第5話 11月の嚆矢 (2)
馬車を降りたサティナは吹き寄せる寒風に思わず首を竦めた。この時期にしては随分と冷え込み始めている。降りて来た彼女に先程の男が慇懃に教院衛士の敬礼をした。
「お勤めご苦労様でした」
恐らくは不審がられないために、所用で出た修道士の出迎えを装っているのだろう。そう解釈して、サティナも軽く会釈を返した。
「皆様お揃いですよ」と言いながら彼はサティナの後ろに付き、素早く耳元で「車寄せ付近にみえます」と囁いた。
「お待たせしては申し訳ないですわね」
きっぱりと言って、サティナは車回しにずらりと並んだ車列を見通した。
連なった馬車の向こうに見えるのは垂れ込めた雲に覆われた冬の空だ。重く垂れ込めた雲はいつ降りだしてもおかしくない不穏さを孕んで黒々と居座っている。長方形の車回しには皇帝一行を出迎える人々が二重三重の人垣を成して、しきりに車寄せの方に首を伸ばしては近くの人と囁きを交わしていた。
これらの人々は何も知らない。今から起こるサティナによる救世のことなどこれっぽちも。自分達が歴史の目撃者となる幸運に気付きもせずに、バカみたいにさわさわと揺れているのだ。
「参ります」
自分を鼓舞するためにはっきりと口に出す。サティナはぐっと奥歯を噛み締めて一歩踏み出した。ドクドクと心臓が波打つ。歩み始めたらもう戻れない。
慎重に、と言い聞かせる自らの理性とは裏腹にサティナの歩みはどんどんと加速していく。
彼女は皇帝と皇太子を出迎える人垣の間を忍びやかに、しかし迅速に進む。
誰もが皇帝一行に夢中で、お仕着せをまとった貧相な修道士になど目もくれない。仮に見る人があったとしても、忙しく立ち回る修道士の1人がせかせかしてるようにしか見えなかっただろう。
人々が異変に気付いたのは、その修道士が人垣を割って車回しに飛び出したあたりからだ。
「おい!」
「何だ、あれ」
「おかしくないか?」
騒めきが波となり、「止まれ! 何をしている!!」という怒号に至るまで数瞬もなかった。
サティナは懐の短剣を抜き放ち、白い息を吐きながら車回しを一気に駆け抜ける。心臓が早鐘の如く脈打ち、耳元で大きくこだまする。 向かって来た衛士の脇を、驚いて振り向く随行員の間を、すり抜けながら一心に走るサティナの目には何物も映らない。
――早く、早く、早く!!
ただひたすらに眼前を見据えて走る彼女の目に飛び込んできたのは、美しい装飾の施された、一際華美な作りの馬車。車体に麗々しく彫られたプリムラ・シネンシスの花を象った御印。皇帝の馬車だ。
そして近衛騎士に取り囲まれた皇帝が振り向く。しかしその場にいるはずのもう1人の姿がない。サティナはひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。
……皇太子がいない?!
驚いて足を止めた刹那、背中から重い衝撃が走った。思わずたたらを踏んで、つんのめった拍子に見えたのは自分の腹から突き出た槍の穂先。ごりっと刃先が回転する嫌な感触がして体の内側から猛烈な痛みが迸る。人垣から、わぁ、とも、おぉ、ともつかぬ悲鳴が上がった。
「……いっ……あっ……!!」
言葉にならない悲鳴を上げたサティナの体から容赦なく槍が引き抜かれて、黒々とした血が文字通り滝のごとく噴き出した。
膝からくずおれたサティナは首を巡らして、背後に立つ衛士を見上げた。鮮血滴る槍を構えて、冷ややかに彼女を見降ろしているのは先程まで付き従って来ていた男、その人だった。
「……裏切った……の……か」
苦しい息の下から問い掛けたサティナの言葉を押し潰して、男が大声で叫んだ。
「何だ貴様は?!」
槍を掲げて吠える彼に周囲から、よくやった!と歓喜のどよめきが巻き起こる。
サティナはみじめに地面に倒れ伏して、身を裂く激痛と生温かく洩れ出でる血とを感じながら千々に乱れる思考を必死に集める。
――どうして? 何が起きているの? 皇太子は? あいつはどこにいるの?
「サティナか」
やや離れた所からかかった声に、面を上げる。
朦朧とした目が捉えたのは近衛騎士に押し止められながら、こちらに近寄ろうとしている皇帝の姿だった。
驚いたように目を見張っているかと思いきや、皇帝の目元に張り付くのは完全に薄ら笑いだった。姪が短剣を振りかざして走り込んで来たこの場で、彼は可笑しくてならないと微笑みを浮かべる。
その異様さにサティナの背筋に悪寒が走った時、きぃぃぃん、と甲高い澄んだ音が辺りに響き渡った。そして全ての物が動きを止める。
皇帝を押し止めようとしていた近衛騎士が両手を広げたまま、目を見開いている。事の次第を身を捻って見ていた御者は口をぽかんと開けて間抜けな表情を晒している。皇帝の背後で目も鼻も口も広げて衝撃の程を示しているのは、大教院長を務めるマサカール卿だ。
この場にいる全員が時を止めて、よく出来た彫刻となってサティナを囲む中、薄笑いの皇帝が身じろぎをして1歩、踏み出した。
その足元からじわりと染みだした真っ黒な影が、黒の舌先となってサティナの方へ伸びて来る。伸びて来た影は彼女をからかうように、その目先でちろちろと揺れてみせた。
「娘、僥倖ぞ。我が名は
皇帝がもう1歩踏み出す。影の舌がサティナの頬をぺちりと叩いた。血と涎に塗れた顔で彼女は力なく皇帝を見上げる。
「汝の望みを申してみよ」
皇帝の喉の奥から押し殺した笑い声がくつくつと洩れた。彼は楽しくて仕方ないといった感じの、屈託のない笑みでサティナを見降ろして、その返事を待つ。
「……のぞ……み……」
薄れゆくサティナの意識の中で、父の横顔がぐるぐると回る。
可哀そうなお父様。不遇のお父様。家族からも弾き出されて私とただ2人、別棟で暮らすお父様。
お父様を再び皇族に。そして私も皇族に。
馬鹿にしてそっぽを向いた連中を片っ端から叩き潰してやる。そのために。そのためには。
サティナの指にぐっと力が甦る。彼女は車回しの石畳に爪を立て、上腕にありったけの力を乗せて、思いっきりに絶叫した。
「
ざわりとどよめきが戻る。
立ちはだかった近衛騎士達の向こうで、皇帝が驚きに目を見張っている。大教院長は目を剥いて、「なんと……陛下の御前で邪神を求めるか……!」と呻いた。
固まる2人を近衛騎士が急き立てる。
「陛下。
複数の足音が入り乱れて慌ただしく遠ざかって行く。中には忌々しげな舌打ちと共にサティナの脇腹を蹴り飛ばしていく者さえいた。
……どうして
見開いた瞳に、頬に、血まみれの全身に、降り始めた霰がばらばらと当たって、跳ねて、地面に落ちて行く。
皇庭に迎え入れられ享受するはずだった栄誉も、成功も。手にしたはずの未来は容易く指をすり抜けて、さらさらと霧散していった。代わりに与えられたのは襤褸切れみたいなお仕着せと、侮蔑の眼差し。
「まだ生きてるのか? こいつ」
教院衛士が持っている槍の石突きでつんつんとサティナをつついた。
おっかなびっくり彼女を覗いた、冴えない髭面の衛士の顔を最期に見届けてサティナの命は絶えた。
帝紀466年。
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