第9話 暗き虎口
皇帝が法主からの異端審問の要請を受諾して数日。皇太子の身柄はフォーン=ロ―ディン真教会に引き渡されることとなった。
フェスタローゼは凛と胸を張って太暁宮の玄関に立った。振り向かずに出て行く彼女の後ろで、すすり泣く令侍の嗚咽がどこからか漏れ聞こえてくる。
外に向かって開け放たれた扉から見える空は快晴だ。フェスタローゼはしばし足を止めて、晴れやかな空を見つめた。
刷毛でさっと描かれたようにたなびく薄雲が所々に浮かんだ空からは、ごぉと巻く風の音が微かにする。今日も寒くなりそうだ。
視線を正面に戻す。
澄み切った空と紅葉した木々の典雅なコントラストの中に一点だけぼとりと黒い染みがある。
玄関前に横付けされているのは、巡る二重円環の紋章が彫られた真っ黒な厳つい馬車。繋がれた馬までもが艶々と光る見事な黒馬という徹底ぶり。
通常より高い位置についている小窓はどれも鉄格子が重々しくはめられ、より一層の威圧感となっている。この馬車が街を行く時、人々は恐れて我先に道を開け、真っ黒い辻風となって去るその姿を畏怖の念を以て見送る。
帝国とフォーン=ローディン真教会の暗部を象徴する異端審問官は、出て来た皇太子を一瞥しただけだった。せめて周りの者と最期の別れをという配慮なのかは分からない。
異端審問受理の一報が入った時、ジョーディはまだ道はあると言っていた。あれから数日が経つも彼からの連絡は何もなく、スルンダール上級伯による皇帝説得も功をなさなかった。
そして今日。太暁宮にやって来たのは、異端審問官を乗せた呪われし馬車だ。
この先のことに恐怖がないと言えば嘘になる。それでもフェスタローゼには、異端審問官の無表情な目とかち合おうとも、逸らさない程度にはまだ気概が残っていた。
「殿下」
ニーザが進み出て来てフェスタローゼの前に跪く。彼女は体の両脇に垂らしたままのフェスタローゼの手を取ると自らの額に押し頂き、目を閉じた。
固く閉じられた両の瞼は彼女の内心を表わして細かく神経質に震えていたが、目を開いた彼女の目に涙はなかった。
立ち上がったニーザは名残惜しそうにフェスタローゼの頬に片手を添える。フェスタローゼは彼女の手にそっと自らの手を重ねて気丈に微笑んだ。
「ニーザ。行って参ります。留守を頼んだわよ」
「ええ。お早いお帰りをお待ち申しております」
フェスタローゼとニーザのやり取りに呼応して異端審問官がわずかに身じろぎをし、足の重心を入れ替える。それはバツの悪さを隠しているようでもあり、無駄なやり取りを、と嘲っているようでもあった。
ニーザはフェスタローゼの頬に手を添えたまま、脇に控えるハルツグに「頼みましたわよ。ハルツグ殿」と言い添えた。
言葉の中にこもった切実な訴えにハルツグはただ黙って目礼を返す。
退いたニーザに1つ頷いてみせて踏み出したフェスタローゼの前に今度はエシュルバルドが立ち塞がった。
彼は唇を噛み締めて、やるせない怒りに見開いた目のままに、フェスタローゼにがばと抱きついた。
人目も憚らぬあどけなさに思わず笑みがこぼれる。フェスタローゼはしっかりと彼を抱き留め、その背中をトントンと優しくたたく。
「大丈夫、大丈夫よ」
「……きっと、必ずや。お救いいたします」
「ふふ。ありがとう」
「絶対に」
ラハルトが軽く咳払いをして、「さ、エシュルバルド」と促した。エシュルバルドは嫌々、フェスタローゼを離して道を開ける。
「ラハルト様。エシュルバルドをお願い致します」
「承知」
フェスタローゼの願いに老皇族は重々しく頷いた。
「顔を上げて参られよ。恥ずべきことは一つもない」
