第9話 遠い火蓋

 帝紀466年ルフィナール9月中旬。フォーン帝国、同盟国シャン=ルーはかねてより領土争いをしていた隣国、紫翠国に突如進軍。領有権を主張する紫翠国南部地域の要衝、泰浦たいふにて、領主・旗島きとう家の軍と衝突。両国の休戦協定は5年間の安寧の後に一方的に破棄されたのであった。


◆◇◆


 フェスタローゼは唇を引き結び、厳しい表情で皇城ミラリスバンツの廊下を歩いている。付き従うアンリエットも緊迫した表情で、ほとんど小走りの主人の後を追っている。

 シャン=ルー挙兵の一報が突如飛び込んできたのは、渡りの結びの翌日の事だった。一報に驚き、和佐の元を訪ねたものの、返って来たのは彼は既に皇庭を辞し、玉都内の元々滞在していた館に移ったという、素っ気ない一言だった。

 

 ようやく目指す執務室の扉が見えて来た。

 悲壮感を湛えたフェスタローゼの瞳に廊下の反対から駆けて来るエシュルバルドの姿が入る。

 2人は執務室の前で自然と落ち合った。両者共に事態を憂慮し、入ってこない詳細に焦れている切羽詰まった表情をしている。


「お姉様も?」

「ええ。行きましょう」

 

  短く訊いてきた彼に首肯で返し、フェスタローゼは執務室の扉をノックした。

 出て来た皇帝秘書官に当たる、太密たいみつは2人を見て取るとすぐさま、「少々お待ちください」と言って一旦扉を閉じる。

 

 扉は直ぐに開けられて、フェスタローゼとエシュルバルドは室内へと招じ入れられた。室内には皇帝リスディファマス、皇内大務スルンダール上級伯、礼綱大務カスターリッツ伯爵夫君の3人がいた。皆一様に難しい表情をしている。


 皇帝は娘と甥を一瞥して、頬杖を解くと書机の前にある応接セットを指し示した。

「やはり来たか」

 並んで座った2人に向けられる瞳は、緊迫した空気の中でも温かみがある。


「陛下。この度の紛争は帝国としてどうなさるおつもりですか」 

 フェスタローゼは和佐はどうなるのか、と訊きかけて言葉を変えた。芽生え始めた皇太子の自覚がそうさせたのだ。

 イの一番に和佐の事に触れると踏んでいた皇帝は一瞬目を見開いた。

「そうだな」と返す言葉に存外の喜びが一抹入り込む。


「帝国としてはまずは静観、といった所だな」

「シャン=ルーには組しないと?」

「今のところは、そうなります」

 訊き返したエシュルバルドにカスターリッツ卿が厳かに言い渡した。


「今のところは」とオウム返しにフェスタローゼは呟いた。

 それはつまり状況が変われば帝国がシャン=ルーに加勢するということである。紫翠国と、和佐の国と一戦交える可能性がある。その可能性は重くフェスタローゼの胸にのしかかった。

 

 つい昨日。あのように親しく踊ったのに。一夜明けたらまるで昨夜のこと自体が夢であったかのように、全てが一変していた。息がかかる程に間近で覗いた彼の瞳、穏やかに笑む顔、優しく包んでくれた手の温もり。狂おしい程に鮮やかに覚えている。

 それなのに、彼はもう敵国の人となるのだ。正直に言えば気持ちが追い付かない。でも、そんなことばかり思っていられない。

 フェスタロ―ゼは目の前の議論に集中するべく、背筋をぴんと伸ばした。


「そもそもシャン=ルーが領有権を主張している土地は、歴史的には紫翠国に利があると聞いておりますが」

「それはどこから得た情報でしょうか?」鋭くスルンダール上級伯が訊いて来た。

 暗に和佐だろう、と言いたげな彼の言い方に少なからず反発を覚える。

 フェスタローゼは皇帝の傍らに立つスルンダール上級伯に短く言い捨てた。

「いえ、自分で調べました」

 スルンダール上級伯は何も言わずに只、不快感を露わにしたフェスタローゼを一瞥した。誰かの入れ知恵でなければいい、と言いたいのだろう。


「領土の正当性はこの際関係ない。優先されるのは同盟関係の方だ。領土を得んがためのシャン=ルーの言い掛かりとしても、帝国はシャン=ルーに味方するのみだ。そうでなければ同盟の意味がなくなる」

「しかし帝国は紫翠国と国交樹立の準備があったのではないですか? 和佐殿下が団長の使節団はそのための布石と」

「いかにも」

 エシュルバルドの問いに皇帝はあっさりと頷いた。

 ならば!と食い下がる年若い王子に、カスターリッツ卿が残酷に言い切る。


「それは準備であって、紫翠国との国交樹立は未だ成立しておりません。故に領土の正当性が紫翠国にあろうと、この紛争において帝国が紫翠国に組することはあり得ません」

「しかし」と言いかけてエシュルバルドは黙り込んだ。聡い王子である。心は納得せずとも、大人たちの論理が正しい事を呑み込んだのだ。つまり今、自分の中に渦巻く感情は個人の只の感傷で、政に持ち込むべきものではないと。


