第4話 11月の嚆矢 (1)

 ベルチアピート=シドウ大教院の長い回廊に、こつーん、こつーんと固い靴音が響く。

 サティナは着慣れないお仕着せの法衣の裾を払い、すれ違った修道士に軽く頭を下げた。相手はさして不審に思った感じもなく頭を下げ返して歩み去って行く。

 首尾は上々。誰にも見咎められていない。

 にんまりと微笑む口元から息が白く洩れた。


 本日はシドリアナン11月1日。

 フォーン=ローディン真教会には毎月一日にその月の神を祀る大教院に皇帝が赴いて、月次祭を執り行う風習がある。今月は狩猟の神・シドウの月。皇帝がやって来るのはここ、ベルチアピート=シドウ大教院だ。


 サティナがシドウ神を祀る大教院にいるのは、突然シドウ神に帰依したわけでも、世俗の道を捨てて信仰の道に入ったわけでもない。もちろん皇帝に何とかして謁見するために来たわけでもない。

 彼女の目的はただ1人。皇帝に随伴して来る皇太子、フェスタローゼのみである。


 ゆったりとした法衣の懐を上からそっと押える。

 散々に洗い晒して、擦り切れた粗末な法衣の感触にそぐわない、確固とした鋼の硬さが昂揚しきった心を更に鼓舞する。


 ――大丈夫。私ならしっかりやれる。


 不遜に胸を反らして堂々と歩いていく彼女を見咎める者、止める者は誰もいない。もう間もなく到着する皇帝の出迎えに大教院内は慌ただしさに包まれ、誰もが何となく浮き足立っているのだ。一般的な、どこにでもいるお仕着せの修道士は庭に佇む石像並みに風景の1つと化していた。


 普段のサティナならば自分が一顧だにされない存在になることなど、絶対に受け入れないだろう。しかし、回廊を1人行く彼女の胸の内は直にもたらされるであろう賞賛と賛美の声の妄想で占められている。歓喜の瞬間の前には、小汚い修道士に身をやつすのはほんの些細なことだった。


 この辺りかしら?

 サティナは回廊の切れる所で足を止めて、周囲を見回す。事前の打ち合わせではここで落ち合う予定となっていたはずだ。

「サティナ様で?」

 背後からそっと掛けられた声に思わずどきりとして振り返る。振り返った先に立っていたのは、教院衛士の恰好をした若い男だった。

「ええ、そうよ」

「委細承知しております。本日は微力ながら助太刀させていただきます」

 高慢ちきに頷いたサティナに男は丁寧に一礼した。そして左右を素早く見回すと、抑えた声で「どうぞ、こちらへ」とサティナを促す。

 

 男に先導されて着いたのは、大教院の玄関口。馬車寄せの所だ。皇帝とその一行のために正面玄関付近は誰も止められないようになっているため、サティナが案内されていったのは馬車寄せのほんの端っこに置かれている、シドウ神の紋章が入った古ぼけた馬車の前だった。

 長年の使用で扉の塗装は所々はげて、車体横に描かれているシドウ神の紋章も薄らとぼけてしまっている。泥汚れもそのままの窓にかかるのは、使い古されて最早何色だったかも分からなくなっているカーテンだ。

 ひたすらにおんぼろなその外見に、大事を前に湧き上がっていたサティナの心も急速に萎んでいく。これから世を変える大仕事を行う人間が身を潜めるのがこんな動くかどうかも怪しい古馬車とはおかしいのではないか。


 サティナはあからさまに不満げな顔つきでじろじろと馬車を眺めてから、男につっけんどんに訊いた。

「これに乗れと? 私に?」

「ええ。私はそのように聞いております」

「こんな……」

 ボロ馬車、という言葉は呑み込んで男を見る。彼は目深に被った兜の下から平坦な眼差しを返すのみだ。


――こんな小物には何を言っても仕方ないわ。


 嘲笑の吐息と共にサティナは「分かったわ」とだけ返した。

「それで? この後の手筈はどうなっているの」

「とりあえずは陛下と皇太子殿下がみえるまではこの中で待機となります。頃合いを見計らいまして私が馬車の扉をノック致しますのでそうしたら」

「そうしたらひと思いに宿願を果たす、と」

 男の言葉を押し潰して得意そうに微笑んだサティナに男は何も言わなかった。ただ陰鬱な、何の感情もない目を向けて同意を示すと、かちゃりと扉を開ける。

 

