第2話 ジョーディの花瓶
警務大務の執務室は全体的に殺風景な部屋だ。就任から1ヶ月も経っていない状況を考慮に入れても、殺風景に過ぎる。
フェスタローゼはつい先程まで熱心に書きこんでいた筆記帳をテーブルに置き、改めて執務室内を見回した。
元々、置かれていたキャビネットやコンソールテーブルの上は綺麗に清掃され、艶々と気持ちの良い清潔さを保っている。他の大務の執務室だとその上に植物や趣味の骨董、家族の肖像画なんて物が乗っているものだが、ここに限っては一切何も乗っていない。唯一、物が乗っているのは執務を行う書机の上で、乗っているのは決済を待つと思しき書類の山だ。
新しい警務大務は物を置くことを好まないのかもしれない。
そう考えて、フェスタローゼは自分の向かいでとんとんと書類を揃えているザインベルグ一等爵士に目を向けた。
和佐が玉都を立ってから半月余り。月は変わり
親しく交わった和佐との突然の別れは、フェスタローゼの中で消えない悲しみとなって、まだわだかまっている。穏やかな光を湛えた瞳をふとした拍子に思い出しては、彼の不在に胸を締め付けられる。
それでも前を向かなくてはいけない。
人伝に届いた和佐からの手紙が彼女の脳裏に浮かんだ。
そこに書かれていた締めの一文。
“ 遠く離れようとも見上げる月は同じ ”
その一文が今の慰め。目の前の日々を一日、一日積み上げて行く原動力だ。そうやって積み重ねていった果てにきっとまた再会の日が来る。
きゅと唇を引き締めてから、フェスタローゼはザインベルグに微笑みかけた。
「警務師の職務は、どちらかと言うと市井に近いものですのね。大変に興味深かったですわ」
「殿下には余り馴染みのないものが多かったのではないでしょうか」
にこりともせずに答えて、ザインベルグは書類を几帳面に揃えてテーブルに置く。長く美しい指が書類のふちをなぞるのを何となく目で追いながら、フェスタローゼは緩やかに首を振った。
「あら、そんなことありませんわ。皇庭の警備は帝国騎士団ですけど、皇宮そのものの警備は警務師ですもの。日々、支えられているということですわ」
「そうおっしゃっていただけるとは恐悦至極に存じます」
ようやくザインベルグの目元が微かに緩んだ。無表情のままでいると鋭い眼差しばかりが目立って冷酷な印象を受ける人だが、ふと笑った時に出る存外に柔らかな雰囲気は、彼自身が見た目程冷たい人間ではない事を物語っている。
「警務大務殿。本日はお忙しい中、お時間いただきまして誠にありがとうございました」
フェスタローゼの座るソファーの後ろに控えていたハルツグがふわりと頭を下げる。
「いえ。本来ならば私から参上するべき所を、警務師にお呼び立てして申し訳ございませんでした」
「そんなこと気になさってはいけませんわ。私は教えを請う側ですから訪ねるのは当然のことですもの」
ねぇ、と背後に控えるハルツグを振り仰ぐ。彼女も、ええ、といつもの笑顔で頷いた。そんなハルツグの笑顔で思い出したことがあり、フェスタローゼはザインベルグに向き直った。
「ザインベルグ殿にお世話になるのはこれで二度目ですわね」
「と、言いますと?」
「セルトの件の折、真相究明に手を貸していただいたとハルツグから聞いております」
フェスタローゼは改めて膝を揃えて彼に頭を下げた。
「御助力感謝致します」
「何のことでしょうか」
「え? あの」
戸惑ってザインベルグを見るとぶつかる視線の先で、彼の揺るがない瞳が冷たくフェスタローゼを見返した。
ハルツグから聞いた情報は違うものだったのだろうか。しかし、確かに警務師首席准参預のザインベルグ一等爵士と聞いた覚えが彼女にはある。同じ名前がいることもあるが、この場合は明らかに違う。理由は定かではないが、彼の方ではセルトの件に関わっていたことを伏せておきたいらしい。
