第15話 佇む人
皇太子フェスタローゼが、異端審問の場からエフィオンと共に逃亡したという知らせは帝国中を駆け巡った。
玉都を脱出した皇太子の行方は杳として知れず、とある貴族の庇護下にある、皇太子領たる東都を目指している、はたまた国外脱出したなどの真偽不明の噂だけが巷を賑わしている。
◆◇◆
干し肉と固いパンの簡素な昼食を終えて、フェスタローゼは息をついた。はぁ、とついた息が白く宙に消えていく。
玉都を脱出してから今日で3日目だ。
目の奥に今もちらつくのは、夕日の中に影絵のごとく浮かび上がる玉都の姿。あの風景を思う度に、これで良かったのかという疑問も同時に浮かび上がって来る。
あの時、スーシェの手を取ったことは本当に良かったのだろうか。あの場に留まるべきではなかったのだろうか。
何度も自問自答している。正直、気持ちは揺れる。しかし時間が経過していく程に、あの場に留まり続けることの無意味さも理解し始めている。
異端審問は皇太子を廃嫡する手段に過ぎなかった。つまり法主にとって、フェスタローゼが異端かどうかなんて真実どうでもよいことだったのだ。
そんな状況下で留まってもフェスタローゼに下された異端の烙印は覆らなかっただろう。
待っていた未来は、あのまま大教院に幽閉される。もしくは人知れず始末される。そんな未来だったはずだ。
それも分からずにその場に留まろうとしたフェスタローゼに対する、スーシェの苛立ちも今ならばよく分かる。
フェスタローゼはスーシェをちらりと横目で見た。
「やはり固いパンには慣れませんか」
「いえ、そんな事は」
不意に話し掛けられて、フェスタローゼは反射的に答えた。
「……でも、楽しむためではなく、必要最低限を取る食事には慣れないですわ」
「それはそうでしょうね」
あっさりと頷いてスーシェは黙り込む。
2人でいる沈黙に耐え切れなくて、フェスタローゼは無理に明るい調子で言葉を続けた。
「イデル殿は買い物に行ってみえるのよね? 町が近いということかしら?」
若干、身を乗り出すようにして外を見てみる。
幌の形にくりぬかれた外の景色に広がるのは、冬枯れにざわめく深い木立だ。
フェスタローゼの問いにスーシェは、いいえと素っ気なく首を振った。珍しく降ろしたままの黒髪がさらさらと揺れる。
「精道を通っていくので、実際の距離は関係ないです」
「便利なのね、精道って」
「そういう感覚はありませんが」
ぷつん、と会話が途切れる。
この人はこんなにも話しにくい人だったか。
軽い驚きと共に、改めてスーシェを見た。彼は怜悧な横顔をややフェスタローゼから背けて、反対方向に目を向けている。
――どうして私がこんなに気を遣わなくてはいけないのか。
釈然としないものはある。だが、黙ったままでいる気詰りさが再びフェスタローゼの口を開かせた。
「えっと……今は南都に向かっていますのよね? どういう経路で行きますの?」
煩わしそうにするのでは、と懸念が一瞬胸を過ぎったが単なる杞憂だった。彼は地図を馬車の床に広げると丁寧に説明し始める。
「今、我々がいるのはこの辺りです」
この辺り、とスーシェは玉都から南西方向に下った辺りをトンと指差す。
「当面の目標はここです。順調に行けば後2日程で到着します」
彼の指がすすっと更に南西に進んだ。使い込まれて折り目が付いた地図には、やや掠れた文字で『タスエ』と記載されている。
「タスエね。ここでまた馬を交換しますの?」
「いえ。タスエからは船で運河を下ります」
「船?」
「その方が陸路を行くより格段に速いのです。陸路だと玉都から南都は約半月かかりますが、運河を使えば5日は短縮できます」
「そんなに! 運河ってすごいのね」
「街道と並ぶ主要な交通網ですからね」
フェスタローゼが素直に目を丸くすると、スーシェの口元がようやく微かに綻んだ。
「でもなんで南都に向かいますの?」
「セレスティアン=シュヴァリエの南都支部は玉都に次ぐ規模なので。殿下を匿うには何かと都合がいいのです」
「あなた達の拠点って玉都だけじゃないのね」と言いながら、フェスタローゼは無意識の内に首筋をポリポリと掻いた。
自分のその動作で、玉都を出てから一度も風呂に入っていないことに今頃気づく。3日も風呂に入らないなんて、体調不良以外では考えられない事態だ。
待っていれば、湯あみの支度がされて自分は入るだけ。日常と受け取っていた些細なこと全てが、今や贅沢なこととなってしまった。
その現実に思い至ると同時に、3日も風呂に入っていない事が急に恥ずかしく思えて、フェスタローゼはすすっとスーシェから離れた。そしてハルツグが用意してくれた荷物の中から麻の浴布を1枚取り出す。
