第12話 手を延ばして
キカはゆっくりと瞼を開いて行った。
見覚えのある宿屋の天井が目に入る。
開けたばかりの瞳に窓からの明かりが斜めに射し込んで、思わず目を閉じる。それでも、そろりそろりと目を開けて、緩慢な瞬きを続ける彼にベッド脇から聞き慣れない声が呼びかけた。
「あら。目を覚ましたのね」
体に痛みはないが、何故だか物凄く重く感じる。
自分の身体とは思えないくらいに不自由な頭をやっと巡らして声のした方を見ると、知らない若い女性が1人、優しそうな笑みを湛えてキカを見ていた。
若いと言っても、フェスタローゼよりはやや上。見た目からすると二十代半ばに感じた。
「……誰、あんた」
ぼそりと訊いたキカに女性は穏やかに答える。
「私はハルツグ。ローザお嬢様にお仕えする者です」
「お仕え……」
キカはぽふんと枕に頭を戻した。
「やっぱりそういう身分だったか……」
よいしょ、と起き上がろうとするも上手く手に力が入らない。ベッドの上でじたばたする彼を、ハルツグがそっとベッドに押し戻す。
「ダメですよ、大人しくしていないと。怪我は白緑法で治しましたけど、その分体力を消耗してますからね。しばらくは安静にしていてください」
「白緑法? そんなすげぇもんどうやって」
「私がやりました。心得があるもので」
「ふぅん」
キカは大人しく横たわり、乱れた布団を直すハルツグの手付きを眺めていた。
「あんたがローザの連れか」
「ええ」
「……行っちゃったのか、あいつ」
「……ええ」
大儀そうに窓の方に向いた彼にハルツグは笑みを含んだ声で続ける。
「ごめんなさいね? 先を急ぐ旅だから。でも大変でしたのよ」
「大変?」
ハシバミ色の聡い瞳がハルツグに向けられる。彼女は品よく、ふふと控えめな笑い声を洩らした。
「キカが目を覚ますまではそばを離れない、ってごねにごねて。納得させるの大変でしたのよ?」
「納得したのかあいつ」
「させました」
ぴしりと笑顔で答えるハルツグにいざとなった時の厳しさが窺いしれて、キカはつい「うへえ」と洩らしてしまう。
「でも、本当に最後の最後まで心配されて。旅立つ瞬間までそこに座って、ずっとあなたを見守っておいででしたよ」
そこと指さされた方に目を向ける。ハルツグがいるのとは反対側のベッドの脇に、ぽつんと小さな腰掛けが置いてあった。
座る人のいない座面を陽光がきらきらと照らしている。空しく輝く座面が一層フェスタローゼの不在を印象付けた。
キカはぷいっと目を逸らし、布団を顎の先まで引き上げる。
「俺、いよいよ1人ぼっちか」
感傷的な言葉が口を突いて出た。
ひとたび口にしてしまうと止まらない。
「母ちゃんも父ちゃんもいないし。じいちゃんも死んじゃった。それでもってローザも行っちゃった。俺、本当に1人ぼっちだ」
一気にまくし立てて、ぎゅうと布団の中で拳を握りしめる。うっすらと滲んだ涙を拭おうともせずに、部屋の天井を睨み付ける少年の頼りない横顔をハルツグはしばらく見つめていた。
そのまなじりがふわりと解ける。
「……それでもあなたは生きていかなくてはいけないわ」
「分かってるよ、そんなこと」
キカはいよいよ不貞腐れて口を尖らせた。その額をペシっとハルツグが叩く。
「あら、いい音」
「何すんだよ!」
声を張り上げるものの、体が重くて動けない。それでも精一杯の怒りを込めてハルツグを睨み付けた。しかし彼女の前では暖簾に腕押し、柳に風とばかりにするりと流されてしまう。
キカの全力の抗議を物ともせずに、ハルツグはからりと言い返した。
「甘ったれるんじゃないの」
「何……?!」
「体が治れば動く事もできる。亡くなったご家族は追えないけれど、ローザ様は追っかけられる。追いたいなら追えばいいのよ」
「別に。だってローザは……世界が違うと言うか、生きていく場所が違うというか……」
口をへの字に曲げてキカは出来ない理由を並べて行く。
「だいたい今更、俺が行ったってローザは困るだけだろう。俺みたいな孤児で、何にもできない奴」
