第7話 彼女の旅立ち

 帝紀466年 10月モナサンシャーサ中旬。

 帰国途中に逝去した第3王子・忍ノ御門和佐の葬儀は紫翠国にて遺体もないままにひっそりと執り行われた。空の棺を焼く一筋の虚しい煙と共に王子は鬼籍に入り、彼の悲劇は早々に忘れられて行った。


「誰かおらぬのか!」

 

 おとなう声が夕闇の彼方から聞こえた気がした。俯いたままの砂霞はぼんやりと聞き流す。

 

 王都・曲水にある貴族街の端。うらぶれた雰囲気がそこはかとなく漂う区画の只中にある香内こうのうつ家の縁側に砂霞の姿はあった。

 その服装は喪中である事を示す白一色の着物。簡素に束ねた髪には飾りの1つもなく、やつれた頬にかかる一筋の髪が侘しく彼女の顔を彩っていた。


「おいおい、どしたよ。人っ子ひとりいやしねぇじゃねぇか」


 威勢の良い胴間声が辺りの空気をびりびりと震わす。

 厄介な奴が来た、と溜息1つ顔を上げると、反吐が出る程に見飽きた子憎たらしい顔が砂霞を見下ろしていた。


「雪峰か」

「おうともさ」

 彼女の呟きに返す男の名は名科なしなのうつ則武そくぶ雪峰ゆきみね

 紫翠国軍軍団長を務める男は刀の柄に武骨な手を乗せて頷いた。


「呼んでも誰も出て来ねぇから木戸から邪魔したぜ」

 彼は不審げに眉をひそめて縁側に座る砂霞の背後をうかがった。

「家人はどうした?」

「……全員、暇を出した」

「何でだよ」

「お前には関係あるまい」


 素っ気ない返答に雪峰は言葉もなく首の後ろを掻きながら、砂霞の頼りないうなじをしばらく見つめいてた。ややあってゴホンとわざとらしく咳払いをすると、ぐっと厚い胸板を反らして簡潔に言う。


「今日は迎えに来た」

「誰を?」板敷をなぞりながら問う。

「お前をだ」


 板敷をなぞる指を止める。

 砂霞は口の端を無様に吊り上げて、仁王立ちする彼を見上げた。

「……同情か? 主も家族も全てを失った私を哀れんだか」

「そんなんじゃない」

 荒々しく言い捨てて、雪峰は再び首の後ろに手をやる。


「そら、まぁ……何だ。母上は残念……だったな」

「残念も何も」

 彼女は無意識の内に背後を見やり、吐息を洩らした。

「母が望んでしたことだ」

「しかし追腹を斬るなんざ」

「息子が命を捧げた相手までもが死んだのだ。これ以上この世に留まる意味はないだろう」

「それはお前もか」


 厳しい言葉が砂霞の耳朶を打つ。一瞬だけ目を見開いてから、彼女はまた板敷をなぞり始める。

 雪峰は太く、ふっと息を吐いた。固い沈黙の降り積もる夕暮れの庭先を寒風だけが通り過ぎて行った。


「殿下の最期を聞いた」

「そうか」

 

 ぽつりと雪峰が言う。砂霞は寒風の運んできた松の葉を拾い上げて、気まぐれにくるくると弄ぶ。


「お前はよく善戦したよ。トレンタマイアの一撃を受けたそうじゃないか」

「何の意味もなかったがな」

 

 ぽいっと松の葉を捨てて砂霞は立ち上がった。

 腐れ縁で気心の知れている雪峰であっても、これ以上言葉を交わす気にはなれなかった。

 何をどう言われても和佐を失った現実が覆ることはない。和佐も母も弟も、去った者達の魂は返らない。


 心の内に呑んだ鉛のごとき悲しみそのままの重い足取りで奥へと入っていく背に雪峰の声が追い縋った。


「待てよ! 和佐殿下が淀禍てんかだったって聞いたが。本当なのか?」

 