「私の覚え違いのようですわね」
それ以上は追及せずに曖昧に微笑む。
「つまらない事を申しました。ご迷惑でしたらごめんなさい」
「迷惑ではありませんが」
中途半端に言って、ザインベルグが急に黙り込む。言いかけた言葉が突然消え失せた。そんな感じで黙った彼に不安を覚えてフェスタローゼは思わず、「あの」と声をかける。
「殿下はドゥール=ベルテシアは御存知でしょうか?」
「え? えぇ、まぁ。名前くらいは」
何故、急に色街を知っているかと訊いてくるのか。意図が分からずにドギマギするフェスタローゼにお構いなく、ザインベルグは淡々と続ける。
「女神の揺り籠においては札引きや杖持ちが一丸となって、妓楼を支えております。妓楼の長たる楼主がなすべき事の一番はその者達の前で不安を見せないこと。楼主が堂々と妓楼を引っ張って行く姿を見せることで下の者も安心して働けるのです」
「……なるほど」
フェスタローゼは深く頷いた。
楼主に置き換えて彼が伝えたいのは、堂々としていろ、ということだ。つい習慣的に謝ってしまうフェスタローゼの癖を彼は指摘しているのだ。必要以上のへりくだりは周囲にいい影響を及ぼさない。
「失礼。うら若い女性には例えが適当ではありませんでしたね」
例えにした街の種類に思いが至り、彼は苦笑いで付け加えた。フェスタローゼも、うふふと口に手を当てて微笑み返す。
「いえ。助言として確かに心に留めおきましょう」
和やかな空気が流れ始めた室内に、コンコンとノックの音が高らかに響く。同時に、がちゃりと扉が開いて、大きな包みを片手に抱き込んだジョーディが顔を覗かせた。彼の後ろには、「おい、ちょっと待て!」と制止するスーシェの慌てた顔が垣間見える。
「あら、ジョーディ殿」とハルツグが声を上げる。
彼は、やぁ、と気さくに手を上げて、抜かりなく「少参丈殿は今日もお美しい!」と言い添えた。
「そのお愛想は私でいいのかしら? 振りまく先を間違えているのではなくて?」
「それ以前にここがどこかという事自体、お忘れでは?」
じろりとザインベルグが睨み付ける。
ジョーディは人懐っこい笑顔であざとく首を傾げた。
「分かっているさ? 可愛い義弟の仕事場だろう?」
「分かっている態度でそれですか」
「何か不都合でも?」
無邪気に答える義兄と苦り切った義弟がぶつかり合う。意外なことに先に白旗を上げたのは義弟の方だった。言っても無駄と割り切った彼は、これみよがしに吐息をついて、部屋の入り口で中途半端に立ち尽くしているスーシェに頭を下げた。
「スルンダール殿。礼儀知らずの闖入者が失礼致しました」
「あ、いえ。こちらこそ。つい通してしまい失礼致しました」
「闖入者だの、つい通しただのひどい言われ様だね。まったく。君の就任祝いの品をこうして持参したってのに」
「就任祝い?」
露骨に嫌そうな顔をしたザインベルグにはお構いなく、ジョーディはさっと室内を見回すと、「あ、あそこなんかいいな!」と壁際にあるコンソールテーブルに歩み寄った。
そして持参してきた大きな包みを解いて、中から大層重そうな花瓶を取り出す。
「我が家の倉庫で眠っていたシェハキム石で作った花瓶さ!」
「いりません」
「即答か!」
「それはまぁ、確かに。いらないだろ。そんなデカブツ。嫌がらせか?」
「スーシェ君。率直さは美徳でもあるがもう少し言葉を柔らかめにだな。ねぇ? 殿下」
「いりませんわね」
「少参丈殿は……」と言おうとした所でジョーディは、ハルツグの冷たい微笑みに気付き、彼女からつーっと視線を逸らした。
「私が何か? ジョーディ殿?」
