第3話 盲目の徒
貴族街に程近い住宅街の一角。
豪奢なしつらえの部屋の中でサティナは憤って叫んでいた。
「一体、どうなっていますの! フェストーナ様は何故、私をお呼びにならないの!?」
彼女は苛立ち、腕を組んで窓の側をうろうろと行き来している。灰色一色の窓の外はそぼ降る雨だ。向かいの家のシルエットがカーテン越しに陰鬱な影となって見える。
手負いの獣さながらに行きつ戻りつし、威嚇するサティナに法主は太い首を竦めて吐息をついた。
「全く由々しきことですな」
耳触りのいいことを言いながら、ちらりとサティナを見る。彼女は神経質に爪を噛みながら苛々としている。
サティナが苛立つのは承知の上だ。というよりも、法主にとっては作戦の内である。
彼女は愚かにも皇女フェストーナから召し上げの声がかかると思い込んでいる。普通の頭で考えれば、自分が使っていたと相手方にばれている間者を再び呼び寄せて、身近に置く馬鹿などいない、と分かるはずだ。
フェストーナの乳母、マスティア伯爵夫人は法主の目から見ると、てんで愚かな自己顕示欲だけの女である。それでもサティナを令侍にする危険性が分からぬ程の低能ではない。サティナを令侍にしたいなどというのは全て法主の嘘だ。
しかし、と彼は心中で呟く。
それを見抜けないお前の愚かさが自身を滅ぼすのだ。所詮、サティナは捨て駒としてしか役に立たない人種。それならば私がせいぜい最良の捨て方をしてやろうではないか。
嘲りを押し込めて法主は、やれやれと両手を広げた。
「フェストーナ殿下はサティナ殿にすぐにでも来て欲しいと願っておいでなのです。しかし」
意味あり気に言葉を切る。サティナがさっと法主を見た。
「しかし、何ですの?」
鋭い物言いに法主は首を傾げてみせる。
余計な言葉はいらない。勝手に推論させる。それが有効な手であるのを彼は熟知している。
サティナは再び爪を噛みながらしばらく思案に暮れていたが、その表情にはっ、と閃きが降りる。彼女は中空を睨みながらぽつりと「皇太子……」と呟いた。
「皇太子が邪魔してますのね!?」
ほくそ笑む心をひた隠しに法主はとぼけた顔をする。彼の反応の鈍さを肯定と早合点したサティナの怒りが急激に沸点に達した。
「あの欠陥品の恥知らずめが!」
憎々しく言い捨てて、どすんと乱暴に腰を降ろす。サティナは冷め切った茶を一口飲み下すと一気にまくし立てた。
「だいたいが精道法を全く使えないのに立太子する時点で頭がおかしいとしか! 普通は恥ずかしくてそんなこと出来ませんわ。私でしたら絶対に辞退致します。そんな恥の上塗りみたいなこと……!」
「残念ながら、サティナ殿のような良識は持ち合わせていないのでしょうな」
「皇太子も、その周辺の輩も厚顔無恥ですのよ。本当に羨ましいくらいですわ」
サティナの唇が嘲笑に歪み、目元の険が一層深くなる。
「あんな風に厚かましければ、さぞかしお幸せでしょうね」
「精道法が使えない以前に人間的に全くなってませんね」
法主は尤もらしく頷き、如才なく付け加えた。
「皇太子にはサティナ殿のような方こそ必要でしょうに。嘆かわしいことです」
「そうですわね」
サティナは、つと姿勢を正して法主の賛辞を受け取る。彼の言葉はひたすらに甘く、身の丈に合わないサティナの虚栄心を満たしていく。
愚かで哀れな手駒に法主は眉を顰めて、いかにも憂慮しているといった体で囁きかける。
「ここだけの話。フォーン=ローディン真教会の法主という私の立場からすれば、天雲信徒団の国の王子とあのように親しくしていたこと自体、いかがなものかと考えております。たとえ命の恩人といえどもです」
「そこは私も気にかかっておりましたのよ。あのハルツグ殿は若くして少参丈と意気軒昂な所がございますけど、私に言わせればてんでなってませんのよ。あんな王子を近付けさせるなんて」
「皇宮に滞在していた間は随分と行き来があったようですな」
「ええ、それはもう」
サティナは身を乗り出して勢いよく何度も頷いた。
「何かにつけて毎日会いに行っておいででしたわ。和佐殿下ご自身は穏やかな性格のよくできた方でしたが、やはりよくないですわよね」
「人品卑しからずとも、天雲信徒団ですからな。帝国は天雲教の信仰自体は禁じていないものの、あれは淀みの禁忌に触れるもの。邪教のそしりは免れますまい。なのに……。いや今更言っても、ですな。お諫めするべきだったのですがついぞ機会に恵まれず。法主という立場にありながらお恥ずかしい限りで」
「法主聖下は皇太子が天雲教の影響を受けているとお考えなのですね」
「いや、きっと私の杞憂でしょう。考えの足らぬ皇太子といえども、まさかそこまでとは思っておりません」
サティナが両腕で自分を抱くようにして考え込み始める。
放った餌に獲物はどう食いついて来るか。舌なめずりしながら、じっとその様子を法主は見守る。
「でもそうだとしたら何と恐ろしい……。栄光あるアマワタル神の末裔に連なる者が天雲教に毒されていたとしたら」
「しかも将来的には帝国の皇帝となる立場の御方が、です」
「皇帝となったが最後。淀みの外法に堂々と手を出す恐れも……。何と言ってもあれは欠陥品。精道法が使えないからと淀みの外法に頼る可能性もあるということですわ」
サティナは口元を覆い、深刻な表情になる。
法主が示したのはあくまで「遺憾の意」であって、皇太子が天雲教に傾倒しているという「事実」ではない。
ところが彼女は「そうあって欲しい」という自らの願望に飛びつき、全てのピースを望む形に組み上げていく。その行き着く果てにあるのは、嫉妬と羨望に裏打ちされた、結論ありきの歪んだ推論だ。
「やはり皇太子にふさわしいのはフェストーナ殿下ですわ。フェスタローゼのように己の立場を弁えることの出来ない人間はふさわしくありません」
きっぱりと断言するサティナの横顔は毅然とした光に溢れていて、そこだけ切り取れば、国を憂う立派な忠義の徒に見える。
「それは事実でしょうが、現状フェスタローゼ殿下が皇太子の立場にあるのもまた事実です。しかも自ら退くことなどないでしょう。都合よく病気になるなんてこともないでしょうし」
「しかし、それでは! 邪教かぶれの者が皇帝になることなどあってはならないことです!」
熱心に叫んだサティナに対し、法主は渋面で首を振った。
「そうであっても、皇太子はフェスタローゼ殿下なのですから」
「そんな」
「仮に告発したとて、皇内大務のスルンダール上級伯に一蹴されるのは目に見えておりますしな。出来うる範囲で皇太子に警戒していくしか手はありますまい」
「ですが……!」
「サティナ殿」
法主の目の底で暗い光がちかりとする。
彼は声を潜めて、サティナに話しかける。国の行く末えを憂う自分の思慮の深さと勇ましさに1人心酔している彼女に、仕上げの福音を吹き込む。
「その覚悟がおありなら手はありますぞ」
サティナは目を上げた。
見開かれていく双眸に法主は重々しく頷いた。
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