第11話 美しい国
皇城ミラリスバンツ、謁見の間は異質な沈黙に包まれていた。
片膝をついて帰国の口上を述べた和佐はその場で顔を伏せている。皇帝は押し黙ったまま、玉座下に跪く彼を見つめている。
見かねたカスターリッツ礼綱大務が控えめにオホンと咳払いした。
「陛下。お言葉を」
突然、皇帝が立ち上がる。その場の全員が戸惑う中、皇帝は玉座前の階段を足早に駆け下りた。
「陛下」
制止に入ったスルンダール上級伯の脇をすり抜けて、跪く和佐の前に立つ。頭を垂れる栗色の艶やかな後頭部を彼は無言のままに見降ろした。
「赦す。面を上げよ」
「は」
凛とした響きが心地よく広がり、鳶色の澄んだ双眸が皇帝に向けられた。
瞳も髪も似ても似つかない色をしている。しかし、呆れるほどに色濃く残った面影に胸が疼く。
真地一を謳われる美しい妻を娶り、3人の子に恵まれ、満ち足りて行く生活の最中でもふと立ち上る過ぎし日のこと。この20年で忘れたことはない。
せっかくお前は戻って来たのに。
「このような事になり私としても残念だ」
曖昧な気持ちのままに言葉を紡いだ。この時を終わらせたくない。彼をこの場から去らせたくない。公私の別が皇帝の中でせめぎ合う。
「此度のこの紛争。帝国はどちらにも組しない。その旨をしかと父君に伝えておいてくれ」
「ありがたきお言葉。我が父も陛下の心強いお言葉に必ずや安堵することでしょう」
平坦な1本調子で答えて、和佐は真正面から皇帝に視線を返す。その視線には和佐らしい温かみはなく、只虚ろな光があるのみだ。
だが皇帝がそれに気づくことはない。彼は彼で自分の内にある秘めた記憶に気をとられていたからだ。
「もしそなたさえ良ければの話だが」
言い置いて、考え付いた未来に顔をほころばせる。
「紛争が終着したら帝国に戻って来るが良い。今度は我が国に長期滞在してじっくりと勉強していくがいい。皇太子も喜ぶだろう」
あれだけ睦まじく踊っていたのだ。皇太子とて憎からず思っているはずだ。この王子がより長期間側にいれば、2人の仲は周知の事実となり、皇太子夫君の道とてきっと開かれる。
「どうだ悪くない話ではないか?」
ほとんどおもねるように問いかけた皇帝を和佐は無表情に見上げる。
「
一語、一語、念押しするかのごとく言った和佐の前に皇帝は膝をついた。
「そなたの母は我が妹。母を共にするただ1人の妹だ」
親しく彼の肩に手を置き、皇帝は衝動的に吐露した。
ざわりと動揺が走る。壁際に配置された儀仗兵、近衛騎士達の面々をスルンダール上級伯がざっと見回す。カスターリッツ伯爵夫君はどこか諦観した様子で深く溜息をつき、目を閉じた。
一度決壊した積年の思いはもう止めようがない。彼は和佐の手を両手で包み込み、ほとんど縋るようにして自らの額に押し頂いた。
「そうだ。そなたの母は我が妹。20年前に失踪した最愛の妹だ。この20年間、彼女のことを思わない日はなかった。異国で果てたのかそれとも生きているのか。そればかり思っていた。まさか紫翠国で生きていたとは……!」
「しかし母は7年前に他界しました」
「でも、でもそなたがいる!」
皇帝は震える手で和佐の頬を挟み、彼の額を自分の額に寄せる。
「そなたこそ忘れ形見。妹の生きた証だ」
皇帝は胸の内で雄叫ぶ。
もう放したくない。
あの日、自分の胸に縋った可憐な細い手を。見上げて来る涙に濡れた美しい瞳を。
――この王子を帰したくない……!!
