第4話 タスエへ
フェスタローゼは出来上がった鍋敷きを中空にかざして首を傾げた。みっちりと編み込まれたダイネツルで視界が遮られる。作りきった満足感と上達具合に、知らず知らずの内に口元が綻んだ。
――タスエに着く前に出来上がって良かった。
満ち足りた吐息と共に前方に目をやる。
御者台に乗ったピッケの肩越し、遥か前方に冬の陽射しを浴びたタスエの大門がゆっくりと姿を現し始めていた。
スーシェが言っていた“運河の町”。あそこにならセレスティアン=シュヴァリエの誰かがいるに違いない。
ようやく合流できる。
そう思う反面、約10日間を共に過ごしたピッケとキカとの別れが近付いていることを思うと寂しさが胸に迫って来る。
フェスタローゼは優しい眼差しをキカに向けた。
向かいに座っているキカは、先程の小休止の際に摘んで来た濃い緑の柑橘類の皮を海綿の上でぎゅうぎゅうと絞っている。
移動の時も店番の時もキカは暇さえあれば何かの手仕事をやっている。少しでも祖父の手助けをしようという気持ちの表れだろうが、実に働き者である。
「その実、絞ってどうするの?」
そう訊くとキカは目も上げずに答えた。
「練り香水にするんだよ」
「練り香水?」
「そ。こうやって皮から精油を作って、マレンオイルと混ぜるとあら、すごいって訳さ」
「へえ」
「絞ってみるか?」
「やってみる!」
早速、果実を受け取って海綿の上に身を乗り出す。親指と人差し指でぎゅうと絞った所、フェスタローゼの顔に思いっきり飛沫が飛んだ。
「やだ、もう!」
「どんくさいなぁ」
2人は同時に吹き出して、けらけらと軽やかに笑い始めた。御者台のピッケも楽しそうな2人の様子に満足そうな笑みを浮かべる。その視線が目の前に大きく張り出して来たタスエの大門に吸い寄せられた。
馬車は緩やかに速度を落とし始める。大門前に並んだ通行審査を受ける列に並ぶためだ。
「おい、キカ」とピッケが声を掛ける。
「あいよ、じいちゃん」
キカは手近にあった蔓籠から大振りの肩掛けを取り出すと、フェスタローゼに突き出した。
「これ。一応被っておいてよ」
「え?」
意図が分からないままに受け取る。厚手の肩掛けを手に不思議そうにする彼女に、キカは当然といった感じで言った。
「だってローザは俺達と同じ育ちには見えないもん。関番に変に目をつけられたくないんだよ」
「分かったわ」
素直に肩掛けをすっぽりと被る。
寒い時期なのが幸いした。頭からすっぽりと被っていても防寒に見てもらえるだろう。
「いよいよタスエだな」
ぽつりとキカが呟いた。先程のはしゃいだ調子から一転。そこはかとなく寂しさの滲んだ言い方だ。
「短い間だったけどありがとう」
しんみりして言うと彼はぎゅうと皮を握り締めて、乱暴にぶんぶんと海綿の上に振り下ろす。
「よせやい! なんか……まぁ。もうちょっとあるし」
「そうね」
微笑んで同意したフェスタローゼにちらりと視線を走らせてキカは顔を伏せた。それきり黙々と作業に没頭し始める。フェスタローゼは馬車の側面に背を預けて彼の作業をじっと見守った。
そうしている間にも列は順調に進んでいき、ピッケ達の番となる。フェスタローゼは反射的に顔を伏せた。
ここに至るまで立ち寄った村々でフェスタローゼの手配書が出回っている様子はなかったし、追討令が出たという話も聞いていない。それでも関番の目はつい避けたくなる。
「鑑札は?」
「こちらでさぁ、旦那」
「えっと? 雑貨商か」
「へぇ」
「連れは……子供か」
「孫2人でさ」
関番が馬車内をうかがう気配がする。心臓が早鐘のごとくに鳴り響く。ややあって関番はさして関心もない平坦な調子で告げた。
「行っていいぞ」
「へぇ」
馬車がごとりと揺れて前進を始める。フェスタローゼは肩の力をようやく抜いた。
大門を通過して、露店が軒を連ねる賑やかな通りを走りながら、ピッケがやや声を大きくして言った。
「とりあえず、いつもの宿まで行くからの。そこで降ろすぞ」
「分かりましたわ。お願いします!」と返したフェスタローゼに、つまらなさそうな顔でオイルを混ぜていたキカがぼそっと突っ込んだ。
「ローザ。喋り方戻ってるし。減点」
◆◇◆
ハルツグはタスエの通りを足早に歩いている。目指すは大門。タスエに到着したその日から足繁く通っている場所だ。
今日も大門前の通りは大いに賑わっている。しきりに荷馬車と人が行き交い、両脇にずらりと並んだ露店からは客を呼び込む声が盛んに飛び交っている。
歩道いっぱいまで店を広げている露店を避けるために、車道側に少し出てやり過ごす。そのすぐ脇を古ぼけた荷馬車が通過して行った。思った以上にすれすれを通って行く馬車に少し驚いて、御者台を見上げる。
