第5話 明日の行く先

 南都行きの船着き場で、フェスタローゼは呆然として呟いた。


「昨日、出港した……?」


 日によく焼けた老齢の船頭は、青ざめた表情の彼女に気の毒そうな視線を投げる。

「へぇ。南都行きの船は昨日出たばっかりでさ。次に出るのは5日後で」

「5日後……」

「5日後かぁ。中途半端に空くなぁ」

 キカはそうぼやくと、手を後ろ手に組んでぶらぶらと上半身を捻りながら、閑散とした船着き場を眺めた。

 5日後まで船が出ないため船頭はおろか出港待ちの人もいない。係留された船もないままの桟橋がただぽっかりと空虚な様をさらしている。

 

 予想外の展開にフェスタローゼは言葉を失って、無情に流れる広大な運河をただ見つめた。

「まぁ、5日後には間違いなく出るから」

 慰め顔で言い添えて、立ち去りかけた船頭を慌てて呼び止める。怪訝そうに振り返った彼にフェスタローゼは身振り手振りを交えて必死に問い掛けた。


「あの、この辺りで男性の2人連れ見かけませんでしたか? 1人は黒髪で、こう後ろで縛っていて、もう1人はブルネットの短髪で。2人共、背丈はこのくらいで」


 このくらい、と自分より頭2つ分上を示すフェスタローゼに、老船頭はかぶりを振る。


「いやぁ、男2人連れなんて一杯いるからな。それだけじゃ分からねぇなぁ」

「じゃあ、あの。男性でも女性でもリモーネの花をあしらった服を着た人は?」

「覚えねぇなぁ」

「そうですか……」

 ありがとうございました、と肩を落として頭を下げる。老船頭は歩き去って行った。取り残されたフェスタローゼは途方に暮れて、船着き場を見渡す。


 南都行きの船着き場に行けば、スーシェとイデルがいて順調に合流できると思っていた。しかし希望を抱いて到着した船着き場にはセレスティアン=シュヴァリエどころか船すらない。


――一体、どうすればいいのか。5日後と言われてもその間、滞在するための路銀すらない。


 泣きそうな気持で唇を噛むフェスタローゼにキカがそっと訊く。


「ローザ、どうする? 他の船着き場も回ってみるか?」

「他……」

「他にも東都行きとか北都行きとか。色々あるよ。ローザの連れもお前を探してウロウロしてるかもしれないし」

「でも、キカにも都合が」と言いかけた彼女を遮って、キカは殊更に明るく返す。

「ここで、じゃあな!って帰ったら俺がじいちゃんにどやされるよ。いいから着いて来いって。ここからなら……東都行きが近いかな」


 言うが早く、キカは周囲を見回してさっさと歩きだす。2、3歩行ってから振り返り、なおもぐずぐずとためらっているフェスタローゼを手招きした。

「ほら、早く行こうぜ!」


 泣いていてもしょうがない。今はキカの好意に甘えよう。

 フェスタローゼは滲んで来た涙を拭うと、振り返って待っているキカの後を追った。


◆◇◆


「それで、出会えなかった、と」

「……はい」


 安宿が固まっている通りの一角にあるピッケ達の定宿。その一室にある古びたソファの上で、フェスタローゼは悄然として頷く。


「そうかぁ。誰もいなかったか」


 呟いてピッケはくるりと煙管を下向きにして灰吹にポン、と火種を捨てた。柳のごとくにうなだれるフェスタローゼの傍らではキカが大人びた風情で腕を組む。


「他の船着き場も見たし、念のため大門も行ったんだけどね」

「ごめんね。長い間付き合わせて」

「もうそれはいいって。聞き飽きた」

 フェスタローゼの言葉をぞんざいに片手で打ち消して、彼はごま塩頭を撫で回している祖父を見やった。

「どうしたらいいのかな?」

「どうって……ローザの連れはローザの連れだからな。俺らにはどうにもできん」

「そらぁ、そうだけどさ」


 キカは口を思いっきりとんがらす。ピッケの意見が正しいのは分かるけど、心情的には受け入れがたい。そんな不満をはっきりと前面に押し出して、頭をがりがりとする仕草はピッケのそれと全く同じである。


