第7話 揺れる森 ①
月が明けて
朝晩は相変わらずの張りつめた寒さがあるものの、日中に降り注ぐ陽光には微かな温かみが混じり始めている。カザクラ大公領は早春を迎えようとしていた。
そんなある日。
鍬を振るフェスタローゼの傍らで香箱座りをしていたハヤカゼがおもむろにムクリと立ち上がった。
「どうしたの?」
尋ねる言葉尻に「ナギハ様!!」と、切羽詰まった声が重なる。
駆けこんで来た年若い伝令兵は上擦った様子で、鍬を片手にしたナギハに型通りの敬礼をした。
「何用か」
「街から南東方向に
「ソロスは? 出たか?」
「父上は確か、早朝より山賊狩りに出ております」
ナギハの質問にエルマイネが素早く答える。
「分かった。すぐに行く。エルマイネ、お前もだ」
勇ましく踏み出した一歩を止めてナギハが振り返る。
「私の古い鎧があったな」
「ええ、まぁ。一応」
「そうか」
ふん、と軽く首肯して彼女は不敵に小首を傾げた。
「よし、お前も出るぞ。……ローザ殿」
◆◇◆
フェスタローゼは騎乗した大型の鳥型妖魔ファンチの首筋を、そっと撫でてみた。
皮手袋を通してもその柔らかい羽毛がしっかりと感じられる。黒い体毛に一抹の白地が入ったファンチは「クァァ」と独特の鳴き声で答えた。
「馬に乗れるならば大抵、乗れますがどうですか?」
傍らに並んだエルマイネにフェスタローゼは微笑みかけた。
「何とかなりそうです。乗り心地も馬より柔らかくていいですね」
「それは良かった。樹人相手だと、馬よりもこのファンチの方が向いているのです。足が速くて機動性に優れてますからね」
「ま、姫様が落下してもハヤカゼが咥えて離脱するでしょ」
ラムダの言葉にフェスタローゼの右側にピタリと付けたハヤカゼが、ふんす!と鼻息で答える。初体面でフェスタローゼにベタ惚れになって以来、ずっと共にいる彼女は、当然のように着いて来ている。
「ハヤカゼの世話にならないよう、しっかり齧りついておきます」
「ラムダ殿もお見えなので余程、大丈夫でしょうが何分戦場ゆえ。油断なされないように」
「承知しました。足を引っ張らないように努めます。本日はよろしくお願い致します」
真っ直ぐに見据えて頭を下げた彼女に、真顔で目礼を返すとエルマイネは部隊の先頭に戻って行った。
フェスタローゼはカザクラ大公軍の全容をざっと見渡す。
規模は1個大隊というところか。城壁前に整然と並ぶ様からはその練度の高さがよく分かる。
「先頭に長槍部隊なのね」
「まずは突撃を抑える必要があるからね」
「なるほど」
頷く先で、無数の長槍が頼もしく天を突いて揺らめいている。長槍部隊の次に控えるのは杖を携えた精道士部隊、それに続くのは斧を担いだ近接部隊だ。恐らくはカザクラ大公軍でも精鋭が集中しているのだろう。近接部隊の面々は誰もが歴戦の勇者という風格を、漂わせている。
「樹人て、どんな感じ? 見たことないのだけれど」
「いやぁ、まぁ……木?」
「そのままじゃない」と思わず口元を緩ませたフェスタローゼを、ラムダが「し!」と制して、緊迫した目つきで前方を見やる。傍らでハヤカゼが「ぐぅぅぅ」と低く呻いて、ざわざわと揺れていた長槍がぴしりと揺らぎを止めた。
見渡す先で森が揺れている。
雄大に広がるカザクラ領の深い森が、風に揺れてごうごうとなびいている。寄せる風に葉をなびかせる森の縁から木々が不意に溢れ出した。
森の際が動いている。そうとしか言いようのない動きで木の群れが突っ込んでくる。どどど、と大地を揺るがす振動が次第、次第に迫って来た。
「長槍、構えよ!!」
凛と張った声が城壁の上から降り注ぐ。