 今更何を、と衝動的に怒鳴りたくなる。しかし砂霞はぐっと堪えて背を向けたまま冷たく答えた。


「そうだ」

「治療が効かなかったのも本当か」

「本当だ」

「薬も白緑法も全くか」


 砂霞は鋭く振り向いた。庭先の雪峰は逞しい両腕を組んで、厳つい眉を深刻にひそめている。猪武者を体現している男のいつにない姿に、砂霞の好奇心が少しだけ疼いた。


「何だ。いやに深刻そうに」

 

 その場に突っ立ったまま弱々しく訊く。自分でも驚くほどに細い声だった。

「いやぁ……。最期の様子を聞いて気になってな」

 

 雪峰は首の後ろに手をやりかけて途中でやめると、その手でひらひらと砂霞を呼び寄せる。砂霞は僅かな逡巡の後に、雪峰の前へと戻った。

 

 戻って来た彼女に雪峰は「そうだよなぁ。お前は弟君の代わりだもんな」とぼやきに近い言葉を洩らす。さもありなんとでも言いたそうな口調であった。


「本来の護衛官は弟君で、お前はちゃんとした訓練を積んだわけじゃないもんな」

「何が言いたい」

「和佐殿下の症状な、多分淀禍てんかじゃない。正禍しょうかだ」

「しょう……か……?」

 オウム返しに首を傾げる。雪峰は砂霞の目を見て、しっかりと頷いた。


「精道ってのはつまり、万物に宿る命の根源、その流れの事だ。それが流れである以上はどこかに淀みも生れる。その淀みに影響を受け、体内にある精道が正常に働かなくなる。それが淀禍だ」


「それ位は知っている。現に殿下の容態は淀禍に冒された以外なにものでもなかった。だから私達は……」


「だが、正禍は淀禍とは違う。一見してそれは同じような症状にも見えるが、根本から違うんだ。淀みに触れた者は淀禍に冒される。だが、正禍に冒されたものは淀みを引き起こす」


「貴様はまさか、そもそも殿下があの淀みの嵐を呼んだのだと、そう言いたいのか?」


「そう殺気立つな。正式な引き継ぎをしなかったお前は知らんだろうが、正禍については色々と聞かされる事も多い。その内の一つに、正禍とはそもそも、アラミタマ様の宿り身になった証だとも言う話もある」


「アラミタマ様の宿り身……つまり……?」


「和佐殿下はどこかでアラミタマ様をお宿しになって、どこかでアラミタマ様が抜けた。そして正禍になった。そういう事だ」


「アラミタマ様を宿す……」


「正禍ってのは淀禍の薬も白緑法も効果がない。要はこれ以上はないってくらいに濃縮された猛毒を飲むようなもんだ。正禍になったらまず助からない」


 砂霞の記憶の底で和佐の声が甦る。


“記憶が……ないんだ”

“私の中には私の知らない自分がいるようだよ”


