第6話 暁天に散る

 9月ルフィナール末に帰国の途に着いた紫翠国一行は、10月モナサンシャーサ上旬にフォーン帝国北都ノスフェラトゥから出港した。いい風に恵まれて順調に帆を進めること5日。紫翠国の船団は大規模な精道の淀みに突っ込むという苦難に見舞われていた。


 風が唸り、黒波がうねる。その真っ暗な海面からは這い上がろとする亡者が群れをなす。

 

 砂霞は斬られてもなおまとわりついて来ようとする亡者を満身の力で蹴り飛ばした。ぐちゅ、という嫌な音と共に四肢が千切れて甲板を滑って行く。

 

 その行く先を見送る間もなく、返す刀で船縁ふなべりから襲い掛かって来た新手を一刀両断。腐りきった肉の下からちら見えするあばら骨は美しく真っ二つになった。

 

 大波を食らった船体がぐらりと揺れる。砂霞は体勢を崩して転倒しそうになった兵士の襟首を咄嗟で掴んだ。


「しっかりしろ! 海に落ちたらおしまいだぞ!!」

「すっすいません」

 

 頭を下げる兵士を余所に、彼女は夜闇に散っている自軍の兵士に向けて声を張り上げる。


「広がるな、固まって行け! 船縁で叩き落とせ!!」


 砂霞の指示は吹き荒れる嵐にからめ捕られて、ただ空しく宙に散って行った。怒号と剣戟の支配する甲板をざっと見渡して、彼女は冷え切った唇を噛み締める。


――一刻も早く淀みここを抜けねば。そうしないと殿下の御身が……!

 

 砂霞の脳裏に浮かぶのは、船室で力なく横たわっている和佐の痩せこけた横顔だ。  

 

 玉都を出発した時は何の異変もなかった和佐だが、約20日間の旅程の間に徐々に衰弱していき、今ではほぼ寝台に伏せたきりになっている。


 淀禍てんかを疑い、薬や白緑法での治療を続けてはいるものの一向に良くならない。彼の王子は衰弱する一方である。


 ぐいっと手荒に目を拭い、吹き荒れる暴風雨を見透かす。生き物であるかのようにうねり、砕ける波の向こうにあるのは元は捕鯨船と思しき一艘の大型漁船と無数の朽ち果てた小型漁船だ。破れた帆が、寄せる強風に千切れそうに激しくはためいている。

 

 船ごと妖魔に身を堕とした海の亡者、ミタマアラシは波を掻き分け、おぞましい執念で船体をよじ登って来る。それらを船縁で迎え撃ち、叩き落として応戦するも、尋常ではないしつこさに兵士達の疲労感もピークに達しつつある。


「くそっ!」


 思わず悪態が口を突いて出た。圧倒的に精道士が足りていない。精道士がいれば、ミタマアラシへの攻撃がもう少し容易になるというのに。

 

 一緒にいた精道士の大半は、直前で別れた方の船に乗っている。間が悪かった。この船に乗っている10人にも満たない精道士ではとてもではないが、この亡者の群れを抑え込む事は難しい。


 焦りを刀に乗せて目の前の亡者に叩きこむ。錆切った銛を振り上げていた亡者は耳障りな音を上げながら甲板を滑り、海中に落ちて行った。

 辺り一面に亡者の撒き散らした腐肉が飛び散り、濃密な血の臭いと腐臭とが混ざり合ったひどい匂いが甲板中に立ち込めている。

 

 匂いまでもが地獄絵図の船上で、新たな悲鳴が闇夜を切り裂く。


「船が! 接舷して来るぞ!!」


 へさきを見やる。

 ずんぐりとした大型漁船がこちらに向かって突っ込んでくるのが見えた。特徴的な高くせり上がった船首が砕ける波の間に黒々とそびえ立つ。


「面舵いっぱい! よけろ!」


 砂霞の叫びに操舵手が、必死に抱え込んでいる操舵輪を慌てて回していく。砂霞は右舷方向の船縁に取りつき、甲板下にいる砲手達に向かって指示を飛ばした。


「大砲っ、まだだ! もっと引き寄せてからだ!」


 そう叫びながら背後で振りかぶった亡者を、振り向きざまに薙ぎ払う。鼻を突く腐臭と共にぶしゅうと飛び散る死肉を果敢に払いのけ、水平射撃の効果が最大になるその時を待つ。


「今だ、放て!!」


 号令と共に側面のカロネード砲が一斉に放たれた。ドンッと腹に響く衝撃と轟音が弾ける。砂霞は手近にあったロープを咄嗟に掴み、反動で大きく傾いだ甲板に踏み留まった。


「やったぞ!」

 

 歓声が上がる。

 至近距離からの一斉射撃を食らったミタマアラシの母船は、その船体の半分近くが粉々に吹き飛んでいた。


「油断するな! まだ振り切ってはいない!!」 

 

 相手が普通の船ならばこれで勝敗はつく。しかし、あれは妖魔・ミタマアラシの一部である。半壊程度では一時しのぎにしかならない。


「離脱するぞ!」


 黒雲渦巻く空にぶわりと白地の帆が翻る。生き残った船員達が、吹き荒れる暴風に帆を取られまいとロープに必死に齧りつく。砂霞は彼らの側に陣取って、襲いかかって来る亡者を次々と斬り伏せた。


