第3話 黄金の晩夏
晩夏の風が夕暮れ時の太暁宮の庭を抜けて行く。
夏の終わりに吹き寄せる熱気の抜けた風は、来る秋を思わせる幾許かの寂寥感がある。
しかし足元の苔むした石畳の所々には未だ、鮮やかな盛夏の緑が顔を覗かせて、その旺盛な生命力を見せつけていた。
フェスタローゼは足を止めて周囲を何度も見回した。
執念深く、念には念を入れて。しつこく辺りに人影がないかを確認する。
共に散策していた和佐が足を止めて、フェスタローゼの珍妙な行動を戸惑った表情で見つめた。
「あの、殿下。どうかなさいましたか?」
「し!!」
声を掛けて来た和佐を制止する。
ハルツグの目もなく、砂霞もついて来ていない、今が絶好のチャンスだ。
フェスタローゼはもう1回、周囲を確認すると、「和佐様、こっちこっち」と、彼の袖を引いた。
和佐の困惑を余所に、庭の片隅から道なき雑木林へと彼を
「殿下、どちらに」
「内緒」
こみ上げる笑みを口元で噛み殺して、目の前を塞ぐ枝をぱしん、と払った。
木々が厚く折り重なった雑木林は複雑に密集した枝のせいで薄暗く、夏でもひんやりと湿った匂いがする。優しくそよぐ葉の隙間からは茜の陽射しが斜めに洩れ出て、降り積もったままの落ち葉の上に幻想的な模様を作り上げていた。
フェスタローゼは低木の間を体を横にしながらすり抜けつつ、和佐がちゃんとついて来ているか見てみる。
だが、通い慣れているフェスタローゼとは違い、和佐にとっては全く未知の空間だ。はっきり言って獣道以下の道行である。
当然のことながら彼はフェスタローゼについて行けずに、遥か後方で蔓性の雑草と格闘中だった。
「和佐様ったら!」
じれったい思いで和佐の元まで戻り、その手を掴んで前進する。
事は一刻を争う。
庭に散策に出かけた2人が消え失せているのに気付かれる前に戻らなくてはいけない。
「どこまで行くのですか、殿下」
「後、もう少し」
勇ましく枝を払って、雑草を踏み分けて行くと不意に視界が開いた。
木深い暗がりから抜け出た先にあるのは神域の池だ。森閑とした池のほとりを足早に抜けて、小さな滝の裏手に回る。
更に短いトンネルを抜けて出た先に広がるのは、沈みゆく夏の太陽に照らされた玉都の姿。
フェスタローゼの隣で息を呑む気配が伝わって来る。
眼前に広がる果てなき屋並を言葉もなく眺める和佐の横顔に満足して、フェスタロ―ゼも街並みに目を向けた。
見通す遥か彼方で夕空と城壁とが混じり合い、街を縁取る黄金の雲となっている。
連なる屋根の間から、荘厳な影となって突き出ているのは玉都の各所にある大教院の尖塔だ。
一日の悲喜こもごもを終えて玉都は、夜を迎えようとしている。
「これは……黄金の海ですね」ようやく和佐が呟いた。
「ちょっとしたものでしょ?」
「いえ、ちょっとなんてものではないですよ」
「実はここが私とお兄様の秘密の花園ですのよ」
「え?」
和佐が驚いてフェスタローゼを見る。
フェスタローゼは微笑んで、足元に目を落とした。
2人が立っている場所をぐるりと囲むように茂っているのは、ぎざぎざの長細い葉だけになったガルベーラだ。
「これがあのガルベーラですか」
「ええ。残念ながら花の時期は終わってしまいましたけど」
「そうですか」
呟きに落胆の色が滲む。
それでも和佐は感慨深そうに風にそよぐガルベーラを見渡した。
「これが……。リスデシャイル様が殿下のために植え直したガルベーラなんですね」
「和佐様にお見せしたくて機会をうかがっていましたのよ」
ふふっと笑って、右手で髪を押えようと何気なく手を上げると、何故か和佐の左手がついて来る。
「え?」
つなぎっ放しになっている手に、始めあんぐりとしてから数瞬後に思いが至った。
「え? あら、やだ……あの、ごめんなさい!」
慌てて離そうとすると、和佐の手にぐっと力がこもる。
更に驚いて彼を見上げた。
和佐は目を細めて穏和な笑顔になる。
夕日の最後の一片が留まる黄昏時。
濃い朱の空が天頂から次第、次第に紺青の空へと変わりつつある。
微笑む和佐の耳の辺りで煌めくのは晩夏の一番星。
その一番星がすっと和佐の影に隠れて、彼の声が耳元で優しく囁きかけた。
「出来ればこのままで」
「え?」
身を離して和佐は唇に人差し指を当てる。
「是非とも御内密に」
フェスタローゼの頬にさっと赤みがさす。わずかに引こうとした右手を和佐の左手が引き戻す。
大人しく引き戻されるままにして、フェスタローゼはそっと彼に寄り添った。
仲良く寄り添う2人の影が、ガルベーラの葉に長く、黒々と尾を引いて伸びて行った。
一夜明けて。場所は太暁宮にあるフェスタローゼの自室。
フェスタローゼは筆記帳に書く手を気まぐれに止めてじっと見つめた。
昨日、和佐と繋いだ手の感触が生々しく甦って来て、せり上がる気恥ずかしさに耳が熱くなるのを感じる。
あんな風に異性と触れ合う事自体が初めてで、帰り道はまともに彼の顔を見ることすら出来ずに、太暁宮へと戻って来てからは半ば逃げるように、室内へと駆けこんでしまった。
もう少しあの状況を楽しめば良かったのかしら。いや、でもそんなはしたない。
胸の高鳴る愉快な繰り言は、はきはきとした明快な声で中断された。
「ここまでは大丈夫ですか? 殿下」
声の主は、乳母で中参丈のニ―ザ=サイジアンティス=タレイアだ。本日は彼女に頼み込んで帝国の貴族制度についてを再勉強している。
「え? あ、はい!」
「お手が止まってましたわよ?」
にんまりと目を細めるニーザの顔つきに胸の内を見透かされている気がして、慌てて言い返す。
「書いたところを見直してたのよ」
ニーザのにんまりがいよいよ顔中に広がる。
彼女はたっぷりとにんまりを楽しんでから、「ま、いいでしょう」と1つ頷いた。
「長らくお休みを頂戴致しまして、殿下にはご不便な思いをさせてしまったと、療養先でもずっと気にかかっておりましたのよ。この通りの元気な体に戻りましたから、今まで以上にばりばり働きますわ!」
「あら、頼もしいこと。本当、腰が回復して良かったわね、二―ザ」
「ええ。まぁ今更、殿下を抱っこすることは出来ませんが、水のたっぷり入った花瓶くらいなら難なく持ち上げてみせますわ」
「……程々にね」
「殿下もお庭の散策は程々になさいませね?」
ぴしりと打たれた見事な釘に、ただただ苦笑いで返す。
ニーザには叶うはずがない。何せ自分を育てて来た人だ。そして生みの母よりも余程長い時間を共にしている。
長期の不在の果てに戻って来た、太暁府の要石たるニーザに、フェスタローゼは心の底からの親愛の笑顔を向けた。
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