第7話 晴れた日に ②

 日干しレンガの壁が聳え立つ間を走る小路の先で、憎らしい程に高く抜けた空が美しく輝いている。悲劇に誘われて右往左往する人間たちをせせら笑うかのように揺らめく冬の陽だまりをフェスタローゼは一心不乱に駆け抜ける。

 

 小路を行き慣れているキカの動きはすばしっこく、どうにか追いつけたのはようやく広場に到達した時だった。


「待って、キカ」

 

 広場の入り口付近で佇むキカの腕を取る。後ろに引っ張られたキカが振り向いた。

 呆然と見開かれた両目が一瞬、宙を彷徨ってフェスタローゼの顔で焦点を結ぶ。


「ローザ」

 平坦に呟く。

「どうしよう……やばいよ、これ……」

 力なく零れるキカの声を聞きながら、フェスタローゼは目の前に広がる大惨事を見渡した。


 広場は混乱の極みにあった。

 荷崩れを起こしたイサール商会前には横倒しになった荷馬車が無防備な腹を晒して転がっている。散らばった荷物は広場のいたる所に散乱し、その間から人々の呻く声がまるで怨嗟のように聞こえて来る。

 広場周辺を埋め尽くしていた天幕は暴れ馬の軌跡を止めて、ある物は布が裂け、ある物は丈夫な屋台骨がぽっきりと折れて、無惨な姿と変わり果てていた。


 目の前の大惨事に悲鳴を上げたくなる。このどこかにピッケがいるのかもしれないのだ。

 しかしフェスタローゼは一度ぎゅっと目を瞑った。それからキカの目を覗き込んで問い掛ける。


「キカ、ピッケがイサール商会に行った可能性は?」

 あえて感情を挟まずに口早に確認する。

「じいちゃんは……」

 呻きかけたキカの言葉が急速にはっきりとした。

「じいちゃんはあんな大きい所では買わない。だからイサール商会にはいないと思う」

「ピッケがよく行く商店は分かる?」

「だいたいは」

「その店はどこら辺?」

「あっちの方」


 キカは広場の奥にある小路を指差した。

 2人が立っている場所から、女神カルラの像をはさんで正面がちょうどイサール商会だ。キカが指差したのはイサール商会の脇にある小路だった。


――これは。


 じくりと嫌な予感に胸が痛む。

 それでも彼女はキカの腕を引っ張り「行ってみよう!」と1歩踏み出した。

「でも二手に分かれた方が」

 歩きながらキカが言う。フェスタローゼはその手をぎゅうと握った。

「ダメ。二手に分かれてもこの混乱具合じゃ合流できなくなる。一緒にいた方がピッケもきっと私達に気付きやすい」

「分かった」

 思いの外しっかりとした返答に振り返る。目の合ったキカは顔こそ青ざめているものの、1回だけ深く首を縦に振った。そんな彼に力強く頷き返して、フェスタローゼは騒然としている只中へと飛び込む。


「おい、手の空いてる奴はこっち来い!!」

巫士ふし、巫士は来てるか?!」

「持ち上げるぞ!!」

「いいぞ、そっと引き上げろ!」

 

 救助する人々の怒号の間をすり抜けてキカの指差した小路を目指す。

 広場の中心に聳える先行きの女神カルラの像の足元には、神像を取り囲むように負傷者達が寝かされていた。

 どうかここにピッケが加わっていませんように、と祈る思いで寝かされている人々の顔をなぞって行く。


 ほとんどの人が荷物の下敷きになった人々だろう。折れた腕を抱えて顔を顰めている人、足が、足がと叫んでいる人、寝かされたままぴくりとも動かない人。そんな人々の間を茶色や深緑の長衣を纏った巫士が忙しく立ち回っている。

 治癒の術式を扱う白緑はくろ士は希少で、地方ではまずお目にかかれない。そういった場所では、彼らに準ずる術の使い手である巫士がその役割を担うのだ。

 