「ではこれは妹に渡しておこう」
「あくまでも押し付けたいようですわね」
フェスタローゼは呆れの吐息を洩らす。
「私から何かお送り致しますわ。ジョーディ殿の品はともかく、執務室が殺風景なのは確かですから」
フェスタローゼの心遣いにザインベルグは深々と頭を下げ、謝意を示した。
それにしても、と前置きしてフェスタローゼはハルツグを見やり、ふと微笑んだ。
「人の縁というのは分かりませんわね。覚えている? ハルツグ」
ふふ、と微笑み合う女性陣にザインベルグが不思議そうに訊いた。
「どういうことでしょうか?」
「ザインベルグ殿とシャーロット殿の出会ったきっかけが星見の宴とお聞きしまして。実はあの時、私もご様子が心配でハルツグに見て来るように言いつけてましたのよ」
「ほぉ!」とジョーディが意外そうに声を上げる。
「殿下の言い付けで見に行きましたら、ちょうどザインベルグ殿が声を掛けていらしたので私は退散致しましたの」
「結果としてはいらぬお節介でしたのね」
「決してそのようなことは。しかし私にとっては幸運だったやもしれませぬ」
「あら!」
「意外におっしゃる。これは御馳走様とお返しすべきですか」と笑うスーシェに「本当にね」と頷いて、フェスタローゼは正面に座る若き警務大務を見つめた。憎らしい程に平然と取り澄ましているザインベルグがちらり、と笑う。
冷徹と思っていた面の下に隠れていたのは、存外にお茶目な素顔であった。
若くして大務に登り詰めた才ある方と緊張して臨んだ今日の勉強会だが、この素顔が知れたのは大きな収穫であった。
新たな発見に軽やかに弾むフェスタローゼの心だったが、ぽんと飛び出して来たジョーディの一言がたちまち暗雲をもたらした。
「時に義弟よ」と切り出した彼は、まるで明日の天気を訊くかのような無頓着さで疑問を投げ掛けた。
「ゴバトルリアンの性悪娘は見つかったのか」
「ゴバトルリアン……」
思わず呟いた。
脳裏につん、と顎を反らしたサティナの傲慢な顔が甦る。
「どう考えても彼女、市井で生きていけるような人間じゃないだろう。心配はしていないが、流石にドブ川にプカリと浮かれても寝覚めが悪いと思って」
「言い方。もう少し言い様があるだろ」
呆れ顔のスーシェにジョーディはけろりとして答えた。
「そうは言ってもなぁ、君。こちとら断罪はしたものの、朱玉府の弱腰対応のせいで何とも尻切れトンボに終わっているからな。こんな言い方にもなるよ」
「まぁ、私もその言い方はどうかと思いますが」
こほん、とザインベルグが咳払いする。彼はさっと義兄を振り仰いでから、フェスタローゼに視線を戻した。
「ゴバトルリアン家より捜索願があったことからも鋭意捜索中ではありますが、結果は芳しくないですね」
「彼女に関しては我が父も追っているようですが、同じように何の手がかりも掴めていないようです」
「スルンダール上級伯もお探しなのに?」
不安そうにハルツグが言った。そんな彼女にスーシェが真剣な表情で頷く。
「これは奇怪なり! 警務師と、皇帝の懐刀たるスルンダール上級伯が血眼になって小娘1人見つけられないとは 血統がいいだけで何の後ろ盾もない小娘だってのに」
ジョーディが大袈裟な身振りで両手を広げた。その場の視線が不恰好な花瓶の側に立つ彼に集中する。
フェスタローゼもいつも通りに芝居がかっているジョーディに目をやりつつ、ぽつりと呟いた。
「……一体、どこに行ってしまったのかしら、あの方」
不穏に響く呟きが、言い知れぬ不安と不審と共に静まり返った執務室内に広がって行った。
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