5章 蠢動

第1話 ある夜の出会い

 貴族街から程近い閑静な住宅街の一角。大通りの喧騒をどこか遠くに聞きながら、サティナは手にした茶碗を両手で抱えたまま身を乗り出し、己の不遇と周囲の愚かさを一心不乱に嘆いていた。

 フォーン=ローディン教法主・ファルスフィールドは適度な重々しさを以て相槌を打つ。


「いや、それは全く。実に嘆かわしい」

「そうでございましょう? 本当に愚かな方達ですのよ!」


 法主の絶妙な相槌を得て、サティナはようやくお茶を一口飲んだ。心の靄と澱を好き放題にぶちまけて、この上なくすっきりと上機嫌な様子である。

 清々しい笑みで淑やかに茶碗を置いた彼女を法主は密やかに値踏みする。

 

 美しい娘ではある。目元の険の強さのせいで、いささか印象を悪くしているきらいはあるが。こればかりは性根が顔に出ている、というところか。

 

 元令侍のサティナとの邂逅は法主にとっても、流石に驚きであった。何せ深夜の街中を、靴すら履かずに徘徊していたのである。物狂いかのようにほつれた髪に、青白くやつれた頬、落ち窪んだ目をぎょろっとさせた様は幽霊以外の何者でもなかった。

 

 こんな根性曲りの娘一人。捨て置いてもどうってことはなかった。しかし長い間、宮廷に身を置き続けて培った直感が、「あれは拾ってみても良い」と囁きかけてきたのである。

 それで馬車を停めさせ、慈愛に溢れた宗教家然としてサティナを呼び止めたのだ。

 

 その判断が吉と出るか凶と出るか。いや、違う。何としても吉にするのだ。この娘は有用な手駒になる。


 心中で呟き、ファルスフィールド法主はぽっちゃりと太い手を広げて、大袈裟に悲嘆してみせた。


「これだから皇太子殿下は駄目なのです。所詮、精道符を扱えないような欠陥品では致し方ないのでしょうな」

「そうですとも! 精道神アマワタルの血を受けているというのに精道符が扱えないなんて信じられませんわ。本来ならば皇族を名乗るのもおこがましい。アマワタル神に対する冒涜ですわ」

 おっしゃる通り、と法主は深く頷き同意する。

 しかし彼にとっては皇太子が精道法を使えるとか使えないとかは真実どうでもいい、ということはお首にも出さない。

 

 大事なことはただ1つ。

 どう立ち回れば彼自身により利益が来るかだ。皇太子についても皆無なのは明らかだ。あの姫の周囲はスルンダ―ル上級伯がガッチリ固めている。今更、入り込むことは難しい。

 法主に有利に働きそうなのは断然、妹姫のフェスト―ナである。彼女の乳母に、従兄弟の正室が選ばれたのはまさに僥倖だった。それにリスデシャイル皇子が亡くなったのも結果としてはいい風向きになって来ている。時間はかかったが、報酬の果実はたわわに実り始めている。


――もうひと押しが欲しい。触れなば落ちんとなるまで持っていかないとならん。そのためにも。


 法主の上唇が邪悪にめくれ上がる。邪な光を宿す彼の笑顔にサティナは気づかない。口を極めて皇太子とその周囲を悪罵する彼女には、目の前の人物の様子など全く目に入らないのだ。


 法主はゆったりと椅子の背にもたれて、両手を自らの肥え太った腹にちょこんと乗せた。

「時にサティナ殿。何か不足している物はございませんか? お望みの物は何でもご用意させていただきますので、遠慮なくおっしゃってくださいよ」

「ありがとうございます。法主聖下」

 そう答えて、サティナは肩に掛けている艶やかな毛皮のケープをそっと撫でる。

「この間、届けていただいたこのケープ。とっても重宝しておりますわ。本当に何から何まで」

 

 彼女の視線が贅沢なしつらえと調度品の揃った室内をざっと巡った。小さいながらも居心地良く整えられた室内は今2人で相対しているソファーセット、ライティングビューロー、チェストなど。素人目にも一流品とすぐ分かる逸品がセンスよく配置されている。


