添えて考え込むジョーディにユベールが熱心に聞き入る。
「どうにもタイミングが悪くないか。何しろ、ラハルト殿下が不在で朱玉府が死に体もいいところだ」
「そうなんですよねぇ……我らでは貴族の逮捕ができない。そこは朱玉府の領分なんですが、ラハルト殿下不在ではね」
「まさか陛下が北方の妖魔討伐に殿下を駆り出すとは。ラハルト殿下は御年81才ですよ?」
ザインベルグの嘆息にジョーディも「まったくなぁ」と呆れ顔で相槌を打った。
「確かに殿下は宮廷精道士団の団長ではあるが、何も御大を担ぎ出さなくても配下の者で十分だろうに」
「陛下には何らかの意図があるのでしょうか?」
ユベールは意味ありげに2人の顔を見て、つと声を潜めた。
「最近の陛下のなさり様は脈絡がなさ過ぎる。スルンダール上級伯の処遇にしてもそうでしょう。ご子息のスーシェ殿が皇太子奪還の一味だったせいで謹慎を申し渡すまでは分かるのですが……ねぇ?」
「皇内大務の任は解かれていない」とジョーディが言い添える。
「皇内大務のままで謹慎になっているものだから、最終決定権を持つ者が不在で皇内師も混乱の極みらしいですね」
「混乱は皇内師だけじゃないさ。唐突に今年の遍登は中止するわ、無理矢理に徳政令を発布するわ。今までの手堅い政治手腕はどこへ行ってしまわれたのか」
「……一体、この国で何が起きているのか」
ザインベルグの言葉に他の2人が一様に考え込む。
しかしその答えは、問いを発した本人にも、問い掛けられた2人にも容易に分かることではなかった。
コホン、とジョーディが小さく咳払いする。
「それにしても君も大変なようじゃないか?」
「私……ですか」
明るい調子で彼に話しかけられたザインベルグの視線が宙を彷徨う。虚を突かれて返事に窮した義弟にジョーディはいたずらっ子のウィンクで返した。
「ほら。すごいのが大師卿に入っただろ」
「あぁ、入りましたね」
先に察したユベールがにやりと相好を崩す。
彼はいまいちピンと来ていないザインベルグにいつものぞんざいさで、「ほら、あれだよ。あれ。夫君に取って代わったのがいるだろ」
「ランディバル侯爵……グリゼルダ殿か」
ザインベルグは思わず苦笑いを洩らした。
「すごいでしょ、彼女。ガチガチの血統主義で。始まりの七氏族以上しか貴族じゃないなんて今時言っちゃう時点で、もうね」
「初回の会合から凄い臨戦態勢でしたからね。アルフレッドの提案はことごとく反対して来てね。……まぁ、正直。ねぇ」
「うるさいのは確かですね。しかも警務師内のことなどこれっぽちも分かっちゃいない。ただ一等爵士で官僚貴族の私が大務になったことが気に食わない。それだけで大師卿に乗り込んで来たのでしょうね」
「彼女……気をつけた方がいいよ。多分、法主と繋がっている」
ザインベルグの眉がわずかに跳ね上がった。
じっとジョーディに注視した彼に、未来の義兄はいつになく真剣な面持ちで視線を返した。
ザインベルグはついと視線を外すと、手元に目を落として書類の山の上にトトン、と指を置く。
「承知致しました。重々肝に銘じておきましょう」
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