首を巡らして見ると、白銀輝く鎧をまとったナギハの姿が青い空を背景にくっきりと浮かび上がっていた。左手を前に突き出して、前方を見据えるその姿は戦女神・シリィの現身のごとくに厳粛で、侵し難い神々しさに包まれていた。
「我らの背後には守るべきものがある! 振り向くな、前だけ見よ!!」
少女のものとしか思えない清廉な響きに、「おう!!」と短い気合いの声が大地を揺るがす。
押し寄せる樹人に向けて、長槍が水平に構えられる。隙間なく密集した槍衾に樹人の群れが突撃して来た。
正しく木が激突して来る。茂った葉を揺らし、盛大に枝を振り回すそれらは“木”にしか見えない。大いに張った枝の威力は凄まじく、槍衾を蹴散らす勢いでぶぉん、ぶぉんと風を切る音が後方まで聞こえて来る。
「放て!!」
ナギハの号令に応じて、長槍部隊の後方から杖が中空に向けて差し出された。杖の先が一斉に光を帯びて、無数の精道陣を宙に描く。間断なく並んだ精道陣から凄まじいまでの風が巻き起こり、鋭い刃となって樹人に襲いかかった。
きぃあああ、と甲高い悲鳴が樹人から上がる。突風の刃に枝を払われて幹をよじる樹人達に大斧を振りあげた近接部隊が一気に襲いかかった。彼等は容赦なく樹人の根を切りつけて動けなくしてから、その幹を打ち据える。幹を切る重い衝撃音が満ちる中、ナギハの指令が雷のごとくに鳴り響いた。
「エルマイネ! 左方前方、2番隊に回れ!」
「承知致しました!」
「姫様、行くよ。俺の側を離れないで」
「はい」
「がう」
「いや、お前の心配はしてない」
ラムダの突っ込みにハヤカゼは、心外だとばかりに両耳をぴくりとさせた。
遊撃部隊のエルマイネにくっついて戦場を駆ける。
ファンチは辺りに張り巡らされた樹人の根をひらり、ひらりと身軽に避けて行く。この足さばきは確かに馬には難しいかもしれない。
隙間なく編成された長槍隊の後方から大きく回り込むと、突然視界が開け、エルマイネ達は一気に前線へと躍り出た。ナギハの指示の通りに、樹人の群れに押し込まれそうになっている部隊を側面から支援する。
「一度後方へ下がって隊列を立て直して下さい! 怪我人は無理をせずに医療班の所へ、ここは任せて下さい!」
エルマイネが指示を飛ばすと、大勢の兵士達が一糸乱れぬ統率を崩さないまま、それぞれが必要な行動へと移る。大きな怪我を負った者達が抜けて隊列を組み直し、槍の穂先を揃えた部隊が崩れかけた戦線を回復させるまでを、いくらの時間もかけずに終える。
その訓練された動きは見事と思うほかない。
戦線を維持していたエルマイネ達が復帰した部隊と入れ替わる。そのまま後方へと抜けてきたラムダは抜き身の刀身を肩にかつぎ、フンと愉快げに笑ってみせた。
そんな彼を迎え入れて、エルマイネはガチリと固い握手を交わす。
「さすがですね。いつもならちょっと厳しい場面だったんですが、とても頼りになります」
「なんのなんの。坊っちゃんこそ結構やるじゃん。しごかれてヘトヘトになってた時は大違いなんじゃね?」
「……坊っちゃん」
複雑そうに呟いた彼に向けて、城壁からナギハの指示が繰り出された。
「右翼前進! 中央はそのまま待機! 精道士部隊は目の前の敵の殲滅に集中! エルマイネはこぼれた敵を掃討しつつそのまま左翼から回り込め!」
「はい! ……急ぎます。後でど叱られますので」
「……だね」
兵士達が声を上げ、それよりも更に激しいナギハの指揮が飛び交い、迫る樹人の群れを着実に押し返していく。フェスタローゼが行動を共にしていたエルマイネの遊撃隊は戦線を縦横無尽に走り抜け、的確に戦線を支え続けていた。
軍の演習なら皇帝である父と共に見た事がある。皇太子として軍事訓練の視察に何度も列席した。けれども初めての実戦において、他の兵士達と共に戦いの場に居合わせるなど、フェスタローゼにとって初めての経験になる。