「俺達、明日には出発するよな?」

「おぅ。仕入れも済んでるからな」

「……もう1日だけ、とかって?」

「駄目だ」

 すり寄って来たキカの甘えをピッケは即座に払い落とした。

「タスエは俺達みたいな行商人には金ばっかり出て行く町だ。それに明日が駄目ならもう1日。後もう1日、もう少しってきりがなくなるにきまってる」

「でもさ」

「それに初めに言ってある。事情は聞かないって。今日1日付き合ったのだって本当なら余計なことだ」

「……えぇ」

 フェスタローゼは、か細く同意して、長く華奢な指を膝の上でぎゅうと握りしめる。


 それは十二分に承知している。今日1日、キカを案内に付けてくれたこと自体がピッケの好意であることくらい、しっかりと理解している。


 あの、と顔を上げる。フェスタローゼが先を続けるよりも僅かに早く、ピッケが「だがなぁ……」とぼやき声を洩らした。


「残念なことに儂はキカのおじぃだ。底抜けのお人好しの元祖でな。さすがに世間知のなさ過ぎるお前さんを放り出すことができん」

「……じいちゃん!!」

 キカの表情が真昼の太陽のごとくにぱっと輝く。そんな孫を「喜ぶのは早えよ」と牽制してピッケはフェスタローゼを正面から見据えた。


「儂から提案するのは2つだ。儂らと一緒に南都に行くか、この町に残って路銀を稼ぎながら連れを待つか」


 一緒に行く場合、と前置きしながらピッケは縁の欠けた茶碗から白湯をがぶりと飲む。

「タスエまで来た時と同じく色んな集落を回りながら移動するから、南都まで行くのには2ヶ月近くかかる。この町に残って路銀を稼ぐっつうなら、知り合いの商人に日雇いの仕事がないか掛け合ってやる。どっちにする?」

「どっち……」

「ま、すぐには答えられんだろ」

 黙り込んでしまったフェスタローゼにそう言って、ピッケは膝をぱん、と勢いよく叩いた。

「とりあえずお前さんの分も部屋を押えといたから、一晩じっくり考えておいてくれ」

「でも、そんな」

「この宿の主人には泊る度に何かとよくしてもらってるからな。たまには余分に宿賃使って返してやらにゃ。気にすんな」


 ピッケはカッカッカと笑うと、思案顔で立ち尽くしているキカに「ほれ、ぼーっとしてねぇとローザとお前の分の夕食もらって来い。こんな美人が食堂に降りて行ったんじゃ何に絡まれるか分からん」と言い付けた。

「あいよ」

「シルマに言えば用意してくれるからな!」

「はいよ」

「こぼすんじゃねぇぞ」


 フェスタローゼは、ぽつりと訊いた。

「どうして?」

「ん?」

「どうしてここまでしてくれるんですか」


 明らかにお人好しの範疇を越えている。

“関わりたくない”という言葉とも乖離し過ぎている。


「どうして、どうしてかぁ?」

 

 ピッケは、えっこいせと大儀そうに白湯の入ったポットを引き寄せようとする。フェスタローゼはさっとポットを取り上げて、ピッケの湯飲みに白湯を注いでやった。

 ありがとよ、と白湯を上手そうに飲み、彼は手にした湯飲みに視線を落とした。

 

「見るからにいい所のお嬢様風情なのに、粗末な馬車に寝ることも厭わず、食い物に文句も言わず、一生懸命に働こうとする。そういう人間は助けたくなるってのが人情ってもんだろ」

 深く皺の刻まれた目元が優しく緩む。

「後はやっぱりキカだな。お前さんと一緒になってからのあいつはいっつも楽しそうにしてやがる。ずっと儂と2人っきりで、同年代の友人が1人もおらんあいつにとって、お前さんは初めての近い年齢の人間だ。あいつも嬉しいのだろう」

「……キカのご両親は?」

「もう2人共死んでいる。色々あってな」

 “色々”までは話す気はない。

 ピッケの言外の意図を汲み取って、フェスタローゼは「そうですか」とだけ頷いた。彼は白湯を一気に飲み干すと重い吐息をついて、コトと湯飲みを置く。


「それぞれ事情はあらぁさ。その全てをさらけ出しあう必要はあるめぇ。儂はローザが一緒に来てくれれば孫の嬉しそうな様子が見れる。お前さんは移動手段を確保できる。お互いにお互いを利用し合えばいいのさ」


 そう言って、くしゃりと笑う老人にフェスタローゼは深く頭を下げた。


◆◇◆


 翌朝。凍える夜の眠りから覚め始めたタスエの町中を悠々と闊歩していく荷馬車が一台。

 すっかり体に馴染んだ振動に身を任せつつ、フェスタローゼは過ぎて行く街並みを見るとはなしに眺めていた。向かいに座るキカはどこか嬉しそうに、昨晩の内に固めておいた練り香水の出来栄えを確認している。

「売れるといいわね」

 声を掛けると彼は「これはローザに売ってもらおう」といたずらっ子みたいな笑顔になる。

「どうして?」

「俺みたいなガキんちょが売るより、ローザが勧めた方が説得力あるだろ。これがお互いを利用し合うってやつよ」

 

 したり顔でうんうんと頷く様につい笑みがこぼれる。フェスタローゼは馬車の床に手をついて身を乗り出すと、偉そうにふんぞり返るキカの額をピン、と弾いてやった。


「子供が生意気言わないの!」

「ローザだって似たようなモンじゃないか」

「私はこれでも成人してます」

 

 ぽんぽんと言い合った果てに2人はほぼ同時に笑い始めた。馬車の中に温かくこだまする笑い声を背中で聞きながらピッケがぽかりと大きな欠伸をする。

 南都に向けての長い旅路はまだ始まったばかりである。

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