 サティナの言葉に対して、法主はいやいやと手を振った。そして、さも心苦しいという表情になる。

「精道神アマワタルの血を引く御方をこのようなあばら家に押し込めて、誠に申し訳ない。本来ならば貴族街に館1つ用意するのが筋というものでしょうに」

「とんでもないですわ! 実家から逃げ出して、行く当てのない私に温かいお言葉をかけて下さった御恩は忘れませんわ」

「まぁ、サティナ殿の母君の事を悪くは言いたくないのですが……。国を憂い、そのために行動を起こした娘を褒めるどころか、軟禁とは。少々、狭量に過ぎるというもの。サティナ殿が逃亡したのもやむなしでしょうな」

「そう! 全くもってそうですわ」

「残念ながら母君の理解を得ることができませんでしたが、是非とも私は貴殿を支えたい」


 法主はそこで一旦、言葉を切った。

 ぐっと身を乗り出して、一段声を落とし、効果的に聞こえるように言う。

「サティナ殿。貴殿こそ、この国をあの欠陥品から守ることの出来る方なのです」

「私……私が?」

「そのための助力なら私は進んで致します」

 

 サティナは肩を抱くようにぐっとケープを両手で握り締めて、法主の言葉を咀嚼し、呑み込んだ。法主の仕込んだ甘い毒がじわじわと彼女の意識を汚染していく。

 肥大化した自意識と伴わない実力。現実を見ようとしない彼女にとって、法主の全てを肯定する言葉、恭しく接して来るその態度は麻薬以外の何物でもない。

 

 法主は囁く。

「さぁ、何なりとこの私めにお申し付けください」

「そこまでおっしゃっていただけるのなら……」

 サティナはすっと身を起こして、堂々と胸を張った。畏まる法主に言い渡す様はさながら皇族のそれである。

「新しい侍女が欲しいですわ。今の者では私の側に置くには粗野に過ぎるように感じます」

「これは思い至らず! さぞやご不快な思いをなさったでしょう。急いで手配させていただきます!」

「ええ。それと、皇庭への復帰のお話も。フェストーナ様にはくれぐれもよしなに」

「もちろんですとも。フェストーナ殿下もサティナ殿の現状には深くお心を痛めておいでです。近い内に必ずやお救いいただけることでしょう」

 サティナが小さく感嘆の声を上げて、ほうっと満足そうに息をつく。法主は大仰に頭を垂れて、伏せた面をにやりと歪ませた。

「今しばらくの御辛抱を」


◆◇◆


 法主の背後で扉が閉じられる。

 眼前に広がるのは、中流階級の人々が住む前庭すらない小さな家々の連なりだ。法主が出て来た家もそういったささやかな家の内の1つである。

 

 通りへ出て来た彼の前に、この区画には不釣り合いに贅沢な作りの馬車が横付けした。絢爛な衣装を着込んだ御者がさっと開いた扉の奥から呼びかける声がある。


「こんな所で何の悪だくみかしら」

「これはこれは」

「あなたの悪癖に興味はないわ。それよりも例の話進んでいるのでしょうね」


 馬車の奥に座り、傲慢な横顔を晒しているのは警務師大師院に議席を持つランディバル侯グリゼルダだ。彼女は手にした扇子を気まぐれに開き、艶やかな口元にふうわりと当てた。


「既に過半数は確実かと」

「ま、あなたなら抜かりなんてないでしょうけど」

「お褒めに預かり光栄です」

 グリゼルダはそれには答えず、ただ小馬鹿にしたようにふん、と鼻を鳴らす。

「夫君に成り代わり警務師大師卿になられるとは。女神の揺り籠はお飽きになられましたか」

「今の大師卿達は無能過ぎなのよ。だからあんな階層の者が平気で大務になる」

「何でしたか? ザインベルグとか申す胡乱な者ですな」

「聞くもおぞましい」

 グリゼルダの華奢な手の内でぴしり!、と鋭い音を立てて扇子が閉じた。彼女はぎり、と唇を噛み締めて苛立たし気に首を振り、ようやく法主に目を向けた。

「あなたにも存分に働いてもらうわよ」

「お任せあれ」

 法主は右手を胸に当て軽く頭を垂れる。

 彼の前で扉が閉じられると馬車は大通りに向かって去って行った。小さくなって行く馬車の影を見送りつつ、法主の相貌が緩む。


「かくも人の欲望はまなこを塞ぐか、だからこそ私の糧となる」




※用語が分からない方、確認したい方は下のリンクから用語解説に行けます。

https://kakuyomu.jp/works/16817330649949704724/episodes/16817330658007556572

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