御者台に座っているのは70近い老人だった。老人は手綱を握りながら幌の奥の方に向かって声を張り上げる。
「とりあえず、いつもの宿まで行くからの。そこで降ろすぞ」という声が遠ざかって行く。返事は聞こえなかった。
「別嬪さんだねぇ。1つどうだい」と行く手に突き出された果物をやんわりと押し留めてハルツグは大門に向けて歩き去って行った。
「お、今日も来なすったか」
「こんにちは」
すっかりと顔なじみになった関番達に、ハルツグは屋台で買ったアンテオを渡した。帝国では冬の定番となっている、濃く煮出したお茶に香辛料と蜂蜜を足した飲み物に関番達の目が輝く。
「すまないねぇ。こんな気を遣ってくれなくてもいいのに」
「いいえ。寒い中の勤務ですもの。大変でしょう」
「ありがたく」
ぺこり、と頭を下げた関番に「今日は?」と訊いてみる。関番は申し訳なさそうに肩を落として首を振った。
「一人で来た女の子はいないなぁ」
「そう……ですか」
「妹さんだってね?」
のろのろと呟いた彼女に掛けられた言葉は同情に溢れたものだった。
「さぞかし心配だろうな。17歳だったか」
「ええ、森の中ではぐれてしまって。あの子の
関番はいよいよ気の毒そうに眉を曇らす。
「誰かと一緒にやって来てる可能性はないのかい?」
「ものすごく人見知りする子なんです。見知らぬ人に助けなんて。とてもじゃないけど」
「それらしい子が来たらすぐに宿に知らせるから今日の所は戻ってな。宿は変わってないね?」
「ええ。あの……よろしくお願いします」
深々と頭を下げて踵を返す。なるべく途方に暮れた足取りを演出して引き返していくハルツグの耳に低く抑えた関番同士の会話が微かに洩れ聞こえた。
「……何日目だ?」
「大体、8日くらいじゃないか」
「気の毒にな……死んだか、
――冗談じゃないわ。
「そんなんじゃ困るのよ」
はっきりと独りごちて、ハルツグは埃舞う雑踏に紛れて行った。
◆◇◆
宿屋前にてフェスタローゼは荷馬車からぴょんと降りて、並んだピッケとキカの顔を順番に眺めた。両手を揃えて膝にあて、頭を下げる。
「本当にお世話になりました」
顔を上げてキカに微笑みかけると、彼は目を瞬かせてからぷいと横を向いてしまう。ピッケは、あははと声を上げた。
「何だぁ、泣きそうになってんじゃねぇか」
「そんなんじゃないやい!」
「寂しがってくれてるの?」
「うるさい! お前なんかいなくなっても全っ然寂しくなんかねぇよ!!」
「あら、私は寂しいわよ」
さらりと返すと、キカはぐっと言葉に詰まり更にそっぽを向く。そんな彼の様子にピッケと2人微笑ましく笑みをこぼし合った。
「あんた、これからどうするんだ?」
「船着き場に行ってみようかと。南都方面の」
「南都に行くのか」
ええ、と頷く。
「この町から船で南都に下る予定だったので。船着き場で誰か待ってるかもしれないんです」
「そうか。そら良かった」
「助けていただいてありがとうございました。このご恩は生涯忘れません」
「そんな大袈裟なもんじゃないさ」とピッケはくすぐったそうに肩を竦めた。
「こっちもかなり手伝ってもらったからな。いいって事よ」
「では、良い旅を。お2人の上にカルラのご加護のあらんことを」
フェスタローゼは会釈して身を翻す。
「いやいや、ちょっと待て」
そのまま行こうとする彼女をピッケが呼び止める。彼は未だそっぽを向いているキカの背中を小突いてフェスタローゼの方に押し出した。
「ほら。拗ねてないでローザを船着き場まで案内してやんな」
「でも」
遠慮するフェスタローゼにピッケは「お前さん初めてだろう、この町」
「ここは運河の始発点だ。色んな方向に行く船着き場がある。あんた、その中から南都行きの船着き場を探し当てれるのかい?」
「……無理です」
「だろ? だからこいつを連れて行け。案内くらいできる」
ピッケからキカに目を転じる。キカは未だふくれっ面で横を向いている。子供らしい意地の張りようについいじましさを感じて、フェスタローゼは可愛らしく小首を傾げた。
「お願いね、キカ」
下から掬うように彼を見上げる。果たしてキカは横を向いたまま、面白くなさそうに言った。
「しゃあねぇなぁ! 最後まで手のかかる奴」
憎まれ口は叩いているものの、にやりと緩む口元で全てが台無しだ。フェスタローゼとピッケはそっと視線を交わして声もなく笑い合った。
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