第8話 凪の時 寄せる風

 パチッと火の粉が爆ぜる。

 フェスタローゼは熱除け扇子で口元を覆い隠し、身を乗り出した。赤々と燃える暖炉の炎に引けを取らない熱戦が目前で静かに繰り広げられている。


 太暁宮の一室。暖炉の前に据えられた卓に乗るのは盤上ゲームのポステアだ。ポステアの盤面を挟んで相対するのはハルツグとエシュルバルド。

 腕を組んだエシュルバルドはハルツグの一手に攻めあぐねて、長考に入っていた。

「このエンフィリア精道士をこう……いや? こっちか?」

「どちらが来ても面白いですわね。いい局面ですわ」

「えぇ……。また惑わすようなことを」

 ぶつぶつと独り言を洩らすエシュルバルドを前にハルツグは余裕の笑みである。フェスタローゼは暖炉の強すぎる熱気を、熱除け扇子で遮りながらエシュルバルドの盤面を指差した。

「このシュヴァリエ騎士をここに持って来るのもいいのじゃなくて?」

「いや、お姉様。口出しは無用です」

「あら。失礼」 

 きっぱりと言い切るエシュルバルドの声はこの頃、掠れ気味だ。高く澄んだ声に愛らしさを感じていた身としては淋しい反面、大人になって行く従弟を頼もしく思う気持ちもある。

「では、私は黙っていますわ」

「そのように」

 しかめっ面で真剣に答える様が可笑しくて、フェスタローゼは少し離れた所から熱戦を見守っているニーザと目を合わせて微笑みあった。


 サティナの死去から10日余りが経つ。過ぎる日々は一見、穏やかに凪いだ海の如く平穏である。

 スルンダール上級伯の訪問後、父に釈明のための会見を再度申し入れたが伝えられたのはやはり、「それには及ばない」という、以前と同じ言葉だった。

 妙によそよそしく感じる返答に不安にならないと言えば嘘になる。かと言って現時点において出来ることは多くない。


「こう……かな」

 エシュルバルドがようやく駒を進めた。長考から抜け出た彼は満足そうに自らの一手を眺めて首肯する。

「殿下、よろしいのですね?」

「あぁ。ここにする」

「承知致しました」

 きらりとハルツグの眼底が光を放つ。彼女はその光のままに、さっと駒をエシュルバルドの“ エデルミーラ皇帝 ”の前にトンと置くと高らかに宣言した。

「ポステア!」

「あぁ――!!」

 一拍置いてエシュルバルドの悲鳴が響き渡る。彼は両手で頭を抱えて、勝負のついた盤面を食いつかんばかりに見つめた。ハルツグは勝者の寛容さで以て、婉然と微笑む。

「え? だって……。こう来るかぁ!!」

「中々、面白い一手でしたけど詰めが甘かったですわね」

 余裕しゃくしゃくの彼女の言葉が心底悔しかったのか、エシュルバルドはしきりに首をかしげながら、「いや……ここでエンフィリア精道士を右に……あぁっ、でもそうすると」と1人、回想に入ってしまった。


「本当に強いわね、ハルツグは」

「こればかりは年の功ですわ」

「あら! そんなこと言ったらこの場では私が一番強くないといけないですわね」

 そう言って、いたずらっ子みたいにクスクス笑うニーザは、実は盤上ゲーム全般が滅法苦手だ。幼い頃のフェスタローゼにすら負けた位に弱い。

「年の功ではないですよ。どれ程、無慈悲になれるかです」

 

 珍しくむくれたままのエシュルバルドに熱除け扇子で風を送ってやる。鮮やかなエメラルドグリーンの前髪が、フェスタローゼの起こす風に巻かれて楽しげにひらひらと舞った。

「エシュルバルド、熱くならないの。勝敗がついたら禍根は流す。それがポステアの流儀ですわよ」

「分かっております」

 むぅ、とむくれたままの彼に微笑みかけて、フェスタローゼはちらりと扉を見た。本日のささやかなポステア会に来るはずのメンバーが1人、未だに来ないのだ。

 しばらく待っていたものの一向に来る気配がないので、先にハルツグ対エシュルバルドで始めてしまった。だが、2人の対戦が終わってもまだ来ていない。


「ジョーディ殿、遅いですわねぇ。あの方が約束の時間に遅れるなんて珍しいこと」

 そう呟くと、ニーザが同意して首を傾げた。

「そうですわね。いつもきっちりお見えになるのに」

「約束の時間から半時は過ぎてますわね」

「欠席の知らせが来ていないならば、その内見えるでしょう」

 おざなりに言って、エシュルバルドは待ちきれないとばかりに駒の配置を元に戻し始める。

「それよりも、次はお姉様。いかがですか?」

「そうね、やろうかしら」

「さぁ、早く早く」

「手加減致しませんわよ」と脅しつけて、つんと顎を上げて見せた。

「望むところです」

 不敵に笑うエシュルバルドと相対するために、熱除け扇子をカタンと卓に置く。エシュルバルドの向かいに座っていたハルツグが、場所を変わろうと立ち上がったのとほぼ同時に、扉をノックする硬質な音が響いた。


「あら、見えたのかしら?」

 どうぞ、というより僅かに早く扉が開く。扉を開いたのはジョーディ本人だった。彼の肩越しに、取次を反故にされた令侍の驚いた顔が見える。

 

