第10話 燃え立つ気概
「ようこそおいで下さいました。皇太子殿下」
あくまで慇懃に頭を下げた法主だが、顔には勝利を確信した者の傲慢な優越が浮かんでいた。
彼は立ち上がりかけたフェスタローゼを、「あ、いや。そのまま」と押しとどめる。
そしてトストスと巨体を揺らしてやって来ると、彼女の座っているソファにためらいなくどっかりと腰を降ろした。彼の重量を受け止めざるを得なくなったソファが、ぎぃと悲痛な抗議をする。
――ちょっと……近い。
フェスタローゼは法主の近過ぎる距離感に思わず身じろぎをした。
膝を突き合わせるどころか太股を擦り合わせる状態に、言い知れぬ困惑と嫌悪を感じる。しかも法主はこれでもかと足を広げて座って来たので、どうしてもフェスタローゼの太股辺りと法主のそれとが密着してしまう。
きまりの悪さに、位置をずらそうと腰を浮かした彼女の腕を法主の分厚い手が引っ張った。
「まぁまぁ、殿下。今、こうして膝を突き合わせて話し合うのはお互いにとって有益なことですぞ」
突き合わせているのは膝ではなく太股なのでは、と返したくなったが、フェスタローゼは曖昧に「はぁ……」と答えるにとどめた。
ふと法主の背後に目をやると、ハルツグが眉を吊り上げて今にも飛びつきそうな憤怒の表情となっている。そんな彼女に、こらえて、という気持ちを込めてそっと頷く。ハルツグは眉をいからせつつもぐっと唇を噛み締めた。
「お互いにとって有益とはどういうことでしょう」
「そうですなぁ」
法主は掴んでいたフェスタローゼの手を離し、せり出した太鼓腹の上でぽっちゃりとした両手を組んだ。
組んだ指のほとんどに大振りな宝石がついた指輪がきらめいている。ここまで指輪を付けている人は女性でも中々いないだろう。
この巨体だけで十二分に目立つのに、更に自らを飾り立てようという熱意は何なのか。正直、理解しかねる。
「殿下の心がけ次第では、身の潔白を証明するいい機会になると私は考えております」
「と、言いますと?」
「つまり」法主は太い人差し指をぴっと立てて、気障な動作で左右に振る。
「此度、
フェスタローゼは熱意を込めて一心に首肯した。
「しかし、殿下の元令侍がベルチアピート=シドウ大教院にて淀神アマオトスに助けを求めて絶命した事実は無視できるものではありません。元とはいえ令侍であったことに変わりはないわけですからな。当然、世間の目は皇太子殿下に向くわけです」
「あらぁ! そうなるように仕向けたどなたかの意図を感じますが」
背後で上がったハルツグの痛烈な嫌味を法主は一切無視する。
彼はフェスタローゼの方により一層身を寄せて馴れ馴れしく笑いかけた。緩んだ口元から見える歯がいかにも獰猛に見えて、フェスタローゼは彼から目を逸らす。
「異端審問などやり過ぎと思われているかもしれません。しかし、淀神崇拝の疑義を受けたままでいるよりはいっそ、疑惑を晴らした方がいいに決まっております。もしや、まさか、という視線の中で生きていく辛さは殿下にも想像がつくでしょう?」
「えぇ……それは、まぁ」
「でしたら異端審問を受けて当教会、つまりは法主たる私の
「それはそうでしょうけど」
フェスタローゼは口ごもって目の前の法主の丸っこい瞳を見つめた。法主の目は黒々とつぶらで、一見するだけならば思慮に富んだ慈愛の瞳ともいえるかもしれない。だがその奥でとぐろを巻いているのは陰険な狡猾さ。全てを平らげようとするおぞましいまでの貪欲さだ。
この人物が、権謀術数を巡らして捕らえた皇太子の潔白を、単なる善意から証明しようなどと思うはずがない。そこには必ず対価と利益が存在しているはずだ。
「どうでしょう、殿下。ここは1つ、この私めに身を託してみては」
「身を託す?」
首を傾げたフェスタローゼに法主は苦笑いで首を振る。呑み込みの悪い弟子に教え諭す教師のような身振りだった。
「殿下もそういうことが分かる年齢でしょう。中参丈殿は教えて下さらなかったのですか?」
「ニーザが? 何を?」
フェスタローゼは困惑を深めて彼を見た。そんな彼女の様子に法主は舌なめずりでもしそうな風情でずい、と身を乗り出して来る。彼の太い鼻息が頬にかかるのとほぼ同時に、フェスタローゼの細い腰を法主の手が引き寄せた。
「身を託すといえばただ1つでしょう。殿下御自身の体1つで話がつくのです。私も鬼ではありません。1回。1回、床を共にしていただければ御身の潔白は保証いたしましょう」
腰を執拗に撫で回す彼の手に、フェスタローゼは全てを察する。要は法主は取引を持ちかけている。体を捧げれば無罪放免しよう、と。
フェスタローゼの脳裏に追いすがろうとしたエシュルバルドが、太暁宮をバックに毅然と佇んだニーザとアンリエットが。次々と立ち現われて消えていく。1度の屈辱で人生を取り戻せる。己の命も。皇太子の地位も。全てが。
フェスタローゼはごくり、と唾を呑み込んだ。
「わ……私……私は……」
