第7話 伏魔殿の2人

 ツェレッティン=ミスティア大教院に至る目抜き通りの一角に店を構える老舗の妓楼、“ 高貴なる薔薇そうび”楼。

 ドゥール=ベルテシアでも最上位の名を持つ七大楼の1つに数えられる妓楼の待合はいつもの賑わいを見せていた。


 ヴェールで顔を覆ったグリゼルダは張り出した中2階から眼下に広がる待合を見下ろしている。磨きこまれて艶々と光る手すりを、華奢な手がゆっくりと艶めかしく這いずり回る。


 ヴェール越しに見る霞がかった視界の中。密着した男女がそこかしこで互いに囁き合い、くつくつと忍び笑いを洩らしている。

 今宵も数多の囁きと駆け引きが繰り広げられるこの界隈で、一つの流説が明確な意図を以て広がりを見せて来ていた。


「まさか」

「でも、あの犯人が殿下の元令侍なのは事実ですのよ」

「それはまぁ。うん」

「元令侍はどこで淀神てんしん崇拝に触れましたのかしら」

「……そういえば皇太子が天雲信徒団の国の王子と随分ねんごろになっていたとは聞いたが」

「おぉ。怖や、怖や。火のない所に煙は立たないと申しますけど」


 グリゼルダの指が手すりから離れた。彼女は慣れた足取りで複雑に入り組んだ妓楼の廊下を奥へと進んでいく。

 

 グリゼルダがこの薔薇楼に来ているのは客としてではない。薔薇楼は彼女の持ち物なのだ。経営不振に陥ったこの妓楼を娼妓ごと居抜きで買い取ったのが昨年。それ以来、経営を昔馴染みの者にさせて、自分は時々こうして余所では会い辛い人間との会合に使っている。


 余所では会い辛い人間。

 既婚でも堂々と遊び回る彼女にとって愛人はそれに当たらない。今でも片手には余る程にいる愛人達を夫君に隠す気もない。

 グリゼルダにとっての結婚とはそういうものだ。夫君は家同士で決められ、あてがわれるもの。恋とか愛とか肉欲とかは他で賄う。


 巧妙に入り口が隠されている通路から行き着くのは妓楼の最奥。

 他には出せないサービスを提供する区画にある1つの部屋にグリゼルダはするりと入った。


「待たせたわね」

 

 尊大に言い放ち、ヴェールを上げた視界にシャンデリアの明るさが滲む。

 グリゼルダはぱちぱちと瞬きをして、豪勢な卓に陣取っている法主に目をやった。

 既に少しばかり酒をきこしめている法主の傍らには薄衣を纏った少女が1人。ぴったりと腕をからませてその肩にしなだれかかっている。


 グリゼルダが入って来たのを見た少女は、ぱっと身を起こすと両手を胸の前で交差して一礼し、そそくさと退室していった。

 彼女は少女を気に掛ける風もなく手近な椅子に腰を降ろした。そして優美な吸い口を取り出し、紙巻を吸い始める。

 2、3服、吸いつけてからトントンと灰を落として、法主の方を見ようともせずに「一応言われた通りに流してはいるわよ」とつっけんどんに言った。

 その言い方からは、理由もわからずにやらされている、強い不満が言い方から感じられた。


 一方の法主はグリゼルダに丁寧に頭を下げる。

「協力痛み入る」

「で? どうなのよ」

 グリゼルダの詰問に法主は丸っこい両肩を竦めた。

「いやはや」

「何なのよ」

「あの子憎たらしい小僧の辣腕に畏れ入っているところですよ」

 グリゼルダは、横を向いて力強く煙を吐き出す。右肘を卓に付いた彼女の顔にはありありと侮蔑の表情が浮かんでいた。

「あらぁ。随分と悦に入っていらっしゃったのに。どういうことかしら?」

「朱玉府に、警務師に。彼奴きゃつの根回しは完璧です。あの小娘の暴挙を皇太子に広げよう、という輩は全て封じられております」

「万事休す、ね」


 薄情に言って、煙草を消すグリゼルダを法主は不気味に穏やかな笑顔で見つめる。

「さすが20年間、皇内大務を務めているだけはある。スルンダール上級伯。あ奴の能力は一級品ですな」

「呑気に敵を褒めてどうするの」

「私は敵を侮ったことはありませんぞ。侮るということは目を曇らせる愚かな行為です。ポステアに於いても相手の力量を見くびる者は、勝利を洩らす。自明の理です」

 

“ ポステア ”と、聞いて彼女は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。青っ白い顔で居間の片隅に座っている夫君の横顔が浮かんだからだ。

 

 グリゼルダの夫君は警務師大師卿の仕事を妻に取り上げられて、ますます盤上ゲームのポステアにのめり込んでいる。ポステアを日長一日、陰気に指している夫君はもはや居間の飾りの1つだ。

 その内、人間であることも忘れ去られて、はたきをかけられる日が来るのではないかという位に存在感がなくなっている。

 法主はその事を察した上で“ ポステア ”を例えに持ち出したのだろう。食えない人物である。


「御託は結構ですけど。結局、ゴバトルリアンの娘は死に損だったってところかしら」

「いやいや、とんでもない。あの娘は期待以上の働きをしてくれましたよ。特に断末魔のあの叫び。あれは素敵な予想外でした」

「あなたは知っていたの? あの娘が淀神崇拝者だったって」

 グリゼルダの問い掛けに法主は、いや、とんでもない、と太い首を振った。

「そんな事は露知らず」

「それにしても本当に油断できない人。ゴバトルリアンの娘まで押えていたなんて」

「押えていたというか、向こうから飛びこんで来たというか。まぁ、天啓でしょうな」

 法主は澄まして答えた。グリゼルダは2本目の紙巻を取り上げて火をつける。甘ったるく、頭の重たくなるような香りが辺りに立ち込めた。


「皇内大務殿は実に見事に働いている。それは驚嘆に値します」

「さっきも聞いたわ」

 薄くグリゼルダは笑った。笑んだ口元から、煙がふわりと洩れる。そんな彼女に向かって法主は、「ですが」と意味深にずんぐりとした指を振った。


「虚を突くことにかけては私の方が上ですぞ」



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