「陛下は私を手元に置きたいと?」
「もちろん相応の立場は用意する そなたは我が甥だ」
皇帝は勢い込んで前のめりに答えた。
「そなたに異存がないならば、皇太子と……」
「しかしそれはどうでしょうか?」
和佐は皇帝の手から逃れて、わずかに身を引いた。
「どういうことだ」
皇帝は和佐に、にじり寄る。その膝が和佐の影にかかった。
「なぁリスディファマスよ」
地の底から這いあがる声。和佐の口元が愉悦に歪んだ。はっとして後ずさろうとした皇帝の左手を和佐が捉える。
彼は皇帝の耳元に口を寄せて囁いた。
「道ならぬ劣情の落とし所を見つけたわけか、お前」
驚き竦む皇帝の耳元で声が二重三重に響いた。
和佐は皇帝の手を放して、何もなかったかのようにその場に跪く。
皇帝は一瞬だけがくりと頭を垂れたものの、すぐにゆらりと立ち上がった。
「すまぬ。取り乱した。今、言ったことは忘れてくれ。懐かしさについ我を忘れてしまった」
「……はぁ」
和佐は呆けた目をぱちぱちと瞬かせる。そして寝起きの風情で玉座へと戻って行く皇帝を見送った。
「陛下」
渋面で立ちはだかったスルンダール上級伯の肩に皇帝はポンと気安く手を置いた。
「すまん」
「まぁ、幸い他の大務はおりませんし。知れた所で大したことはございません ですが無用の混乱を招くことでございます」
「はは、そうか。面白そうではないか」
皇帝は玉座に至る階段を見上げた。
1歩踏み出す。そしてまた1歩。
しっかりとした足取りで階段を上がった彼は、ばっと華麗に裾を払い玉座に腰を降ろした。
昂然と顔を上げる皇帝の背後。
壁に高々と掲げられた、二重円環に茂る源樹の国旗が風もないままにゆったりと揺れる。
「紫翠国第3王子忍ノ御門和佐殿。使節団団長の役目大儀であった。汝らの道中にカルラ神のご加護のあらんことを」
沈黙の謁見の間に威光のこもった声が堂々と響き渡った。
朗々と語りかける皇帝の姿は真地に君臨する大帝国、フォーン帝国の君主たる威厳と貫禄に満ちている。先程の狂乱を完全に黙殺して、彼は射竦める強い眼差しで和佐を見た。
「そなたの働き、誠に見事であった」
唇がにぃっと横に吊り上がる。
「幾健やかにあられよ」
そう言って皇帝リスディファマスは玉座の上で悠然と足を組んだ。
◆◇◆
皇宮を辞して玉都内を抜けて行く途中、不意に和佐は馬車を止めさせた。
「殿下」
「ごめん、少しだけ」
砂霞に断りを入れて単身馬車から降りる。
和佐は手を目の上にかざして眩しそうに後方を見やった。高く遥かに伸びあがる秋晴れの空の下。小高い丘に建つ広大な皇宮が偉容をさらしている。
色彩豊かな屋根の間から窺う皇宮はさながら波間に漂う戦艦だ。
今日もあの中で様々な人がそれぞれの立場で動いている。その中にはあの方も含まれる。少し小首をかしげて、時折不安そうな視線を誰かに向けて。必死に前を向こうと奮闘しているに違いない。
「最後に一目お会いしたかった……」
思わず洩れ出た本音は行き交う馬車の音に踏み潰される。
しかしこれでよかったのだ、とすぐに和佐は思い直す。
何せ最近では記憶が途切れることが頻発するようになっている。今日とていつ宿を出立したかはもちろん、いつ皇宮に行ったのかも全く記憶にない。気づいたら皇帝が玉座に戻って行くところで正直、肝の冷える思いがした。だが周囲の様子を見る限りではちゃんとやり通したのだろう。
一体自分に何が起こっているのか。全く分からない。
はっきりしているのは、後ろ盾を持たない上に混血の王子と、蔑まれる環境に戻って行く。それだけだ。
夢のような日々は終わりを告げた。
皇宮の門は彼の後ろで固く閉ざされて、二度と開かれることはない。
吹き降ろす風は微かに冷たさをはらみ、染み入る寂しさで両脇を抜けて行く。
かざした手を降ろして、和佐は深く、深く息を吸った。
最後の自由の香りを肺いっぱいに満たして、尽きせぬ想いを秋風に乗せて、彼は伸びやかに言った。
「美しい国だ」
◆◇◆
かくて紫翠国第3王子忍ノ御門和佐は、玉都アディリス=エレーナを辞して帰国の途に着いた。帝紀466年
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