彼女の口から漏れるかそけき声を受けて、法主の顔が下卑た笑いに崩れる。
その時。法主の頭にずぼっと素焼きの壺がかぶせられ、ハルツグの声が一際高く響き渡った。
「お話になりませんわね」
やれやれと彼女は手をはたき、壺を取ろうともがく法主の傍らからフェスタローゼを助け出した。
「なりません」
一言、厳しく言い渡して、ハルツグはきゅとフェスタローゼの鼻先をつまんだ。指先にこもった愛情に図らずも涙が小さくまなじりに滲む。
だいたいですね、と彼女は腕を組んで、壺と格闘する法主に侮蔑の一瞥をくれた。
「女性に対してこのような申し出をする輩が律儀に約束を守るとお思い? さしずめ殿下の弱みに付け込んでいい思いをしようという腹ですよ! 本当に、もう!」
「ハルツグ……」
「殿下はもっとご自身を大事にしてくださいまし」
ハルツグはフェスタローゼを抱き寄せた。
そして、その華奢な背中をそっと撫でながら、「だってこれが私を差し出せという申し出ならば、殿下は断固拒否なさったでしょう?」
「それはもちろん。そんなひどいこと」
「でしたら殿下御自身であっても同じ事です」
「……分かったわ」
フェスタローゼはハルツグの体に頬を寄せて素直に頷いた。
「くっそ! ふざけおって、令侍風情がっ!!」
壺の割れる破壊的な音が居室に響く。ハルツグはフェスタローゼをさっと背中にかばって、立ち上がった法主と睨み合った。
「この、この……私に何たる狼藉!!」
「あなたの方こそ、皇太子殿下に対して何と恥知らずな振る舞いを」
凛として譲らないハルツグに法主はぎりぎりと激しく歯噛みする。見事な禿頭のてっぺんから湯気が出そうな怒り様が、下衆な楽しみを直前で台無しにされたせいかと思うと、彼の果てしない色欲にうすら寒いものを感じる。
「お前の振る舞いが主を追いこむのも分からんのか?!」
「あら、大教院に隔離した程度で追いこんだつもりですのね。お気楽なこと」
「貴様……!!」
「法主聖下」
ハルツグが1歩前に出る。
「思惑通りに全てが動くとでも? あなたの中では他に類を見ない強大な存在なのでしょうけど、この世界の中で教団がどれ程のものか。あなたは思い知ることになりますわよ」
「なんと、不遜な……」
喘ぐようにしか返せない法主にハルツグはにっこりと微笑んだ。底知れない深淵が垣間見える得体の知れない迫力に法主は息を呑み、じり、と後退する。彼にできることは慌てて身を翻し、戸口から精一杯の罵声を駄目押しに投げ込むことだけだった。
「このような事をして、ただで済むと思うな!?」
「それは結構なことですわね」
ハルツグはぐい、と頭を後ろに反らして思いっきり声を張り上げた。
「一昨日来やがれ、このすっとこどっこい!!」
言われた法主の目が正しく点になる。世慣れた法主といえども、人生のどこにおいてもこんな罵声を浴びた瞬間はあるまい。彼は目も口も大仰に開いて、むちむちの両手をわなわなと震わせている。
ハルツグは固まった法主の後ろであたふたとしている教院衛士に向かって、短く指示を飛ばした。
「早く連れ出してくださいな」
法主、さ、と恭しく促されて、法主はようやく動き始めた。余りの衝撃に考えも足取りも追いつかないままに、彼は教院衛士に支えられて退室していった。
ぱたん、と扉が閉まる。
ハルツグは勇ましく、ふんと鼻を鳴らしてみせてから床に散らばった壺の破片を困ったように見降ろした。
「もう。まさか割るなんて。取れないようにもう少し口の小さい物にすればよかったかしら」
「……本当に、あなたって方は」
フェスタローゼは思わず、ぷ、と吹き出した。我慢できなくて、あははと笑い出してしまう。
「殿下、そんなに笑わなくても」
「だって。壺かぶせるし、法主に向かってあの口の聞きよう。でも、すっとこどっこいって何ですの?」
「それはまぁ……ええ。知らなくてもいいことですわ。後、ニーザ様には是非御内密に」
「分かったわ」
頷きつつも、まだ笑いの止まらないフェスタローゼの様子に、ハルツグは柔らかく微笑んだ。
「殿下。大丈夫ですわよ。まだ何も終わってはおりません 希望を持ってしっかりと立ち向かいましょう」
フェスタローゼは笑いを納めた。真剣な表情でハルツグを見返す。彼女は励ますように1回、大きくしっかりと首を縦に振った。
「そうね」
窓の外に目をやる。
カタカタと小刻みに震える窓の向こう。遥かに霞む視界の果てに、小高い丘の上に建つ皇宮群がうるんで見える。
フェスタローゼは体ごと窓の方を向いて、うるむ皇宮群を睨み付けた。
「私、絶対に負けませんわ。まだ何事も成しえていませんもの」
ハルツグを振り返る。穏やかに、しかし確固とした表情でハルツグは頷き返した。
フェスタローゼは急に照れ臭くなり、顔を伏せて再び窓の外に目を転じた。
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