第1話 深き闇を行く

 帝紀467年 5月シリュスレイアのある夜。

 ナタンは玉都アディリス=エレーナ郊外を1人ひた走っていた。


 冷たく静まり返った夜にこだまするは追って来る複数の足音。入り乱れるでもなく、寧ろ整然と迫って来る足音は底知れない不気味さをはらんでいる。


「くそ……」


 彼の口から悪態が洩れた。

 足取りがやや乱れて、よろけた足の間にぽたぽたっと黒い染みが出来る。

 それでもナタンは歯を食いしばって、胴巻きを上からそっと押えた。指先に微かに感じる硬質さが、仲間と共に積み上げて来た3年間を如実に伝えて来る。


 無駄には出来ない。

 そこに含まれているのは3年の月日だけではない。仲間達の命も含まれているのだ。


 見通す視界の果てには、茫洋とした灯りに包まれた玉都の姿が見える。

 ナタンの過酷な旅の終わりを告げるはずの街。あの街でザインベルグに情報を渡しさえすれば、事件は大きな局面を迎えることになる。

 

 追っ手達も必死だ。

 玉都に近付いた時が彼等にとっての最大のチャンスとなる。その事は重々承知の上だった。


 襲撃を予想し、現に死線を掻い潜って来たものの腕を掠った一撃が命取りだった。

 切られた左腕から広がる毒がゆっくりと全身を蝕みつつある。


 襲撃者達はナタンを無理に討ち取ろうとはせずに、一定の間合いを保ってついて来る。毒が全身に回り、動けなくなったところを確実に仕留めるつもりなのだ。

 

 ナタンは街道に戻ることも玉都に近付くこともできないままに、狭まって行く包囲網に追われていつしか街道から外れた所にある人気のない湖のほとりへと追い込まれていった。


 夜闇に紛れて湖面は見えない。その存在が分かるのは岸に寄せる深い波の音のみだ。

 柔らかな下草の生えた岸辺へ踏み出したナタンの足取りは先程に比べても明らかによろめきが大きくなっている。


 上り始めた呼吸のせいで視界が上下する。噴き出した冷や汗を乱暴に手の甲で拭いながら見回す先でカラン、と硬質な音が上がった。


 闇夜にぽぅとランタンが浮いている。

 シェハキム石の放つ澄んだ光がかすみ始めた目に目映く刺さった。


 ナタンは思わず歩みを止めた。これは明らかにまずい。

 まさかこんな夜半に街道から外れた湖を訪ねる人間がいるとは思わなかった。このままではこちらの抗争に無辜の人間を巻き込んでしまう。


 大きく息を吸いこんで、ランタンから逃げるように方向転換しようとした。だがそこまでが限界だった。

 ぐらりと重心がぶれる。慌てて、手をついたもののナタンは片膝を着いた体勢のままで動けなくなってしまった。


 湖畔にあった灯りがこちらへと近づいて来る。さくり、さくりと草を踏む音が闇の中から聞こえる。

 やがて、トンと背中に触れる手があった。


「怪我をしているね」


 若い男の声だ。

 柔らかく光るシェハキム石がそっとナタンを照らす。


「顔色も良くないようだ」


 状況にそぐわない穏やかな口調に、声の主を確認しようと試みるも限界を迎えた体が言う事をきかない。


「……に……げろ……」


 やっとの思いでそれだけを口にしたが、男は「ふむ」と要領の得ない返事をするばかりで一向に立ち去る気配がしない。


 さ、さ、さ、と草が鳴る。

 例の統率された複数の足音が周囲を交差して、蹲るナタンと若い男をぐるりと取り囲む。苦しい息の間からようやく見上げた彼等は闇夜と一体化した黒装束をまとっていた。


「……くそ……」


 ここまで来て、と唇を噛み締める。

 死ぬ覚悟はこの任務に着いた時から出来ている。だが掴んだ情報を相手に奪われて死ぬ覚悟など出来ていない。


 何とかして突破口はないか。

 脂汗の間から必死に状況を探るナタンを余所に、場に響いたのは若い男のいまいち締りのない物言いだった。


「多勢に無勢とはいかにも忍びない。すまないがこのまま立ち去ってくれまいか」


 2人を囲む輪が一段、じりと狭くなり、ナイフを構える冷たい気配がする。男の言葉に対する返事は無情なものであった。


「……ならぬか」


 若い男の落胆した声が頭上からした。 

 トン、と地面を叩いた杖の先でランタンが再びからん、と揺れる。

 途端に闇夜に黒い雷が走った。


 若い男の足元から放射状に放たれた黒い雷が、2人を取り囲む襲撃者達をたちどころに絡め取る。襲撃者達は断末魔を上げる隙さえないままに、一瞬の内にもがき苦しむ影となって地面に吸い込まれて行った。