「……分かりました」

 ややあって彼はぼそりと言った。常にない重々しく低い声だった。

 膝に乗せた手に力が籠っている。彼の中の全ての葛藤がそこに溢れているのだ。


「帝国としての立場はよく分かりましたわ」

 言いながら、俯いているエシュルバルドの背にそっと手をやる。2人共に気がかりな事はもう1つある。

「和佐殿下の身の安全は保障されるのでしょうか」

「それはもちろん」

 皇帝は間髪入れずに答えた。

「彼は帝国の賓客だ。手出しすることなど有り得ない」

「そう……ですか」

 ひとまず安心してもよさそうだ。父の口振りなら和佐の身に危険が及ぶことはなさそうである。それならばもう引き下がるしかない。

 フェスタローゼは皇帝に向かって深々と頭を下げた。

「委細承知致しました。突然に押しかけて大変失礼致しました」

「お前にとっても辛いことになってしまったな」

「え?」

 思わず訊き返す。

 皇帝はゆったりと椅子の背にもたれて吐く息と共に言った。

「随分と和佐殿下と親しくしていたようだから。残念な結果になってしまった。共にガルベーラの花を眺めた仲でもあるのに」

 

 そう言う皇帝の声に、真実残念に感じている気持ちが溢れていることが意外に思えて、フェスタローゼはじっと父の顔を見つめた。

 皇帝は無念そうに首を振り、肘置きに頬杖をつく。

「年齢もそなたと釣り合っておったし、気立てもよい。申し分のない人物だったのだがな……」

「それはどういう……」

 問うよりもスルンダール上級伯の制止の方が遥かに迅速だった。


「陛下」

 

 ぴしり、とスルンダール上級伯の声が耳朶を打つ。それだけで皇帝には彼の忠告が届いたようだ。

 皇帝リスディファマスは「いや忘れてくれ。戯言だ」と身を起こした。

「2人共、もうよいか」

 フェスタローゼはエシュルバルドと目を合わせてから、頷いた。

「十分です。お時間いただきありがとうございました」


◆◇◆


 帰国準備を進める砂霞の元を意外な人物が訪ねて来たのは、皇庭を出てから3日後のことだった。

 意外ではあったが、僥倖ともいえるその名を聞いて砂霞は身支度もそこそこに作業していた部屋から飛び出した。

 

 喫茶室に佇む華美に過ぎるその姿に向かって、「ジョーディ殿!」とかけた声が自分の予想以上に弾んでいたことが、彼女自身にとっても驚きに値することだった。


 目当ての人物、ジョーディはおや、と優雅にこちらを向いて胡散臭い、いつもの笑顔になった。


「そんなに喜んでいただけるとは。私が恋しかったのだね」

「いや、断じてない」と即答しつつも、このやり取り自体が懐かしくて口元が自然に緩む。

「即答とは意地悪な。少しは気を持たせてくださっても」

「そんな無意味な」

「こうして罷り越した友人に向かって薄情なことこの上ない」

「友人?」

「私はそのつもりだが」


 ふん、と砂霞は鼻先であしらった。しかし嬉しそうに綻ぶ口元に彼女の気持ちの全てが現れてしまっている。


「ふん!とは素っ気ない」と文句を言うジョーディにも砂霞の喜びは伝わっているようで、彼は「ま、いいでしょう」と1人頷き、砂霞をしげしげと見つめた。


「急な事だったね」

 しんみりと言った彼に砂霞も眉をひそめて同意する。

「余りに急なことで ちょっと……ね」

「殿下は? 気落ちされているのではないか」

「表面上はいつも通りに振る舞っていらっしゃる」

「そう……か」

 言外に滲ませたことにジョーディは痛ましそうに首を振った。砂霞も同じ気持ちだ。和佐がいつも通りに振る舞えば振る舞う程に、その傷心が砂霞の胸にも重くのしかかって来る。

 

「しかし良く来てくださった。実はこちらからお伺いしてもいいものか悩んでいたもので」

 

 その場に漂う重い空気を払おうと砂霞は強いて明るい笑顔をジョーディに向けた。


「ほぉ? 私に別離の悲しみを伝えたかったと?」

「いえ、断じてありません」

「断じ過ぎではないか、砂霞殿」

「貴殿は、はっきり言わないといけない御仁なので」

「私に対する誤解が激しくあるようだが」

 ぶつぶつ文句を言うジョーディを遮って、砂霞は勢いよく頭を下げた。


「ジョーディ殿! 1つ頼まれてはくれないでしょうか」

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