「ねぇ、キカ。旅立つわずかな間にローザ様はあなたのことを一生懸命教えてくださったわ。手先が器用で働き者で。いつもおじい様の手伝いをしっかりとこなして。目端の利く本当にいい子なんだと」
「そんなこと」
「私の聞いたあなたはできない理由を並べて、本当にやりたいことから目を背ける子だとは思えないのだけど?」
「……勝手に言ってろよ」
「じゃあ、訊くわ。あなたはどうしたいの? キカ」
「どうしたい……か」
意外な質問にキカの目が文字通り丸くなる。しかし、すぐに戸惑いの影は消えた。
彼は自分の中の考えを追いながら、訥々と喋り始める。
「本当はじいちゃんみたいに行商をやりたい。……でも俺まだ子供だし。きっと許可証も引き継がせてもらえないから無理そう。そうなったらなぁ……。ここの女将に頼み込んで取りあえず下働きさせてもらってもいいし。あぁ、でもなぁ」
「でも、なぁに?」
「じいちゃんとローザはよく税金の仕組みとか各領主の特長とか背景とか。色んなことを話し合ってた。俺、その話がちっとも分からなくてさ」
そう言ってキカは宿屋の天井を見上げる。自分の中に浮かんだ、まとまりのない思いを探って天井の模様を目で追っている。
しばらくして、その目がつとハルツグに向けられた。
「俺、勉強がしたいな。知らないことが沢山ある。国のこととか、それこそ税金のこともそうだし。世の中の仕組みをもっと知りたい。働きながら色々と学んでみたい」
「そう。それはとてもいいわね」
ハルツグは深く首肯する。
そして瞳をきらきらとさせて意外な提案を口にした。
「だったらあなたも南都に来ない?」
「……南都に? 俺が?」
ええ、と同意してハルツグは確信に満ちた口調で言い添える。
「南都には人と物が集まって来る。あそこなら様々な人から様々な学びが得られるわ」
「そこにローザもいるのか」
「今頃は到着しているはずよ」
「俺……俺、行ってもいいのかな? ローザを追っかけて行っていいのかな?」
「もちろん。ローザ様もあなたが来るのを待っておいでよ」
「そう……かな。待っててくれるのかな、あいつ」
覚束ない、不安そうな表情のままキカは窓の外を眺める。
窓全体を覆うように伸びた木の枝が、木枯らしに揺られてざわ、ざわと身を揺らしている。枝の先が窓をたたく侘しい音が、静かな部屋の中にこだました。
フェスタローゼと過ごしたのは実質2カ月ちょっと。
終始穏やかで、慈愛に満ちた彼女の人となりに心がほぐれて、ピッケと3人。楽しく旅をして来た。
漂泊の旅に出てから7年。こんなに楽しい道中はなかった。
そう感じる一方でいつまでもこんな日々が続くとは思っていなかった。
漂泊の旅とはそういうものだ。ひととき共に過ごすことはあってもいつかは別れ、別々の道を行く。
――そう、じいちゃんでさえも。
できることならピッケを追いたいけれど、それはすなわちキカの死を意味する。
でも。ローザならば。
キカはくるりとハルツグを見た。
「俺、南都に行きたい」
「分かりました。お連れいたしましょう」
頼もしく頷いてみせてから、ハルツグはちょろりと舌の先を出す。
「……元よりお嬢様からはそう仰せつかってますので」
「……はぁ?! 何それ! じゃあ最初から素直にそれ言ってよ!」
「私はどうしても自主性を重んじるタチでして、つい」
てへ、とばかりに頭に手をやるハルツグをキカは呆れと恥ずかしさの混じった気持ちで下から睨み上げた。
「お姉さん、絶対性格悪い」
「あら、お姉さんって言ってくださるの? 嬉しいわ」
「じゃあ、おば……」
「ん?」
ハルツグがぐうっと身を乗り出す。キカは慌てて布団を頭からかぶって身を守った。
「ま、それだけ元気なら直に動けるようになるわ。しばらくの間、よろしくね。キカ」
「……よろしくお願いします。ハルツグお姉様」
「よろしい!」と偉そうにふんぞり返って胸を張るハルツグにキカがくすりと笑みをこぼす。
ハルツグも元の姿勢に戻って同じように笑みをこぼした。
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