第6話 再戦 ②
海面を走る水柱が砂霞に迫る。
砂霞はぐっと身を屈めて海面を蹴り上げ、白く泡立つ水柱を足場にして曇天の空高く身を跳ね上げた。
間近に迫る巨躯は更に見上げる程に大きく、視界一杯に近づいて来た鼻先で人面瘡が嗤う。砂霞は白く整ったその顔に向けて握り込んだ柄に渾身の力を込めて刀を振り下ろすが、その一撃が届くより早く、トレンタマイアは海面からうかがわせていた首を海中へと潜り込ませた。
巨大な質量が沈み込む時に起こす引き波が、無防備な状態の砂霞を飲み込む。横薙ぎに受ける衝撃に体勢を崩し、しがみつくように再び海面へと降り立った砂霞は、すかさず海中に沈んだトレンタマイアを視線の先で追いかけた。
意識が前方へと集中する。その瞬間、砂霞の真後ろから海面を割る破裂音が上がった。
「……しまった!」
海中から繰り出されたトレンタマイアの巨木とも見間違う程の尾ビレが、振り返る砂霞の視界を覆い尽くす。圧縮された大気がごう、とうなり上げ、咄嗟に身を翻えそうとする砂霞へと叩きつけられようとしていた。
大きく穿たれた海面が激しく荒れ狂う。どうにか直撃は免れたものの、圧倒的な質量で足場を崩された砂霞は波に飲まれ、そのまま海中へと引き込まれてしまう。
光の届かない暗い海の底で、ぎらりと鋭い牙が不吉な光を放つ。その牙が、水中で身動きの取れない砂霞に狙いを定めて迫る。
「……くっ!」
トレンタマイアはまたの名を「淀みの王者」ともいう。精道の淀みが生んだ海の怪物の周囲は、常に精道が淀みを孕む。淀んだ精道の制御はその道の熟練者にしても困難を極める。
だが砂霞は、淀みの中にあってもわずかに繋がるかすかな精道を手繰り寄せた。淀みに抗う精道の流れが水流となり、鋭利な牙の先から砂霞の身体を逃がす。
その獰猛な巨体と紙一重ですれ違う一瞬、砂霞は翻した身の勢いのままに、トレンタマイアの横っ腹に斬撃を返した。
自身の中に滾る激情でくるんだ刃の一撃が、真鉄のように硬い鱗甲で覆われた胴体に深い傷を刻み込む。だがそれと同時に、目の前で大きくうねる尾ビレが砂霞の身体を強く叩きつけた。
衝撃を受け、大量の息を吐き出しながら、砂霞は海面の上へと一気に弾き飛ばされてしまう。
「まだ……これではまだ足りない!」
激しく上下する海面に膝をつき、荒らげる息と共に今一歩だけ届かない己の刃を悔やむ。目の前の相手は巨大に過ぎ、その一撃は、余波であっても致命傷たりえる。
海中から顔を出したトレンタマイアが、どんよりと立ち込める雲間に向かって咆哮を上げる。怒りに満ちた大気の震えがヒリヒリと、対峙する砂霞の意識を更に集中させていく。
「……まだだ。まだまだ、もっと速く、もっと深く!」
ずぶ濡れのままの髪を振り乱しながら、荒れ狂う海面の上を駆け抜ける。目の前の敵を倒す事、ただそれだけ為だけに闘争本能を研ぎ澄ます。
波を切り、大気を突き抜け、手にした刃に思いが伝う。横薙ぎの一閃がトレンタマイアの首元に傷をつけるが、それだけではまだ足りない。
幼少の頃より積み重ねてきた鍛錬の日々。一振りごとに四肢に刻み込んできた太刀筋が、淀みを断ち切る刃と化していく。
無造作に振るわれた触手の先を打ち払う。
回りに流れる精道に意識をまかせると、空間に出来た断裂に阻まれて、続く触手が砂霞に触れる直前に大きく弾かれた。
この空間の断裂もまた、身に受けた事のある精道の技。魁星大院でシェラスタンが見せた技だ。
これまで生きてきた、これまで経験してきた事の全てを使い、今のこの一瞬にかける。
一歩踏み出すごとに回りの形が輪郭をあやふやにする。一撃を振るうごと、その刃をぶつけるごとに、感覚の領界が意思と肉体の間で朧気なものになっていく。
「……もっと、もっと速く!」
精道の流れに身を委ねれば、半歩届かなかった刃が届く。意識を保ったまま更に精道を深く感じようとすれば、踏み込みきれなかった間合いの向こうに手が届く。
己の思うままに、求めるままの力に満たされていく。
いつしか砂霞は肉体の限界を超え、重なり合い、実体を持った残像が、はるかに巨体であるはずのトレンタマイアを押し返した。
幾度目かの斬撃を振るった後、砂霞はトレンタマイアの頭の上、そのはるか上空に飛び上がる。雷よりも速く、極限まで研ぎ澄まされた感覚を手にした刀の刃に乗せ、眼下に振るう斬撃が光の粒子の帯を引く。
「てぇあああああああ!」
一本の光の筋が、トレンタマイアの中心を真っ直ぐに貫く。
直後、壮絶な咆哮と共に空を割ったような爆音が轟き、低く立ち込める雲を貫くかのような大きな水柱が弾けた。
激しく渦を巻く海底に、巨大な黒い影がゆっくりと沈んでいく。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
空高く打ち上げられた大量の海水が、まるでどしゃ降りの雨のように海面に降り注ぐ。砂霞はそれを大きくうねる波間に仰向けで浮かんだまま迎え入れた。
海上に刹那の静寂が訪れる。
――手応えはあった。だが、……届かなかった。
死力を尽くして戦った相手にとどめを差せたかどうかは、その手元に残った感覚で分かる。海底深く、自分には到底届かない場所に逃してしまった。すでに追いかける術もなく、それだけの力も残ってなどいない。
持てるだけの全力を尽くした。あと一歩、あと半歩足りないその先を必死でたぐりよせ、命を研ぎ澄ませた。だがそれでも、仇を討つには足らなかった。
ゆらりと海面に浮かびながら、手にした抜身の刀身を中空にかざす。雪峰から預かった、今は亡き主から送られた刀。その刀身の根元にははっきりと、深いひび割れが走っていた。
仇も討てず、借りた刀も駄目にしてしまった。
「私は至らない。……何故私は、こんなにも至らないままなのか。すまない雪峰。……申し訳ありません、……殿下」
力なく、海水でずぶ濡れになった頬を大粒の涙が伝う。和佐が飲み込まれた時にも、実の母親の死を目の当たりにした時にも流れる事のなかった涙が、堰を切ったように溢れる。
なだらかに揺蕩う水面に浮かびながら一人、押さえきれぬ感情のままに声をあげて泣いた。それは砂霞にとって、生まれて初めての慟哭だった。
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