第16話 深き森 闇の果て
何が起きたのか。
フェスタローゼには全く分からなかった。
男の手が僅かに動く。空気を切り裂く鋭利な音が耳朶を打ち、スーシェから鮮血が飛び散った。抜刀もできぬままにその場に崩れ落ちる彼をフェスタローゼは呆然と見つめる。
未だ空手のままで、2人のエフィオンを屠った男の目が彼女を捉えた。
スーシェに駆け寄らなければ、傷の程度を確かめねば。
心はそう叫ぶのに、男の目線に縫い取られてその場から動くことができない。
「玉都で噂は聞いたがな。セレスティアン=シュヴァリエが皇太子を連れて逃げたと」
男が1歩、踏み出した。
「まさかお前ら帝国エフィオンが一介の姫にここまで肩入れするとは」
フェスタローゼに向けられている男の目がすぅと細くなった。
「早く! 殿下を連れて逃げろ!!」
男の頭上で光が爆発的に渦巻く。渦巻いた光は細かな鎖となって男に降り注ぎ、その体をぎっちりと拘束した。立ち上がったイデルが光の鎖を渾身の力で束ねる。
「しかし……」
「早く行け!!」
逡巡するスーシェにイデルの容赦ない檄が飛んだ。その合間にもイデルの体の下にボタッボタッと血溜まりが広がって行く。
スーシェは2、3歩、未練がましく後退りしてから、思いを断ち切るごとくに身を翻して、呆然と立ち尽くすフェスタローゼの腕を引っ張った。
スーシェに引っ張られて走り出す。ざわめく木立が激しく上下して視界の端へと流れて行く。直ぐに喉は干上がり、掠れた吐息すら洩れない。千切れそうに乱打する心臓の音だけが耳の中でこだまする。
遠ざかって行く背後から、獣の叫びによく似た雄叫びが微かに上がった。
たまらず振り返った背後。遥か視界の果てで、砕け散る光の軌跡と綾となって降り注ぐ光の束が鬱蒼とした木々の間から垣間見えた。
「スーシェ! イデル殿が!!」
スーシェの返事はない。代わりにフェスタローゼの腕を掴む手により一層の力がこもった。彼の体も至る所が切り裂かれて、無残な傷が多数パックリと口を晒している。それでもスーシェは歯を食いしばり、必死に前を向いている。
フェスタローゼは洩れそうになる嗚咽を奥歯でぎちりと噛み殺して、苦しい息の間から精一杯の空気を吸い込んだ。うっすらと浮かんだ涙を乱暴に拭って、前を見たその時。
スーシェが掴んでいた腕を思いっきり前方に振り切った。フェスタローゼの体は勢いよく前方に投げ出されて、ざりり!と地面に衝突する。ほぼ同時にフェスタローゼがいた辺りの空間を鋭い斬撃が切り裂いた。
慌てて半身を捩って後ろを見上げたフェスタローゼの前で、スーシェが鞘を払って男と相対する。
「黄金の芽ならば、――殺す」
「殿下、お逃げください!」
男の言葉に被せてスーシェが叫ぶ。
「殿下は、リスデシャイル様はあなたこそ皇帝の器と……! あなたはこんな所で終わってはいけない!」
スーシェは切っ先をはたと男に突きつけたまま、背後に向かって渾身の一言を放った。
「逃げろ、そして生きろっ!!」
フェスタローゼの拳にぎゅうと力が籠る。彼女はダンッと力強く地面に手の平を打ちつけて立ち上がった。
思いはある。でも言う間はない。
地面を蹴り上げて走り出す。髪を乱し、唾を呑み込んで。ともすると笑い出しそうな膝を叱りつけて、フェスタローゼは目の前に広がる深い木立の織り成す、暗い闇へと飛び込んで行った。
背後のフェスタローゼの足音が遠ざかって行く。スーシェは男をねめつけて、力強く一喝した。
「ここから先は通さない!」
力強く踏み込んで、袈裟懸けに斬りつける。男は素早く体を捻ってがら空きのスーシェの腹に強烈な手刀を叩きこんだ。
凄まじい衝撃波が脇腹を抉るのを寸ででよけて、スーシェは勢いのままに体を一回転させて横様に払う。
神速の一刀も男には届かない。男は素早く背後に飛び退りながら腕を振るって、斬撃を放った。弧を描いて飛んでくるそれを一刀の下に打ち落とし、返す刀で男に斬りかかる。男はそれを右手で受けて、その隙に左手を深く後ろに引き下げた。
「……しまっ……!!」
踏み込み過ぎた。それに気付いた時は既に、男の左拳がスーシェの腹にめり込んでいた。あばらの折れる陰惨な音と共にスーシェの体は吹き飛んで、地面の上を激しく転がる。
「かはっ……!」
咳き込む口から血混じりの唾が飛ぶ。腹を押えて蹲る彼の右手を、男の足が容赦なく踏み抜いた。
「ぐぁっ!!」
転がるスーシェの様にこれ以上の戦闘は無用とばかりに、男はフェスタローゼの走り去った方向へ進んで行こうとする。その足に這いつくばったままのスーシェが取りついた。