 行き交う人々を躱して、イサール商会脇を通り過ぎようとした時。急にキカの足が止まった。ガクンと引っ張られてフェスタローゼはキカを見る。

 キカは最も被害のひどい商会前を見つめていた。

 男性でも持ち上げるには2人がかりでは、という位に重量感のある木箱がごろごろと転がっている商会前の一角。荷物がどけられて布が引かれた地面に負傷者が寝かされている。

「あ」

 声が洩れた時にはキカは弾丸のごとくに走り出していた。救助の人々を乱暴に掻き分けて行くキカの後を慌てて追う。

「すいません! 通して!」と叫びながら人々の壁を抜け出る。


 ピッケはいた。

 その脇にキカが膝を付いている。

 心臓が凍りつく。動悸すら上がらない。

 フェスタローゼは凍えた心持ちで駆け寄り、キカの隣に膝を付いた。

 ピッケの胸はまだ微かに上下している。

 その事実に幾許かの安堵を感じるも、彼の状態は良かった、と胸を撫で下ろせるものではなかった。

 埃まみれで所々、すり傷が出来ている程度で全身の状態は悪くない。ただ、左胸が服の上から見ても分かる程にぼこりと陥没していた。


「じいちゃん、じいちゃん!!」

 揺するキカに反応してピッケが僅かに目を開ける。フェスタローゼも身を乗り出してピッケを見つめた。

「おぅ……」

 弱々しく返事して、ピッケは激しく咳き込んだ。血混じりの唾が飛び散り、外套に点々と跡を残す。

「じいちゃん!」

 キカの悲鳴にたまらず、フェスタローゼは辺りを見回した。

 すると同じように寝かされている人々の間を回っている巫士の1人と目が合う。

「お願い、見て!!」

 必死に手招きすると、巫士は「意識があるか!」と言いながらやって来て、キカ達の反対に膝を付いた。

 大体ピッケと同世代と思しき巫士は膝を付いたものの、「あぁ……」と悲痛な呻きを洩らす。

「すまん……儂の手には負えん」

「そんな!」と叫んだフェスタローゼに巫士は目を伏せて力なく首を振る。

「儂はあくまで巫士だ。簡単な骨折とかなら治せるが、これは……」

「どうした? 重傷者か?」と声がかかり、初老の男性が巫士の隣に膝をついた。

 若草色の明るい長衣の胸に下げられた聖印は、源樹の葉と葉の先から零れる滴を象ったヨシアキ神のもの。白緑士の証だ。

 辺境の地方都市に白緑士がいることに驚いて、フェスタローゼは思わず「え」と目を見張った。

 彼女の驚きには答えずに白緑士は「ここはいいから他を頼む」と巫士に指示を出す。立ち上がった巫士は、年齢を感じさせない敏捷さで長衣の裾を翻して、足早に立ち去って行った。


「どうですか?」

 慣れた手つきでピッケの体を診る白緑士の手が、左胸のくぼみの所で止まる。

 彼はわずかに眉をひそめて、腰に下げている精道符帳をバラバラっとめくった。密やかな溜息が口から洩れる。

「すまない。無理だ」

「なんで……」

 白緑士はピッケの左胸の窪みを指して、「肺が完全に潰れてしまっている。この状態の傷を回復させる精道符は申し訳ないが持ち合わせがない」

「どこならあるんですか? お金ならなんとかします!!」

 食い気味で答えるフェスタローゼに白緑士は苦しそうな目を向けた。

「臓腑再生の精道符は希少な上に物凄く高価なものだ。隣のアウルドゥルク領ならばあるかもしれない。でも、取り寄せている間にはもう」

 彼は最後まで言わなかった。

 十分過ぎる程の無情な答えにフェスタローゼは唇を噛み締めて、隣にいるキカの肩を両手で抱き寄せた。

 寄り添う年若い2人を辛そうに見つめてから、白緑士は精道符帳をめくり、1枚の精道符を綴りからピッと切り離した。


「せめて旅立ちが安らかになるように」

 彼は精道符をピッケの上にかざして、指輪の嵌っている右手で精道符をぐるりとなぞった。透き通った緑の光が精道符から湧き上がり、粒子となってピッケに降り注ぐ。

「少しは痛みが和らぐはずだ。力になれず申し訳ない」

 深々と頭を下げた白緑士にフェスタローゼは力なく首を振った。

「あの……お代は」

「いや、いらないよ」

 立ち上がった白緑士はあっさりと断って来る。

「え、でも」

 ありえない返答に戸惑って口ごもる。

 

 皇宮にいた身であっても、市井における白緑士の貴重さと診療にかかる費用の膨大さは知っている。だから庶民は白緑士ではなく、聞きかじった少々の白緑法と薬草との治療を組み合わせた巫士に頼るのだ。


「いいよ。いらないさ」

 もう1回断りを入れて、白緑士は親指でぞんざいに商会の建物を指差した。

「治療費はまとめて元凶に請求してやるから。お嬢さんはそんな事気にしなさんな」

 それだけ言うと彼はせかせかとした足取りで去って行った。遠ざかる背中にそこかしこから助けを求める声がかかっている。

 

 ひゅう、と苦しげな呼吸音がする。

 フェスタローゼは慌てて、ピッケの方を見た。

 ピッケの目がはっきりと開いて、キカを次いでフェスタローゼを見つめる。皺だらけの痩せた喉が震える。


「キカ……」

 わずかに持ちあがった手をキカが必死に握り締める。ピッケは弱々しく笑って、大儀そうにゴクリと唾をのんだ。

「ほっつき歩いて巻き込まれるなんざ、ざまぁねぇや……」

「喋っちゃ駄目だよ、じいちゃん!!」

「いいや」


 さまよいがちなピッケの瞳に力がこもった。

 ひゅう、と再び音をさせてピッケが息を吸いこむ。


「すまねぇ……ここまで来たのに」


 広場の喧騒が遠のいて行った。



 

 

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