第13話 風の噂
魁星大院から逃亡して陸路で来ること約2ヶ月。
新年を祝う特別な高揚感も落ち着いて来た
「ほら、紫翠国とシャン=ルーの諍いだよ。あれ、すげぇことになってるらしいぞ」
商人や船乗りでごった返すカウンターの隅で1人、機械的に黙々と食べる砂霞の咀嚼が止まる。
まさかここで祖国の名を聞くことになるとは思わなかった。
知らず知らずのうちに聞き耳をたてる彼女に傍らから突如として声がかかる。
「気になる?」
「え?」
驚いて声のした方を見ると、空席だった隣にいつの間にか若い男がこちらを向いて座っていた。カウンターに頬杖をついて話しかけて来る様子が余りに自然で、つい答えてしまう。
「あぁ、まぁ」
「お姉さん、紫翠人だもんねぇ」
「……分かるのか?」
「うん。僕、色んな所回ってるから。ほら、これさ」
男は羽織っている外套の裾をちらりと払った。
わずかな隙間から覗いたのは楽器だ。恐らくは
「
「そう。街から街を放浪して酒場の片隅でポロポロと在りし日の英雄を謳う! 楽しそうでしょ?」
砂霞はふるふると首を振った。当てのない放浪が楽しそうとは思えない。
「おや、そうか。それは残念」と答えつつも男はちっとも残念そうではない。
「お姉さんはここからどこ行くの? 国に帰る途中?」
随分と不躾な質問にも思える。いつもの砂霞なら答えずに流すところだが、男の持つどこか懐かしさにも似た不思議な感覚に、否と応じる。
「いや、聖都カチュアに向かう」
「え? そうなの? 紫翠国って天雲信徒団だと思ってたけど、お姉さんはローディン教信徒なの?」
「違う」
「あ、じゃあ純粋に観光か。聖都の精道すごいもんね」
「観光でもない。調べ物だ」
「ふぅん。でもお姉さんは学者って感じでもないよね」
男の視線が砂霞の腰の得物に注がれている。
「いい刀だね。お姉さん、剣士か」
「……そんな立派なもんじゃない。亡霊みたいなもんだ」
「こんな綺麗な亡霊なら毎晩来て欲しいけどね」
「戯言を」
男は声を立てずに、ニッと口角を上げた。
妙な感覚だ。
全く知らない相手に話し掛けられること自体は珍しくない。むしろ砂霞の美貌にひかれて卑猥な心で寄って来る者は多い。
しかし目の前の男からはそういった雑音が聞こえない。さらさらと流れる風と対話している。そういう妙な感覚がある。
「私のことはいい」
男から目を背けてきっぱりと言い切り、食事を再開する。
「あぁ、そうだった。紫翠国とシャン=ルーの領土争いだったね。お姉さんどこまで知ってる?」
「開戦したことぐらいしか」
「じゃあ結構前に国を出たんだね」
「3ヶ月前だ」
「ほぉほぉ。その頃だとあれだね、シャン=ルーが破竹の勢いで攻勢をかけてる頃だ。州都が包囲される寸前ぐらいだな」
「州都が包囲?」
「そう」と男は頷く。
「シャン=ルーの奇襲によって開かれた戦端はシャン=ルーにとって有利なまま進み、州都まで包囲できた。紫翠国側は立て籠もって防戦するしかなかったわけだけど、状況は中央からの援軍によって一変した」
ベベンと
「中央から援軍」
「そう。包囲していたシャン=ルー軍を
「雪峰」
“必ず帰って来い”と告げられた言葉が耳に甦った。
「そうか、雪峰が」
思わず笑みをこぼして野菜を掬う。
「知り合いかい?」
「腐れ縁だ」
「ほぉほぉ。腐るほどに熟した仲だと」
「熟す前に腐りきっているだけだ」
「……まぁ深くは聞くまい」
ふふっと意味ありげに男は笑う。砂霞は咎める視線を男に送ったが、彼は一向に気にした様子はない。
「本来ならそれで決着というところなんだろうけど、シャン=ルーにもあちらなりの事情がある。何せもう後がないからね。本国に戻るに戻れずいたずらに戦線を広げて居座ってしまっている。紫翠国側はその対応にてんやわんやさ。ま、こんな感じらしい」
砂霞は食事の手を止めてしばらく考え込んでから、男に視線を走らせた。
「このまま紫翠国側が優勢で終結するだろうか」
「そうだね。このまま行けばね」
穏やかに返す男とは対照的に彼女の顔は苛立ちを含んだ渋面に変わる。食事を再開した砂霞の手付きは、はすっぱで雑なものだった。
「あの国は、シャン=ルーはいつもそうだ。内政で不満が溜まって来ると我が国に侵攻して来て、自国民の目を国内から逸らそうとする」
「あそこはねぇ。いっつも政情不安で内ゲバばっかりやってる印象はあるね」
「特に現国王はここの所、失策続きだと聞いている。この戦いに自らの進退がかかっているのだろうな」
「まぁ、このままおめおめ逃げ帰ったら失脚間違いなしだろうね」
「厄介な奴らだ」
最後に豆を一掬い。口に押し込んで砂霞は食事を終えた。律儀に手を合わせる彼女を男は面白そうに眺めている。
「いづれにしても帝国がこのまま出て来なければ、紫翠国勝利で終わるだろうな」
砂霞の確信に満ちた断定に、男は少し首を傾げた。
「帝国は出て来ないかな」
「出て来る訳なかろう!」
思った以上に大きい声が出た。怪訝そうに目を見張る食堂の親父に、小さく詫びて、砂霞は男の方へ身を寄せる。
「帝国は今回のことには関与しないと親書にもはっきり書いて来ている。まさか反故になどしまい」
その親書を運ぶことが和佐の最期の仕事となってしまったのだ。薄幸だった主の最期の仕事までもが意味のない物になるのは、砂霞としては耐え難いことだった。
「そうだといいけどね」
思わず砂霞は眉をひそめた。実に引っかかる物言いだ。
とことん追求してみたいが、乗船する船の時間が迫っていた。仕方なく砂霞は銅貨をカウンターに置いて立ち上がった。
「何だ、もう行くのかい」
「船の時間が来る」
手短に答えて身支度する。
「そんな急いで行かなくても。今夜からこの食堂で唄うんだ。聞きに来てよ」
「悪いな。仕事を兼ねているから船を変えることができない」
「ふぅん。商船の用心棒ってところかい?」
「そんなところだ。情報ありがとう。祖国のことが知れてよかった」
「こちらこそ。楽しかったよ、紫翠国のお姉さん」
男は指をひらひらとさせて微笑んだ。
「お姉さんの旅路に良き風が伴わんことを」
軽く会釈をして戸口へと向けて歩いて行く。
歩いて行きながら、随分と変わった物言いをする、とふと思った。ここら辺の地域ならば当然のようにローディン教のはずだ。
そうなると「カルラのご加護を」と言う方が一般的なはずだ。
不審に思って振り返る。
男はまだニコニコと見送っていた。
わずかに見える外套の隙間から、秘めやかに光るシェハキム石の片鱗がちらりと覗いていた。
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