第6話 晴れた日に ①
甘露にむせたアウルドゥルク領を後にして4日。月をまたいで
テスコ伯爵領は安定した生活が垣間見える穏やかな領地だ。南域天領地への入り口という立地条件の良さもさることながら、現伯爵の堅実な手腕がそこかしこに見て取れる。
聞けば伯爵は1年の内必ず3か月くらいは領地に逗留するという。自領に足を踏み入れることなく死んだ前の領主様とは大違い、と訳知り顔で教えてくれたのは、現在泊っている宿屋の女将だ。
中年過ぎでややふとりじしだが、目尻のさがった瞳が愛嬌ある女将は、目の前に広がるハンカチの洪水とにらめっこ中である。
彼女は盛大に息をついて両手を大袈裟に広げた。
「もう、目移りしちゃって決められない!」
そう言って目の前にある淡い緑色のハンカチを取り上げると熱のこもった調子で続ける。
「この縁飾りも素敵だけど、刺繍の柄はこちらの方が好みだわ」
こちら、とクリーム色のハンカチを取り上げる。
「じゃあ、両方買っちゃいなよ!」
「あんたはそうやってすぐ調子に乗る」
軽口をたたくキカをぺしと叩いて、女将は選りすぐったハンカチを前にどっしりと腕を組んだ。
「決められない奴は仕事の出来ない奴さね。全部いただくわ、なんて貴族の御婦人に言わせときゃいいのよ!」
「ちぇー」
「女将、まだ悩んでいるの?」
通りかかった女中がくすくすと笑いながら、女将の肩越しにひょいと覗いた。そして、並んだハンカチの中からひょいと1枚つまみ出す。
「私ならこのハンカチだわ。今、流行の小鳥柄」
「あぁ、もう! 余計なこと言わないでちょうだい。やっとこさでこの2枚まで絞ったんだから」
「両方買えばいいのにー」
唄うように言いながら女中は去って行った。
「ほらぁ、ああ言ってんじゃん」
女将は軽く鼻を鳴らしただけだった。そこからたっぷり数分は睨み合ってから、彼女が選んだのは淡い緑色のハンカチだった。
「銅片3枚だね」
「ええ」と頷いたフェスタローゼに女将は銅片3枚を渡す。
「毎度ありがとうございます」
「こちらこそ。いい品を見せてもらったよ」
女将は早速ハンカチを広げて、華麗な縁飾りをなぞりながら見つめた。
「見事なもんだねぇ、こりゃあ。これ全部あんたがやったのかい?」
「ええ 移動中に少しづつ」
「柄もお洒落だし、色合わせもいいし。ハンカチに合わせてこちらもいっとういい服着なきゃね」
「ハンカチに服を合わせるってなんだよ」
「そんくらい素敵な品ってことさ!」
「ま、ローザの腕はピカイチだからな」
「まぁ、生意気言って。キカったら」
穏やかに笑いながら広げたハンカチを籠に戻して行く。
昼食の終わった宿屋の食堂は閑散としていた。
磨きこまれて濃く光る円卓と椅子とが午後の気怠さの中にぽつねんと佇んでいる。
階上から女中たちの立ち働く音が微かに聞こえる以外は音らしい音は何もない。やがて来る夕刻の慌ただしさを前に訪れるぽっかりと暇な一時だ。
「昔はこんなにちっこくって、来ればいっつも、おばさんねぇねぇって引っついて回ってたのにねぇ。生意気になったもんさ」
「そんなに小っちゃかねぇよ! 豆粒じゃんか」
こんなん、と女将は親指と人差し指で示してみせた。示してみせて自分でころころと笑っている。余りに楽しそうに笑うのに釣られてフェスタローゼも笑い出してしまった。
「キカとは昔馴染みなのね」
「そう。ピッケさんが行商を始めた頃から常宿にしてもらっていてね。だからさ冗談抜きでこの子が小さい頃から知ってるのさ」
ほら立ってみて、と促されたキカが立ち上がる。女将は自分も席を立ってキカの横に立つと、自らの肩と同じ高さにある彼の肩とを比べた。
「ホント、大きくなったねぇ! 立派なもんさ」
「おばさんが縮んだんじゃないの?」
「ふん、ナマ言ってもかわいいね」
ぎゅうと女将がキカを抱きしめる。
「やめろよ! マジ勘弁!」
「何だ。ローザちゃんのが良かったか!」
「はぁ?!」
「分かった。おいで」とフェスタローゼが腕を広げる。
「分かったじゃねぇし!」
少々、意地悪だと思いはしたものの、真っ赤になって怒るキカの様に女二人でさんざ笑い転げた。
ひとしきり笑ってから未だ目尻に残る涙を拭きながら女将が一息つく。
「あー。おかしかった」
「楽しんでいただけたようで」と返すキカは完全なむくれ顔だ。
「ごめん、ごめんよ」
ぽんぽんとあやすように腕を叩かれるも、完全につむじを曲げた彼はぷぃっと横を向く。