 武骨に頭を下げて、言葉少なに「御武運を」と言った男の傍らを抜けて、恐る恐る車内に乗り込む。饐えたカビの臭いと埃の入り混じった淀んだ空気に、サティナは思い切り顔を顰めた。

 懐からハンカチを取り出して鼻に押し当てて、擦り切れて中の綿が見える座席をうんざりと眺める。

 

「ここに来てこんな馬車を用意するなんて、法主はどうなっているのかしら!」


 悪態をつきながら、仕方なく比較的綺麗な部分にそっと腰を降ろす。硬く、貧しい感触にもう一度、呪いの言葉が口を突いて出た。

 板状の背もたれに背中を預けて、サティナは頭の中で法主から教わった今後の手筈を思い浮かべた。


 あの男の合図で飛び出して、一目散に皇太子を目指す。見事、宿願を果たしたら大教院の東門から外に脱出して、一区画先に用意されている馬車に乗り込む。後は法主が用意した隠れ家でフェストーナ殿下立太子の吉報を待つのみ。

 大願を果たした後に罪人のようにこそこそと潜伏しなければいけないのは、はっきり言って納得できない。しかし物事が進むには時間が必要なこともある。そこは我慢するしかないだろう。


 それに。


 サティナの唇に恍惚とした笑みが蕩けて浮かぶ。

 

 フェストーナが皇太子になれるのは自分のおかげなのだ。きっと彼女はいたく感激するだろう。そしてもちろん、皇庭に今一度サティナを呼び戻すことになるに違いない。何なら単なる令侍ではなく、役付きになれるかもしれない。

 あのいけ好かない女、ハルツグの役職である“ 少参丈 ”あたりなんかいいのではないか。常に皇太子を気遣い、盛り立てております!というポーズばかりのハルツグより自分の方がきっと上手くやれる。

 少参丈として実績を積んで行き、フェストーナの信頼をますます得て行けばかねてからの悲願も最早、夢物語ではなくなるに違いない。

 かねてからの悲願。そこに思いが至りサティナはぽつりと呟いた。


「お父様……」

 

 呟きと同時に脳裏に浮かぶのは父の姿。

 窓際に置かれた安楽椅子にぽつねんと座り、無気力な眼差しで孤独に外を眺める父。非道な皇帝のせいで皇宮を追われ、失意の人生を送ることになった哀れな父。

 サティナのかねてからの悲願。それは父の失った地位を取り戻すこと。父を再び皇族に復帰させる。そのためにフェストーナに力を貸すのだ。


 サティナは懐に忍ばせていた短剣を取り出し、少しだけ鞘から刀身を出した。冴え冴えとした刀身に、緊張した面持ちの自分の顔がやや歪んで映る。


――お父様。サティナはやります。お父様のために。


 昂っている気持ちの裏にふと臆病な気持ちが差し込む。

 できるのだろうか? 上手く行くのだろうか? これでいいのだろうか?

 湧き上がってくる不安にサティナは思わず、「大丈夫。大丈夫」と口走る。刀身に揺らぐ、己の不安そうな顔に向けて「だって大丈夫ですもの」とまた告げる。


 自分はあのレオナールとは違う。

 愚かなレオナール。自らの力量を過信して、ただ猪突猛進して行った従兄。彼の皇族を思う気持ちは痛い程に理解できる。野に下った苦労だって手に取るように。しかし彼は失敗した。

 だが、サティナには法主という後ろ盾がある。後ろ盾もないままに手勢を引き連れて乗り込んで行ったレオナールとは訳が違うのだ。

 

 私の方がきっと上手くやれる。


 サティナは深く息を吸って刀身を鞘に戻した。

 何のクッションもなくただただ固いだけの背もたれに背中を預けて、目を閉じる。悲壮感漂っていた表情が気まぐれに緩む。


 そうだわ。上手く行った暁にはレオナールに慰霊碑の1基くらい作ってあげてもいいかもしれない。


 楽しげに未来を夢想するサティナの耳朶を、こんこんと無機質なノックの音が打つ。


――ついにこの時が。


 手の内の短剣にちらりと視線を落として、サティナは馬車の扉に手を伸ばす。古ぼけて汚れた取っ手を掴み、ぐいっと下げる。

 かちゃり、と開いていく扉の隙間から底冷えのする冷気が流れ込んで来た。胸いっぱいに初冬の空気を吸い込んで、今。サティナはゆっくりと表へ出て行く。



 



 

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