「確か、直ぐ近くに小川がありますわよね?」
「ええ」と頷いた彼は不審そうに首を傾げた。
「ありますが、どうかされましたか?」
「いや、ちょっとあの。体でも拭こうかと」
「分かりました。同行しましょう」
立ち上がろうとするスーシェをフェスタローゼは慌てて押し留めた。
純粋に護衛としての行動というのは充分理解している。だが、フェスタローゼの中の少女な部分が、近くに異性がいる状態で着衣を脱いで肌を晒す、ということに羞恥心を抱かせた。
「すぐそこですから! 大丈夫ですわ。何かあったら呼びますし!」
頬を染めて力説するフェスタローゼに、スーシェは「そうですか?」と呟いて、腰を降ろした。
「何かあったらすぐに呼んでくださいよ」
念押しする彼に深く頷いてみせて、フェスタローゼは馬車を降りる。馬車から見えていた景色を頼りに歩いて行くと、森の中を流れる小川は直に見つかった。振り向いて馬車との距離を確かめる。
木立の中に隠れるように停まっている馬車からすると大体、十数メートルというところか。この距離なら叫べば声は届くはずだ。
――寒いし、手早く済ませてしまおう。
フェスタローゼは小川に浴布を浸すと、意を決して外套を脱ぎ、上半身だけを露わにした。寒空の鈍い光の下で晒された肌は、上流階級の女性特有の滑らかな光を放つ、いわば労働を知らない優雅な肌である。
彼女は寒さをこらえて手早く体を拭く。首の下やうなじ、脇の下などを拭いてしまうと気分はかなりサッパリした。
元通りに服を着込んで、今度は先程よりもゆったりとした気分で髪を
しっかりと時間をかけて丁寧に髪を梳かしてから、フェスタローゼは悪戦苦闘しつつ浴布を絞った。
今まで雑巾1つ絞ったことのない身分である。やってはみたものの、どうにもずっしりと重く、絞りきれていない感じがする。それでも、とりあえずは滴る水もない状態にまで漕ぎ着けて、ようやく立ち上がった。
――布1枚満足に絞れないなんて。この先やって行くことができるのかしら。
先行きの不安を吐息混じりに宙に放りつつ、彼女は馬車の方を見た。そして、おやと目を瞬かせる。
馬車の後方。離れた所に彫像がいつの間にかポツンと立っていた。
急に吹き寄せた風に、木立からごぉぉと咆哮がうねり上がる。枝をくねらせてざわざわ揺れる木々の向こうで彫像は馬車の方を向いて厳然と立ち尽くしている。
――何だろう? さっきはあんな物なかったわ。しかもこんな森の中で彫像だなんて。
確かめてみよう。
そう思い立って、フェスタローゼはその彫像に向かって歩き始めた。ざり、ざりと落ち葉を踏みながら向かっていくと果たして、彫像の顔の向きが変わり、フェスタローゼに強い視線が注がれる。
その動作でフェスタローゼはようやく、佇んでいたのは生身の人間だ、と認識して足を止めた。
ぎりぎり顔が見えそうな距離で向き合った相手は、外套のフードを目深に被った男だった。顔はフードの影に隠れてよく見えない。ただ、肩にこぼれる一筋の銀髪が眩く目についた。何故こんな所に人が?、と思うのと同時に男の持つどこか近寄り難い雰囲気を感じる。
「……あの?」
「お前」
ためらいがちに掛けた声に反応した男が一歩、踏み出す。その足元に突如ザンッと光の刃が突き立った。何が、と戸惑うフェスタローゼの腕をスーシェが強引に引き寄せて自らの背後にかばう。
「それ以上、近づくな!」
刀の柄に手をかけたスーシェが深く身構えた。
「お前……エフィオンだな」
「え?」
そっと男を覗いてみる。男はただそこに佇んでいる。それだけなのに得体の知れない不気味さが威圧感となってこちらにひしひしと伝わって来る。フェスタローゼは思わず外套の胸辺りをぎゅうと握りしめた。
その瞬間、横合いからの鋭い剣閃がほとばしる。男がその剣撃を難なく素手でいなすと、突如として姿を現したイデルが刀を構え直し、スーシェと男との間に割って入った。
「イデルか」
男がようやく口を開くと、イデルは片膝を地面に付き、その足元が鮮血で染まる。
――一体いつの間に?!
フェスタローゼは悲鳴を呑み込んで口元を覆った。彼女の前に立つスーシェの背中にも動揺が走る。
「かばわなければ避けられたものを」
「この……悪魔め……!」
目深にかぶったフードをくいっと上げると、男の冷たい光を宿した碧眼がイデルにはたと向けられた。
「イデル!」
「動くな、スーシェ!!」
イデルの一喝が錯綜したその刹那。男の手が僅かに動き、見えない斬撃が周囲の空気を切り裂いた。
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