 砂霞を始めとした各兵士の奮戦の甲斐あり、船に取りついた亡者はその数を大分減らして来ている。このまま亡者の供給先である大型漁船から離脱できれば、後は船に残った数体を屠ればいいだけだ。


「何とかなりそうだな」

 砂霞同様、船員達を守護していた兵士が油断なく周囲を観察しながら言った。

「ああ」と頷き返そうとしたその時。


 視界の隅で、巨大な黒い水柱が天をも突かんばかりにそそり立つのが見えた。同時に船底から突き上がる衝撃に、思わずたららを踏んで何とか踏み止まる。


 闇を切り裂き響く不吉な咆哮に誰かが上げた悲鳴が重なった。


「ト、トレンタマイアだっ!」


 悲鳴の上がった方向、右舷前方に目を転じる。

 砂霞は息を飲んで、目を見開いた。


 船の前に突き立つは、淀神てんしんアマオトスが造りし最悪の海の妖魔。この世に生きる全ての生命の中でも取り分け醜悪とされる生物。


 淀みの嵐の中にあってトレンタマイアとの遭遇は即ち、逃れられない死を意味する。まさかのこのタイミングでと、誰もが己の不運を呪わずにはいられなかった。


 海面から突き出た大木のごとき巨体が船に迫り、顎先から生えた触手が猛る海面を薙ぎ払う。

 海面で蠢いていた亡者の体はいとも容易く宙を舞い、無惨に砕け散った。その圧倒的な存在感は淀みの王者以外の何者でもなく、初めて見るその偉容に砂霞はただ立ち尽くした。


 爆音と共に船体の一部が弾け飛び、甲板が大きく跳ね上がる。

「掠めただけだっ! 浮き足立つな!」

 すぐそばで上がった怒声にはっと我に返った。

「掠めただけ……」

 呟く目の前でトレンタマイアの触手がぬるりと持ち上がる。戦慄が砂霞の背骨を駆け上がった。


 掠めただけで船体の一部が弾け飛ぶ威力。あの一撃をまともに食らったらひとたまりもない。瞬殺と言ってもいい勢いで船は大破し、全てがトレンタマイアの餌食となるであろう。そう、和佐も含めた全てが。


 刀の柄を持つ手にぐっと力がこもる。最早、猶予はない。


「おい、待て! 死ぬ気か?!」


 飛び出した砂霞は振り下ろされた触手を刀で受けた。ずんっと甲板にめり込んでしまいそうな重みと衝撃を何とか踏みこたえる。全身の力で刀を支えながら、砂霞は自らの体内を通る精道全てが刀に吸い込まれていくのを感じた。


「うおぉぉぉっ!!」


 雄叫びと共に触手を弾き返す。弾き返した反動で砂霞の体は吹き飛んで、背後のマストに背中から突っ込んだ。激しく背骨を強打して、一瞬息が止まる。


「かはっ!」と咳き込んだ砂霞のすぐ上を触手が掠める。途端に強靭なマストは見事に二つにへし折れてしまった。


 刀に縋って何とか身を起こす。両肩を激しく上下させながら見上げた先で再び、ゆらりと触手が動いた。


――……体が、体が動かない。


 死を覚悟し、目を閉じた砂霞の名を呼ぶ柔らかい声がする。


「砂霞」


 砂霞は振り向いた。

 やつれきった和佐はいつもの笑顔を砂霞に向ける。折れたマストに縋りつくようにしているその足元は覚束なくふらついていた。


「相変わらず危ない事ばかり」

「殿下」


 和佐はマストから手を離すと、1歩1歩、大儀そうに歩を進める。ふらつきながらも進んでいく王子をその場の誰もが言葉もなくただ見送る。


「無茶も程々に、ね」


 トンと背中を温かい感触が触れる。優しく愛情に満ちた和佐の手はさらりと砂霞の背中を離れた。


「殿下……!」


 待って! やめて!! やめて!!


 張り裂けんばかりに心が叫ぶ。砂霞は動かない体を動かそうと必死に歯を食いしばる。しかし、鉛を流しこまれたかのように重い手足は震えるばかりで傍らを通り過ぎて行く和佐を止めることはできない。

 

「……ま……って……!」


 和佐は空を見上げた。

 わずかに切れた黒雲の間から有明の月が仄見える。渡せなかった手紙で誓った無駄な約束が彼の胸を過ぎった。


「遠く離れようとも見上げる月は同じ」


 呟いて振り返る。

 砂霞に向けて彼は微笑んだ。

 砂霞を和ませ、フェスタローゼを鼓舞した陽だまりのごとき穏やかな笑顔。その口がわずかに動く。しかし言葉は届かなかった。


 触手が和佐の体を瞬時に絡め捕る。全身の骨の砕ける音が響くよりも早く、彼の体は空中高くに舞った。


 和佐を飲み込んだトレンタマイアは急速に周囲への興味を失って、その巨大な体をざぶんと海中に投げ出す。てらてらとぬめった光を放つ不気味な姿はあっという間に波の下に消えて行った。


 砂霞は目を見開いていた。

 悲鳴もない。叫ぶ言葉は彼女の内には残っていない。ただ、呆然として倒れ込む彼女の前で。

 

 黒雲はいつの間にか去り、遥か彼方の水平線に一筋の光が走る。陰惨な光景が広がる海面に朝日の温かな生命力がゆっくりと広がって行く。


 今日もまた1日が始まる。

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