「でもさ、いい人と出会えて良かったじゃないか、キカ。あんたがこんなに楽しそうにしているの初めて見たよ」
「そんな事ないよ」キカはまだまだ口をとがらしている。
「刺繍の腕も大したもんだしね。……このハンカチ、もうちょっと値上げしても売れそうだね」
「そうですか?」
「いやぁ、ピッケ爺にしちゃあちょっと値付けが甘いね。これなら銅貨1枚でも売れるよ。じゃんじゃん作って主力にしたらいいさ」
「そんなに? 銅貨1枚だって、キカ」
「いいよ、銅片3枚で」
嬉しくなって振り仰いだフェスタローゼにキカの言葉が冷たく響いた。
「だってローザはさ、南都着いたらお別れだろう? 後少ししかいない人間の作る物を当てにしたってしょうがないじゃんか」
「おや、そうなのかい?」
女将の目がフェスタローゼに問い掛ける。フェスタローゼはのろのろと肯定した。
「ええ、まぁ。元々、私が森の中で連れとはぐれた所を拾っていただいて。南都まで送ってもらっている最中なんです」
「そうかい」
女将は椅子に腰を下ろすと、立ち尽くしたままのキカの手を取る。
「だったらさキカ。尚更、むくれている時間が惜しいよ。ここまで仲良く来たんだろ? 最後まで笑って行かなきゃ」
「……分かってる」
「ごめんね、私も余計なこと言ったね」
眉を下げる女将に、いいえと微笑んでからキカを見る。キカもフェスタローゼを見ていた。が、目が合うとすぐに逸らしてしまう。
少年らしく拗ねているその様子に、敢えて口には出さないキカの本音が透けて見えて胸が鈍く疼く。
キカが寂しく思ってくれているようにフェスタローゼだってキカとピッケと別れるのは辛い。だからと言って、南都を通り過ぎ、共に生きていくことはできない。
「もう少しは一緒なのだから。よろしくね」
厳然とした現実を胸にキカへと微笑みかける。キカはふと唇の力を解いて、ぎこちなく口角を上げた。
「ローザは危なっかしいからな」
「お世話かけます」
「まったくだよ!」
強張った雰囲気が消えて行くのを見届けて、女将はよっこいせ、と大儀そうに立ち上がった。
「さ、熱ぅいお茶でも淹れてこようかね。ちょっと待ってて」
「すいません、ありがとうございます」
女将は腰をさすりながら厨房に行き掛けて、ふと振り返った。
「それにしてもピッケ爺遅いね。仕入れに行ったにしちゃあ時間がかかり過ぎだよ」
キカとフェスタローゼは顔を見合わせた。
確かに。言われてみれば遅い。
1刻もすりゃあ戻ると言った割りには未だ戻って来ていない。
「どうしたんだろ? 掘り出し物でも見つけたかな」
「見に行ってみる?」
つと円卓に手をついて腰を浮かしかける。その瞬間、バタン!と激しい音を立てて、宿屋の扉が乱暴に開いた。冷気と共に転がり込んで来たのは若い男だった。
「どうしたんだい?!」
「た……大変だ!!」
男は震える手で通りの向こうを指差した。
開け放たれたままの扉から見える通りで午後の光が優しく揺蕩っている。だが、そんな長閑な景色とは裏腹に、大勢の人々が騒いでいる声が切れ切れに聞こえて来る。
「何の騒ぎだ」
只ならぬ雰囲気を察して、厨房から宿の主人も出て来た。夕食の仕込みを自らしていたらしい主人のエプロンには豆の筋がついたままだ。
「あの、広場で! 荷崩れしやがって……あのイサール商会の!」
出て来た主人に男は猛然と喋るものの、興奮の余りに支離滅裂となっている。そんな彼を主人は厳しく一喝した。
「はぁ? 分かんねぇよ。しゃっきりしろ!!」
男は深く息を吸って、ごくりと唾を飲み込む。
「広場でイサール商会の奴らが荷崩れ起こしやがって。そこに突っ込んだ荷馬車の馬が暴れて……! えらい人数の怪我人が出てんだよ!!」
「あんた!」女将が短く叫んだ。
「行って来る!」
主人はバッとエプロンを勇ましく投げ捨てると、大きく肩で息をしている男を案内に立たせて駆けだして行った。
「キカ……」
彼を見る。キカの顔は真っ青だった。
「じいちゃん」
呟くが早く、キカはダンッと床を蹴って通りに飛び出して行く。
「あ、ちょっと! ここで待ってな!!」と慌てて止めに入る女将の横をすり抜けて、フェスタローゼもキカの後を追う。
「2人共、危ないよ! 戻っておいで!!」
「ごめんなさい!」
戸口で叫ぶ女将に叫び返して、フェスタローゼは前を向く。狭い小路の先を行くキカの背中が見えた。
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