高鳴る興奮と怖れを胸に、周囲の様子に気を張り詰める。ファンチの手綱を握る手が鉛のように重い。
素人目にも練度の高さが分かるカザクラの兵士達。だがその中にあっても、ラムダの動きは一際目立っていた。
長槍部隊へと迫る枝を数本まとめて斬り払い、一息もつかぬ内に樹人の集団へ飛び込んでは打ち崩す。光の粒子をまとった刃の先が弧を描く度に枝が払われ、粉々に散っていく。
他の兵士達とは一線を画す戦いぶりに、エフィオンの強さというものを改めて実感せざるを得ない。けれどもそれは、自分の身には望み得ない強さであるとも痛感する。それどころか、精道法の使えない自分は、兵力という面においては一般的な兵士にも遠く及ばないだろう。
不甲斐なさに奥歯を強く噛み締め、周りの様子をつぶさに観察する。得られないものを求めても仕方がない。及ばぬものを望んでも何にもならないと、それはこれまでで十分過ぎる程に学んできた。
ならば自分に出来る事は学ぶ事だけだと、兵士達の挙動、ナギハの指揮するその動きと意味を、それで戦場がどのように動き、変わっていくのかをフェスタローゼは注意深く観察し続けた。
それが今、何の戦力にもならない自分がここにいる意味なのだと。
だからだろう。その異変の兆候に誰よりも早く気づいたのは、他ならぬフェスタローゼだった。
左翼に展開する兵士達の後方、戦線から外れた森の際にある巨木の枝が、周囲の木々とは違う方向に揺れている。それは戦闘の序盤、まるで森の際が迫ってくるように見えた感覚をフェスタローゼに思い出させた。
「ラムダ! あそこ!」
「え? ちょ、待って! 姫様!?」
思うよりも早く身体が動いた。騎乗するファンチを最左翼に向けて、一気に駆け抜ける。一拍遅れて、戦線から離れようとしている二匹のファンチに気付いたナギハもまた、その先にある異変に気付く。
「最左翼散開! 全力回避! 避けろ!」
ナギハの号令が戦場を突き抜ける。それと同時に、左翼に展開していた部隊の後方から、ただでさえ悪い足場を更に引き裂くかのように地面が隆起し、何条もの太い根がそれらを貫いた。
不意をつかれ、左翼の戦線が崩壊する。ナギハの指示がどうにか間に合い、直撃は免れたものの、兵士達は後方から新たに現れた敵に対してその目を疑った。
「……はぐれだ。でかい、なんてでかさだ」
「ぼさっとしない! 危ないってば!?」
誰かがぼそりと呟いたセリフにラムダは小さく舌打ちをして、迫る根の尽くを斬り伏せていく。はぐれと呼ばれたそれは他の樹人と比べてもひたすらに大きく、見上げれば20メートルはかるく超える高さにまで枝が伸びている。
まるで空を覆うかのような枝がいっせいに兵士達を襲う。厄介なのが出てきたもんだと、ラムダはそれらの攻撃から兵士達を庇うように斬撃を重ねていく。
しかし地面の隆起が激しく、著しく動きが制限されたその場に、根の攻撃を避けきれずに太股を負傷した兵士が2人、取り残されてしまった。
「エルマイネ!」
「分かっています!」
エルマイネがすぐに救援に向かおうとするが、はぐれからの攻撃の圧力が凄まじく、思うように進む事が出来ない。
取り残された兵士に更に根が伸び、地割れた地面の下へと引きずり込もうとしたその直前、2人を攫うようにして一騎のファンチがその場を駆け抜けた。
「ごめん! お願いだからしっかり掴まってて!」
それは誰よりも先に気づいて動き出したフェスタローゼの駆るファンチだった。
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