「うおぉぉぉぉ!!」
凄まじい咆哮がスーシェの口から洩れる。途端に辺りの空気が一変した。
細かく鳴動する空気がスーシェに寄り集まり、圧縮されていく。手を振りほどこうとする男の抵抗に必死に耐えながら、極限まで練り上げられた精道が臨界を迎えた。
抑えられた精道は鉄砲水のごとき苛烈さで激しい奔流となり、周囲へと広がって行く。男は辺りをぐるっと見回して小さく舌打ちした。
「精道の痕跡を消し去ったか」
スーシェの刀を男が拾い上げる。
彼は柄に入ったスルンダール家の紋章を眇めて、苦悶の表情で転がるスーシェを見降ろした。
「お前、スルンダールの人間か」
スーシェは肩で息をしながら相手を睨み上げる。男は、まぁいい、と抑揚なく呟いた。
「どこの誰であろうと帝国の戦力は削る。それだけだ」
男が刀を振り上げる。
その刹那、青白い光が走り、男の振り上げた刀に勢いよく巻き付いた。
「おめぇさぁ」
およそ緊迫感のない雑駁な声が響く。
「流石に好き勝手やり過ぎじゃね? 大人しく物見遊山ならちぃーっとは見逃してやろうかなぁって思ってたのに。なぁ、シェラスタンさんよ」
シェラスタンが振り向く。彫像のように無表情だったその顔に初めて人間らしい感情が過ぎった。彼は嫌そうに顔を顰めて一言吐き捨てる。
「リスタルテか」
「おぅよ」
セレスティアン=シュヴァリエ南都守備隊々長・リスタルテは居丈高に言い放って、好戦的にぐいっと顎を上げた。
「ウチの団員をボロ雑巾みてぇに精道に押し込むのやめてくれよな。引っ張り出すのに苦労したぜ。なぁ?」
なぁ?と振られたラムダの背中には、気を失ったイデルがぐったりとして背負われている。
「それに、おめぇの足元のそいつも期待の新人なんだから。しごくのならもうちっと丁重に扱ってくれ」
「……相も変わらずぺらぺらと」
「相も変わらず仏頂面で」
シェラスタンとリスタルテの視線が衝突する。先に目を逸らしたのはシェラスタンの方だった。
「で、どうする? やるってんなら相手になるぜ」
青い筋がシェラスタンとリスタルテをぐるりと取り囲んで走る。明滅しながら2人を囲んだ結界を見やって、シェラスタンは諦めの吐息をついた。
「だからお前は嫌いなんだ」
「最上の褒め言葉だな」
「解け。お前とやり合う気はない」
「じゃあ、大人しく帰るこったな」
リスタルテの目が険をはらみ、へらへらとした笑いに気迫がこもる。表情は何一つ変わっていない。ただ彼を取り巻く雰囲気が一瞬にして、強固な殺気を孕んだ不穏当なものに変わった。
「くれぐれも皇太子を探そうなんてするなよ。これ以上うろつくなら相応の覚悟を持て」
シェラスタンの物言わぬ瞳がリスタルテを捉える。数瞬の後に、彼は僅かに肩を竦めた。2人を取り囲んでいた結界が瞬きだけを残して消え失せる。それとほぼ同時にシェラスタンの姿も地面に溶けるようにして消え去った。
「ったく。クソが」と毒づいて、リスタルテは背後のラムダを見た。
「よし!やるかってなったらどうしようかと思ったよ~。良かった逃げてくれて」
「無茶するなぁ。果し合いでも始めるかと冷や冷やしましたよ。さっきのあれでしょ? 時間が経過するごとに収縮して来る結界でしょ?」
「あんぐらいしないと、あいつは撃退できんよ。もぉ、面倒な奴だよな」
そう言いながらリスタルテはスーシェの傍らに屈み込み、「おい、死んだか!」と肩を揺さぶる。
「死んだら返事しないでしょうに。……気を失ってますね」
「まぁ、しゃあねぇか。能力は高くても経験値がねぇもんな」
「どうしましょう?」
「そうさなぁ」
リスタルテは人差し指で顎を撫でながら、少しの間思案する。しかし、すぐにパンっと手を打つと、てきぱきと指示を飛ばし始めた。
「もうじきランシェリーナが来るだろうから、この2人はあいつに任せよう。ラムダ、お前はすぐに皇太子を追え。精道の痕跡は消えたが、17才のしかも歩き慣れない姫君だ。運が良ければまだその辺にいるかもしれん」
「承知しました」
ラムダは頷くが早く、身を翻して深い木立に消えていく。1人残ったリスタルテは難しい顔で腕を組み、ラムダが消えて行った森の奥に横たわる闇をじっと睨みつけた。
◆◇◆
帝紀466年
皇太子フェスタローゼは異端審問の場からエフィオンと共に逃亡。
皇太子の廃嫡を望む声に対して、皇帝が明確な発言を避けたために事態は混迷を深めることになる。
20年の平穏を破り、巨大帝国は静かに揺るぎ始めていた。
第1部完
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