第4話 遠い故郷
ならず者の襲撃を受けてからのピッケの動きは迅速だった。緊張が解け、崩折れる様に床に横になったキカを乗せた馬車はいつにない疾走を続けて、その日の内にアンヴィル領最後の町に到着した。
「キカ」
フェスタローゼは宿の人に作ってもらった軽食を手に、そっとキカの背中に声を掛けた。
宿に入るなりベッドに潜り込んでしまったキカからは何の返事もない。しかし細い背中から未だ漂う緊張感が、彼が寝入ったわけではないことを如実に物語っている。
「あの、スープとかパンとか。手軽に食べれる物を見繕ってもらったから。食べよう? 体も温まるし」
返って来るのは沈黙。それは静かだがはっきりとした拒否だった。
自分はいない方がいいかもしれない。
フェスタローゼはそう判断して、ベッドの頭の方にある小卓に軽食を置いた。
「ここに置いておくから。気が向いたら食べてね?」
それだけを言い残して部屋を出る。やはり返事はなかった。
部屋の外に出た所で宿内に居場所はない。フェスタローゼの足は自然とピッケのいる厩舎へと向かう。
ピッケは今夜も馬車にいる。キカの異変もあるし、流石に一緒に泊ろうと言ったが彼は首を縦に振らない。荷が盗まれるかもしれんなんて答えたが、キカとフェスタローゼに優先的に部屋を使わせようという意図は明らかだ。
それならば自分が馬車にいる!と主張したものの、バカなことをと一笑に付されて終わってしまった。
ピッケは荷台にいた。
彼は心許ない明りを放つランタンの元で蔓細工をしている。
「ピッケ」
「おぅ、来たか。ローザ」
声を掛けるとピッケは目元をしわしわとさせて微笑む。まるで彼女が来るのを予想していたかのような口振りだった。
「何を作っているの?」と尋ねたフェスタローゼに、彼は編みかけの細工を誇らしげに突き出す。
「あら? 一輪挿し?」
ダイナツルの細い部分を選って編まれているのは一輪挿しだった。濃く深めの茶色がシンプルな造形を品よく際立たせる。キカが普段作っている実用的な籠と違って、随分とお洒落なものだ。
「明日にはアウルドゥルク領に入るだろ? あそこの領地はこういった飾り物に近いのが良く売れるんだ」
「へぇ? 飾り物が売れるってことは生活に余裕があるのね」
「ま、国内随一の穀倉地帯だからな。何と言っても米の一大産地だ」
「豊富な米を背景にご子息様は国内中の美女を集めていると」
「御無体な濡れ衣を着せちまったな 本当に放蕩息子なのかも知らんのに」
“放蕩息子”の言葉に、アウルドゥルク侯次男・ジョーディの飄々とした顔が浮かぶ。領地に美女を集めて酒池肉林の放蕩三昧なんて言われたら、彼なら手を打って笑いそうである。
“いやぁ、実に面白い!!”と喜ぶ姿しか想像できない。
フェスタローゼは曖昧に言葉を濁した。
「あぁ、まぁ、うん。いいんじゃないかな」
「大貴族の若様に儂の嘘が届くわけもないしな」
うふふ、と笑ってフェスタローゼは荷台に上がった。ピッケと背中合わせに腰を降ろして膝を抱える。
背中越しに動くピッケの気配に気持ちが凪いでいくのを感じる。心地よい安堵感に浸りながら、彼女は膝に顎先を乗せて四隅から忍び寄る夜闇に沈む荷台を眺めた。
「今日は済まなかったな。怖い思いさせて」
フェスタローゼは、ううんと首を振る。
「大丈夫。ちょっとびっくりしたけど」
「びっくり……びっくりかぁ」
「ピッケこそ口八丁凄いね。別人みたいだった」
「それは褒めてるのかぁ?」
「褒めてるわよ」
カラカラと響いた陽気な笑い声の余韻が消えて行く。ピッケはぽつりと言った。
「キカはどうしてる」
「ずっと寝てる……フリしてる」
「そうか」
キカはどうしたの?
