第8話 晴れた日に ③
「すまねぇ……ここまで来たのに」
詫びる声は細かった。
フェスタローゼは言葉もなくただ首を振る。何度も振る。
「ごめんなさい。私のせいで。私が南都に行きたいって……!!」
「……つまらんことを……」
ピッケは顔をしかめる。
「痛む?!」
「痛みはねぇ……息がしづらいだけだ」
勢いよく訊いたキカに優しく首を振って、ピッケは呼吸しづらそうに喉を鳴らした。ぼこりと窪んだ胸部がゆっくりと膨れ上がる。
「キカ……」
「何? じいちゃん」
「爺はここまでだ……。本当は……お前の子供を抱くのが夢だったがな」
「どんだけ生きる気だったんだよ」
「そうだなぁ」
ピッケは、ほっほっと笑おうとしたが上手く笑えずに咳き込んだ。
「後のことは……心配するな。少しだが貯えもある。分かってるな?」
キカは気丈に頷く。
「宝石に変えてあるやつだろ?」
「お前は子供だ……女将に保管してもらえ。あの人達……ならしっかりと守ってくれる」
「分かった」
「キカ。良く顔を見せてくれ……」
「こう?」
キカがピッケの顔近くに自分の顔を寄せた。ピッケは壊れ物を扱う時と同じ手付きでそうっと孫の顔を愛しそうに撫でた。
「大きく……大きくなったなぁ。お前の父さんにそっくりだ……すまんな。1人残していってすまんな……」
「俺は大丈夫。頑張るよ! 俺、読み書きもなんとかできるし、手先だって器用だし、あ、そうだ。最近じゃあ力もついて来たし! だから大丈夫だよ、じいちゃん」
語尾が震える。それでもキカは泣いていない。ニッといつもの小生意気な笑顔でピッケを送ろうとしている。
「大丈夫。お前は大丈夫だ……父ちゃんも母ちゃんも、爺も……いつまでもお前が大好きだ……大丈夫」
「俺もじいちゃん大好きだ!」
キカが、がばっとピッケに抱き着く。ピッケも彼を抱き留めて背中をさする。
フェスタローゼは期せずして目尻に浮かんだ涙を慌てて拭った。キカが懸命に笑顔で送り出そうとしているのに自分が泣くわけにはいかない。
「ローザよ」
「何?」
言葉を聞き洩らすまい、と身を乗り出す。生真面目そうに思いつめた顔をする彼女の様子が余程可笑しかったのか、ピッケは肩を揺らした。
「所詮は行商の親父よ……そんな高尚な事は言いはしねぇ」
「だって」
「だってもねぇ。そんな顔で送られたくないわ……」
ピッケは一時、目を閉じて静かに呼吸を繰り返す。
「お前といるのは楽しかった……3人でくだらねぇことで笑い転げて……うめぇもん食って、一緒に作業して……よ」
「私も。私もだよ、ピッケ。本当にありがとう。私を救ってくれてありがとう」
手を伸ばし、ピッケの左手にそっと重ねる。
右手を通して伝わる彼の最期の温かみがあの夜を思い出させる。荷台でそっともたれた温かみ、ぞんざいだけど心のこもった言葉達。いつも吸っている煙管の嗅ぎ慣れた焦げた香り。
ピッケの長い一生でフェスタローゼが触れたのはほんの一時だ。瞬きにも満たない程の時間だろう。それでも彼の賢明さ、愛情深さは充分に分かる。
「でも蔓細工は鍋敷きから成長しなかったな」
キカが明るく混ぜ返した。
「だな……逆に鍋敷きだけは……滅茶苦茶上手くなったな」
「それ今言うこと?!」
「すまん、すまん」と笑ったピッケが急に咳き込む。
慌ててキカと2人背中をさすろうとすると「いや、大丈夫」と押し留めて、苦しそうに呼吸を繰り返す。
「ローザよ。お前さんが……どこのどういう人間なのか。どんな身分の奴か……。本当の所は知らん。何があってあんな森の中にいたか……もな」
「……ええ」
「責めている訳じゃねぇ」
気不味くて思わず目を伏せた。そんなフェスタローゼに掛けられる声はあくまで穏やかで優しさに満ちている。
「儂らに事情があるように……。お前にはお前の事情があるだろうよ。でもそんなこたぁ……些細なことよ。なぁ、ローザ」
「うん?」
ピッケの双眸に光が灯る。最期の川を渡ろうとする者の瞳がローザを強く見通した。
「お前は優しい。それは……恥じることじゃねぇ。そのままでいい……。胸を張って生きていけ」
「……私、出来るかな? そんな風に生きて行けるかな?」
皇宮を出て久しく忘れていた感覚が甦る。
嘲る眼差しや皮肉に歪む口元。
精道符が使えない、立ち回りが洗練されていない、皇太子の風格がない。そんな評価に囲まれて委縮し、下ばかり向いていた日々の感覚が湧き上がって来て身が竦む。
自分が、他人の評価ばかりを気にして身動きの取れなかった自分が、胸を張ってなんて生きていけるのか。
「行ける」
ピッケの澄んだ目がフェスタローゼを真っ直ぐに見通した。
「キカ……お前もだ。下を向くな……大丈夫。お前達は……しっかりと生きて……いける」
彼はフェスタローゼを、そしてキカを見つめ、ゆっくり、ゆっくり、と頷いた。
動きが緩慢になって来ている。いよいよ命の女神フィレスの指先が彼に触れようとして来ている。
ピッケは辛そうに頭を横たえて宙を見つめる。
震える唇が動き、もつれる舌が言葉を紡ぎ出して行く。
「ローザ……。キカを……キカをたの……む」
「じいちゃん!!」
「ピッケ……!」
縋る2人をもう追いきれない。ピッケの視線が中空を彷徨った。しかし、その口元には確かな笑みが浮かんでいる。
「わしはぁ……たのし……かったぞ……」
すぅ、と息が抜けて行く。
キカの、フェスタローゼの握っていた手から静かに力が抜けた。
様子に気付いた巫士が駆け寄って来てピッケの脈を取ると、そっとその瞼を閉じた。
「……
「じいちゃぁぁぁん!!」
キカの絶叫が商会前の空気を震わす。
ある晴れた日に。
どこまでも澄み切った空が冴え渡る日にピッケは旅立った。
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