「なぁ、雪峰」

 砂霞の視線が中空を彷徨ってから、雪峰に向けられる。彼女は囁くようなか細い声で彼に問い質した。

「アラミタマ様の宿り身になった者は時々、記憶を失うものなのか?」

「あぁ。あるらしいな」

「殿下は、記憶、がないと」


 あぁ、と雪峰が天を仰ぐ。

 釣られて見上げた空は、茜の時を終えて透き通った紺色が広がり始めていた。冷たく光る一番星が心許なくちかちかと瞬いている。


「それにな、精道士の乗った船が直前で離脱したって聞いたが」

「あ、あぁ。修理する箇所が見つかったとかで。寄港先にしばらく残ると」

「あいつら分かってて離脱したんだよ」

「え?」

「正禍になった者は淀みを引き寄せるだけじゃなくて妖魔も引き寄せる」

「和佐殿下が正禍で、淀みや妖魔を引き寄せると分かって……?」

「そうだな」

「そんな……」


 砂霞は額に手をやった。思いも寄らなかった事実に頭がくらくらする。頭がくらくらとはするものの、全てのピースがあるべき場所に嵌る。


「和佐殿下が最期、トレンタマイアに身を捧げたのは」

「助からない、と気付かれたのだろうな」

「では全て……」


 続きは言えなかった。

 あの奮戦全てが、和佐を守るためと奔走した全てが無駄なことだったのかと口にすることはできなかった。

 雪峰も何も言わない。体の両脇で拳を握り締めて哀れに立ち尽くす砂霞にかける言葉は彼にもない。


「ただなぁ……」

「今度は何だ」

「やっぱやめとく」


 雪峰は渋い顔で顎をさする。


「あぁ……! でも公正じゃないわな」

「何をぶつぶつと」

「俺はな、お前を迎えに来たんだ」


 きっぱりと言い切って雪峰は曇りのない眼差しで砂霞を見る。その真摯さが今は耐えられなくて砂霞は目を逸らした。

 

「お前を妻にしたい。だから本当は言いたくない」

 言った端から、でもなぁ、と情けなくぼやく 雪峰はしばしの葛藤の果てに、ようやく口を開いた。


 あくまで噂だぞ、と周到に前置きしてから彼は端的に言った。


「アラミタマ様の宿り身になった者は死後、精道に還らない」

「還らない……?」

「死後もその魂はアラミタマ様の元に留め置かれる、そう言われているんだ」

「殿下の魂が」


 砂霞は掠れた声で呟いた。


「殿下の魂が死後も」

「噂というか、伝承ではな? 誰も死後のことは分からねえし、確かめようもない」

「でも、そう言われているのか」


 砂霞が身を乗り出す。

 雪峰は重い吐息と共に、1つ首肯した。砂霞が唐突に身を翻す。


「おい、待て!」

「止めても無駄だ。お前の妻にはなれん」

「そんぐらい言われなくても分かる」


 雪峰は腰に差している刀を鞘ごと引き抜くと、「ん」と無愛想に突き出した。


「持っていけ」

「刀ぐらいある」

「これは和佐殿下から拝領されたものだ」

 そう言って雪峰はニヤリと笑う。


「お前、俺の刀をへし折ったことがあったろう?」

「あれは……! 性懲りもなくお前が手合わせしろとしつこく絡んだからだろう」

「まぁな。でもなその後に殿下からこれが届いた。中々の逸品だ」

「殿下はそんなこと一言も」


 おずおずと突き出された刀に手を伸ばす。両手でしっかりと受け取り、思わず胸にかき抱いた。


「殿下が」


 和佐の笑顔が胸の奥底で咲き誇る。ともすると溢れ出しそうになる涙を砂霞はあえて堪えた。


「ありがたく頂戴する」

 万感の思いで告げた彼女に雪峰はすげなく首を振る。


「いや、やらん」

「何……? 見せただけか?!」

「違う。貸してやるだけだ」

「貸す?」

「そうだ」


 庭先の雪峰はいつもの豪放磊落な笑みになる。男になるならばかくなりたい、と願ってしまう大らかで懐深い笑顔だ。


「宿願を果たしたなら、お前自身がちゃんとそれを俺に返しに来い。それまで貸してやる」


 砂霞は黙る。

 黙って、胸に抱いた刀を見つめた。


「……承知した」

「俺はしつこいからな。いつまででも待っているから必ず帰って来い」

「お前のしつこさは十分承知だ」


 頬が自然と緩む。

 ようやく微かに笑った砂霞を雪峰は眩しそうに目を細めて見つめた。


「お前、まずは聖都に行ってみろ」

「聖都か。何故?」

「何故って。あそこはローディーン教の総本山で、精道研究も盛んだ。聖都なら何らかのヒントが得られるかもしれないだろ」

「そうか」


 砂霞は一途に頷いた。

 その心は早くも、見果てぬ旅路の先を向いている。泥のごとく堆積して固まっていた心が動き出す。


 双眸に再びの光を得た砂霞は、雪峰に深く一礼すると、今度こそ館の奥へと去って行った。


 凛々しく立ち去る彼女の背中を見送った後、ひとり取り残された雪峰は苦笑いで首の後ろをガリガリと掻く。

 

 虚空に佇む月の光が、彼の屈強な体躯を静かに照らしていた。

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