そう訊きたい気持ちはある。
だが以前感じた、踏み込まないで欲しいという拒絶がせり上がって来る言葉を抑え込む。
フェスタローゼは事情を訊く代わりに、そっとピッケの背中に自らの背を少しだけ預けた。僅かに当たる部分にピッケの仄かな温かみがじわりと染みる。
ふと彼の手の動きが止まった。
「……儂の故郷は北方でな。冬の寒さと言ったらここいらの比じゃねぇ」
「うん?」
「寒いからこそなのかねぇ」
振り仰ぐ気配がする。
「人の温もりがより一層暖かく感じたもんよ」
「そう」
フェスタローゼは少しだけ預けていた背中をもう少し傾けた。勢い、背中に乗られる形になったピッケが「おいおい」と笑う。
「そんなに乗られたら腰がいかれるわい!」
「そうしたらやっぱり部屋で寝なきゃね」
「お前さんも頑固者だ」
「ピッケに染まったのかしら」
「言いおってからに!」
ころころと心地よく笑う2人に、通りかかった人が「仲いいねぇ」と柔らかな眼差しを向けて行った。
「なぁ、ローザ」
「なぁに?」
「ちぃっとばかし、爺の昔話に付き合ってくれんか」
「……うん」
肩越しにピッケを見る。彼は背中を丸めて自分の手元を見降ろしていた。
これから語る過ぎし日の出来事の重さに耐えかねている。丸めた背からはそんな雰囲気が滲み出ていた。
ピッケは深く息を吸い、吐き出す呼吸と共に言った。
「キカの母親はな、あいつの目の前で攫われた。7才の時だ」
「7才」
器用に籠を編みながら“7才の頃からやってるからな!”と答えたキカの声が甦る。
「儂らは元々、北方の領地に住んでおった。……詳しい名前は出さんが」
「うん」
「キカの母親、儂からすると息子の嫁だ。嫁はなそこそこ器量よしでな。キカを産んだとはいえ、十分に別嬪な部類だった。それが……」
ピッケは最後まで言わなかった。代わりに重い吐息をつく。
胸の澱に溜まった記憶でもその部分は未だに当時のままの重さなのだろう。腹にも胸にも置きかねる、重い記憶だ。
「領主の手下が来た時、儂も息子もちょうど持ち回りの夫役に出ている所だった。まぁ、普通に考えりゃあ、その隙を狙ったんだわな。家にいるのは嫁とキカの2人きり」
「領主の遣いがお嫁さんを?」
「あいつらは遣いなんて上品なもんじゃねぇよ。あれはならず者紛いの人攫いだ」
激しい憤りが声音に乗る。
「夫役から帰って来た儂らが見たのは、薙ぎ倒されて荒らされた室内に、顔をパンッパンに張らして鼻血まみれになったキカだった」
「……ひどい」
呟いてみたものの、起きたことの惨さからすると全てが虚しい。言葉が追い付かない。
フェスタローゼは冷える心の底を庇うかのように顎先を更にぎゅうと膝に押し付けた。
「押し入って来た男3人にキカは1人で立ち向かったらしい。でもいかんせん7才の子供だ。殴り倒されて、蹴り飛ばされて動けなくなってな。母親が髪を掴まれて引きずり出されて行くのを見ているだけしかできんかった」
奥歯をぎりと噛み締める。どこかに力を入れていないと聞くことができない。
こんな無法が。こんな惨状が自らの国で起きていた。しかも混濁帝の治世ではなく、父帝の御代でだ。
「……お母様は?」
思わず元の喋りに戻っていた。ピッケはそれを指摘することもなく、ただうなだれる。
「それっきり戻って来なんだ。抗議に行った息子もな」
「……」
「ズタボロになった息子の骸が城壁に吊るされた日。儂はキカを連れて領地を出た」
「そこからずっと行商を?」
「おぅ」
「長い……旅路だったのね」
「……おぅ」
母を奪われ、父を殺されて。祖父と巡る旅路はどんなものだったのか。
幼いキカの胸中とその長い長い道程を思うと、自分に向けられるキカの明るい瞳が強い感慨を伴って迫って来る。
それと同時に、顔を真っ赤にして立ち竦んでいた彼の消えない憤怒の哀しさも鋭く胸に刺さった。
可哀そうに、大変だったのね。
そう言うのは容易い。容易くはあっても、自分を信頼して過去を教えてくれたピッケにそんな言葉は投げ掛けられなかった。
「ありがとう」
ややあって、フェスタローゼはそうっと言った。
「ありがとう。話してくれて」
「……なぁに。爺の昔話さ」
「うん」
フェスタローゼは再びピッケの背中に自らの背を預けた。
「でも、ありがとう」
背中越しに、ふわりと笑うピッケの気配がした。
◆◇◆
部屋に戻るとキカは出て来た時と同じままの姿勢で寝ていた。ベッド脇の小卓に置いて行った夕飯は手つかずのまま冷め切っている。
フェスタローゼはキカの横たわるベッドの端に腰を降ろした。安物のベッドが、きぃと微かに軋む。
「キカ」
声を掛けて、手を伸ばし。その背中をさすろうとして。止めた。
キカの苦悩も葛藤も、全てはキカ自身のものだ。誰かが代われるものではない。
無言のままに立ち上がる。
「お休み」
静かに告げると、フェスタローゼは衝立の向こうにある自分のベッドへと向かった。
翌朝。
晴れやかに広がる青空そのままの、伸びやかな声が衝立の向こうで弾けた。
「ローザ! いつまで寝てんだよ!!」
同時に、ザッと衝立が横にどけられて爽やかな朝の光がベッドに斜めに射し込む。
フェスタローゼは、「ん」とあやふやな返事をして目を開けた。
「お前、寝過ぎだよ。さっき
「もう?」
「もう! じいちゃんも呼んで朝飯行こうぜ。俺、腹減った!」
「朝ごはん……」
頭を巡らしてキカ側にあるベッド脇の小卓を見る。
盆の上に乗っていた昨晩の夕食は綺麗に平らげてあった。フェスタローゼの頬が緩む。彼女はよいしょと起き上がると、キカを見上げた。
もしかしたらまだ空元気なのかもしれない。
それでも前を向こうと、進んで行こうとするその姿は何ものよりも眩しい。
フェスタローゼは朝日を見るのと同じ心地で微笑んだ。
「おはよう。今日も元気ね」
「おうよ!」
威勢良く返して、キカはふんっと胸を張る。
薄い胸いっぱいに詰まった少年の矜持が、目映い朝日と共に澄んだ光を放っているかのようだった。
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