異端審問官を前に堂々と言ってのける胆力に胸のすく思いがして、フェスタローゼは笑顔と共に「はい」と返す。
「ではそろそろ」
頃合いを見て、異端審問官が進み出て来る。
彼の手に握られているのは法主の
「フォーン帝国皇太子、アカトキ=スマルホトゥーリ=フェス=タ=ローゼ。
フェスタローゼは激しく波打つ鼓動を押し隠して、正面から異端審問官をじっと見つめた。
「承知致しました」
ぎぎぃと軋む扉が開けられて、陰惨な闇を抱いた護送車の口が開く。
異端審問官に先導されて歩んでいくフェスタローゼにさり気なく付いて行こうとしたラムダを教院衛士が遮った。ち、と露骨に舌打ちした彼をスーシェがやんわりと諌める。
ラハルトはともすると追いすがりそうなエシュルバルドの両肩を押えて、エシュルバルドはフェスタローゼの背中を一心に見つめる。太暁宮の玄関前に立ちはだかったニーザは両手をお腹の所で組み、毅然とした表情で見送っている。ニ―ザのやや後ろには彼女を援護するかのようにどっしりと佇むアンリエットが見えた。
護送車への入り口に手をかけたフェスタローゼは、見送るこれらの人々をさっと見渡した。そして昂然と顔を上げると、虎口のごとき護送車の扉の中へと姿を消して行った。
◆◇◆
皇宮を出た護送車は道行く人に恐怖を振りまきながら、イルソルス=アマワタル大教院へと辿り着いた。ローディン教の主神に捧げられたこの大教院は複数の尖塔に囲まれた荘厳なファサードを誇る。いつもならば天を衝く尖塔を捉えつつ正門から入って行くのが常だが、護送車がつけたのは通用門の内でも取り分け薄暗いものだった。
埃っぽい通路を抜けて、延々と続く階段を登り、案内されたのは想像していた牢獄とは違い、質素ながらも広々とした居室であった。
藁敷きの牢獄を覚悟して来たフェスタローゼは、意表を突かれて、ぽかんとしたまま手近にあったソファに腰を降ろした。
「一応、掃除はされているようですわ」
ハルツグは円卓の表面を、つーと人差し指でなぞって指先を確認している。帯同できるのは1人までと決められている側用人に真っ先に志願してくれたのが彼女だ。
「ちょっと一息つきたいですわね」と言いながら、お茶道具を探し始めたハルツグの姿をいつも以上に頼もしく感じつつ、ソファに背中を預けて、ぐるりと部屋の中を見回す。
初めは広々としていると感じたが、すぐに最低限の調度品しかないためにただ殺風景なだけだと、思い直した。壁紙がなく、石壁剥きだしなことも殺風景さに拍車をかけている。装飾品らしいものは花瓶1つ、壺1つない。生活に困らない最低限の物が一通りあるだけの部屋。
そんな室内をぽつねんと眺めていると、今更に虜囚となった実感が心の底から湧き出て来る。それと同時に、皇宮を出る時はつとめて考えないようにしていたこれからへの不安が真夏の入道雲のごとく、むくむくと頭をもたげて来た。
「ねぇ、ハルツグ。あの」
ハルツグが振り返るのに覆いかぶさるようにして、コンコンとノックの音がする。2人は怪訝に思い顔を見合わせた。一体、誰が来たのか。
戸惑った表情のままに扉を開けに行ったハルツグの口から、「……まぁ」と押し殺した声が洩れた。警戒心が存分に表れた言い方が気になって振り返る。
「……ファルスフィールド法主」
仮面のごとく無表情になったハルツグを脇に追いやり、部屋の中へと入って来た彼にフェスタローゼは厳しい視線を向けた。
彼女の視線をどこ吹く風と流し、法主は慇懃に身を屈める。
「ようこそおいで下さいました。皇太子殿下」
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