――最近はこんなことばかりだわ。


 呑気にそんな事を思うフェスタローゼにジョーディが妙に沈んだ眼差しを向けて来る。朗らかが標準仕様の彼にしては至極珍しい。

 奇異に感じてよくよくその表情を注視してみると、蒼白といかないまでもいつもよりやや青ざめているのに気が付いた。


 遅かったじゃないの。

 言いかけた言葉と共に笑顔が口元に張り付く。

「ジョーディ殿! 待ちかねたので先に始めていましたよ」と言ったエシュルバルドの言葉にも、只ならぬ雰囲気の彼を訝しむ向きが潜んでいた。

「どうなさいましたの?」と、近付こうとしたニーザに、ジョーディは簡潔に告げた。


「皇太子殿下への異端審問が、陛下に受理されました」

 

 ひゅ、と息を吸う音がした。恐らくはエシュルバルドだ。

 ニーザが声にならない悲鳴を上げて口を覆う。中腰になっていたハルツグはすっくと身を起こして正面からジョーディに向き合う。


 三者三様の反応を別世界での出来事のように眺めつつ、フェスタローゼは卓に置いたばかりの熱除け扇子を無意識の内に手に取った。

 向こうが見える程に薄いのに破れにくい。相当に丈夫な紙で作られている扇子で自らに風を送る。

「……意味が……分からないわ」

「お姉様」

 何故。

 こぼれた言葉にすら理解が追い付かない。寄せる熱波が頬を撫でる感触さえ、現実のものであるか分からなくなって来る。


 異端審問。誰が? 何で? 何のため?


「誰が異端審問なんて愚かなことを……!」と真っ先に怒りの声を上げたのはハルツグだ。

「ファルスフィールド法主自らと聞いております」

「法主自ら?」

「でも何故、私が異端審問に?」

「サティナ殿の断末魔のせいでしょう。アマオトス神に助けを求めたとかいう」

「サティナ殿の話は私も聞き及んでおります。しかし、それが何故、お姉様に繋がるのですか」

「サティナ殿がどこで淀神てんしん崇拝に染まったかということです。法主の主張としては、皇太子殿下の元で働いていた時ではないか、と」

 エシュルバルドの詰問に、答えるジョーディの口調はあくまで淡々としている。


「皇太子殿下は、紫翠国の和佐王子と懇意にしていた。紫翠国の国教は淀神崇拝の天雲信徒団である。皇太子は和佐王子の影響で淀神崇拝に傾倒し、令侍のサティナもその信仰に染まった。 それが法主の言い分です」

「そんな……状況証拠ですらない、ほとんど言い掛かりですわ」

 喘ぐようにニーザが呟く。彼女の声を掻き消さんばかりに叫んだのはエシュルバルドだ。

「それより、どうして陛下は受理されたのですか。陛下さえ受理しなければ付き返せたものを」

 悲壮な叫びに対して、ジョーディは力なく首を振った。

「陛下の真意は分かりません」


 懊悩溢れる彼の表情に、事態の深刻さがじりじりと胸に迫ってくる。フェスタローゼは乾いた声でジョーディに問い掛けた。

「異端審問にかけられたら……私はどうなりますの」

「残念ながら異端審問は司法が行う裁判とは全く違います。全てが法主の主導する教団内で議論されるため、私達の手は遠く及びません。異端審問が開かれたらまず間違いなく」

 言いかけてジョーディは目を伏せる。

 続く言葉を言い淀む彼に、「どうなさったの? 私はどうなりますの?」と執拗に問い掛ける。


 答えは容易に想像できる。でも認めたくない。自らの内側に浮かぶ言葉を覗き込みたくない。


 しばらくためらった果てに、ジョーディはやるせない吐息と共にようやく続きを口にした。

「まず間違いなく有罪になるかと。そして、その暁には良くて廃嫡。悪いと処刑に」


 熱除け扇子がぴた、と止まる。扇子が手から滑り落ち、分厚い絨毯にぽとりと落ちた。震える手でぎゅうと胸飾りを握り込んだフェスタローゼに一同の視線が集まる。


「廃嫡か処刑」

 

 急にエシュルバルドが勢いよく立ち上がった。

 無言のままに部屋を横切り、部屋から出て行こうとする彼の前にジョーディが素早く立ち塞がる。

「なりません、殿下」

「……どいて下さい、ジョーディ殿。陛下の真意をお伺いせねば」

 毅然とジョーディは首を振る。

「こんな無法が……」

 呟いた彼の声が急速に怒気をはらんだ。エシュルバルドはジョーディの胸倉を掴み、咆哮にも似た怒声を上げる。

「こんな無法が許されてなるものか!! 全てが間違っている。異端審問を申し出た法主も! 受理した陛下も! 全て、全て、全て! 何もかも間違っているっ!!」

「エシュルバルド、やめて!」

 エシュルバルドはジョーディを乱暴に放して、フェスタローゼを猛然と振り向いた。

「死なせない、絶対に! お姉様は死なせない!!」

「殿下」

「だから、そこをどけ!!」

 興奮して肩で息をするエシュルバルドに向けられたジョーディの視線は真冬の空気よりも冷ややかな眼差しだった。

 彼はしゃんと背筋を伸ばして言い放つ。

「喚いて事が進むのならば好きなだけ喚いて下さい」と言って、ジョーディは、さぁと腕を広げた。


「どうぞ。さぁ。ご随意に」


 どうぞ、と促す彼の声は平坦なのに、その声には伏せ火のごとく静かにたぎる激情が潜んでいる。ジョーディの圧倒的な迫力を前に、急激に上昇したエシュルバルドの熱が冷めて行く。

 目を見開いて、肩で息する少年にジョーディは静かに言った。

「落ち着いてください。道はある。激情のままに動いては事態が悪化するだけです」

「……しかし」

 ジョーディは手を伸ばしてエシュルバルドの肩を抱き、そしてフェスタローゼに目を向けた。

 

 波立つ空気の中で、フェスタローゼは胸飾りからそっと手を放す。可憐な唇を引き結び、双眸を見張った彼女の顔に決意の光が少しづつ射し込み始めていた。

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