「……なっ……!」


 予想外の出来事にナタンは毒の苦しみさえも忘れて、呆然と周囲を見渡した。

 地面に転がったナイフが細い三日月の光を受けて空しく一条の輝きを放っている。それを見てもなお、自らの前で起きたことに理解が追い付かない。

 

「……あなたは一体……」

「これは失礼! 待たせてしまいましたな」

 飄々とした声が辺りに響き渡る。若い男は声のした方にランタンを差し向けた。


「ジョーディ、遅いぞ!」

「いやぁ、道に迷いましてね。申し訳ございません」


 ランタンの放つ光に吸い寄せられて来たのは、随分とめかし込んだ若者だった。深夜の湖のほとりに現れるには、いささか派手な身なりである。

 人懐っこくはあるが、一癖も二癖もありそうな胡散臭いその笑顔にはナタンも見覚えがあった。


「アウルドゥルク侯の……ご子息、ですか」

「そうさ。君の頭目たるザインベルグ殿の素晴らしき義兄上だよ、ナタン殿」

「何故、私の名を……」

「さぁ、なんでだろうねぇ」


 ジョーディは蹲るナタンの傍らに膝をつくと、その背中に片手を添えた。

「君、よく頑張ったね。私が来たからにはもう大丈夫だ。貴殿の身は私が責任を持ってザインベルグ殿の元に送り届けよう」

 ナタンとジョーディの目がかち合う。

 事を見極めようと凝視するナタンに、ジョーディがしっかりと深く頷いて見せた。

 先に視線を外したのはナタンの方だった。


「かたじけ……な……い」


 ナタンの全身から力が抜ける。そのまま横倒しになりそうになった彼を受け止めてそっと地面に横たえる。


「毒ですよ、クローシュ大兄」

「……まったく」


 クローシュのランタンがナタンの体を頭からつま先へと一撫でした。

 黒い粒子がナタンの体から湧き上がって、空中へ霧散して行く。青ざめて、紙のように白くなりかかっていた顔色に微かな赤みが差し始めたのを確認してから、ジョーディはパン、と闇に向かって手を叩いた。


 どこからともなく現れた侍従達がナタンを丁重に持ち上げて連れて行く。

「丁重に! 丁重にな!」と呼びかけるジョーディの背中にかつん、とランタンの角がめり込んだ。


「私は静かな湖畔で月見でもと誘われた覚えがあるのだが。どういうことかな?」

「あれ、でも。静かな湖畔で月見じゃないですか。クローシュ大兄。何か違いますか?」


 ジョーディはいつもの大仰さで両手を広げて見せる。わざとらしさも突き抜ければ愛嬌になる。

 

 クローシュと呼ばれた若い男はもう一度「まったく」と呟くと、ジョーディから視線を逸らした。


「それで? わざと遅れて来たのはあの男を私に助けさせるためか」

「いやぁ、そんなやけっぱちなこと」

 言いかけて、ジョーディは軽く肩を竦めた。


「実は相当なピンチでした」

「珍しく認めるか」

「生憎と私は戦闘向きではないもので。ここは1つ、神々の生き残りにして我らエフィオンの源たるエンフィージアのお力に縋ろうかと」

「ここぞとばかりにヨイショして来るな」

「もちろん私とて大兄にタダ働きさせる気はございませんよ。これこの通り」

 

 ジョーディが闇に向かって手を差し出す。いつの間にか脇に控えていた侍従が恭しく1冊の本を彼に手渡した。

「我が家の書庫に眠る逸品です。大兄ならばその価値がお分かりいただけるかと」

 古めかしくはあるが、凝った装丁の美しい本が差し出される。


「本さえ渡しておけばいいと思っているだろ」


 返す言葉は不機嫌な調子だが、ランタンを近付けて表紙を覗き込むクローシュの目元には隠しきれない喜色が浮かんでいる。

 彼はほぅ、と満足の息を洩らすと本をそそくさと小脇に抱え込んだ。


「ま、いいだろう。今日の所は黙って使われてやろう」

「では大兄。少々、踏み荒らされてしまいましたが、月夜のお茶会と洒落込みましょうか?」

「やめだ。興が削がれた。今日は帰る」


 ランタンがくるりと一周、クローシュの頭上を回る。

 光の軌跡が闇夜を切り裂き、元の場所に戻ると同時にクローシュの姿はふっと消え失せた。


「掃除も程々にね、ジョーディ」


 後に残された言葉が夜の空気に溶けて行く。

 ジョーディの肩から力が抜けた。


「そうは言われても……ね。 殿下のためには少しでも綺麗にしておかないとダメでしょう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る