第2話 女神の夜 (2)
しばらく他愛のない話をしてキリエは帰って行った。
乗せられて随分と飲まされたザインベルグは1人、寝台に寝転がった。
これだからあいつと飲むのは嫌なんだ。
日々の激務の疲れと、飲み過ぎた酒とが
どのくらい横になっていただろうか。
頬にかかる柔らかい布の感触に目を開ける。
灯りの落ちた薄暗い部屋の中で、スイハの顔がすぐ目の前にあった。
彼女はザインベルグの額に1つ口づけを落とす。
「アルフレッド様にしては珍しいこと」
上着が肌を滑る艶っぽい音がして、夜目に仄白くむき出しの二の腕が肉感的に浮かび上がる。
スイハは寝台に腰かけて、細いしなやかな指先をザインベルグの胸元につぅーっと滑らせながら甘やかに囁いて来た。
「今宵はどうなさいますの?」
スイハを見上げる。
酔いの回った目に映る彼女はこの上なく魅惑的で官能的で。
胸元を滑る手を取り、引っ張るとスイハは訳もなく腕の内に倒れ込んで来た。
誘うように半開きになった妖艶な唇に吸い寄せられる。
吐息が混じる程に彼女の顔が近付いた時、唐突にシャルロットの笑顔が浮かんだ。
婚約が決まってから侯爵家を訪ねた際に、頬を薔薇色に染め上げて嬉しそうに駆け寄って来た彼女の可憐な姿が。
何でなんだ。
政略結婚な上に、15も年上で、しかも家門も爵位も格下の家に嫁がされるのに。どうしてあの人はあんなに幸せそうに駆け寄って来たのか。
分からない。シャルロットが何を考えているのか。
募る欲情が急速に冷めて行く。
ザインベルグは横ざまにごろりと転がって「やっぱり寝る」とぶっきらぼうに言った。
“ 今晩にでもスイハに手ほどきを受けた方がいい ”
お節介な札引きの言葉が今更、甦る。
そうだ。何も奴の口車に乗らなくてもいいじゃないか。
「あら、それは残念」
するりとスイハの腕が体に巻きついて来る。
胸に軽く乗せられた彼女の頬の温かみを感じながら、気怠く訊いた。
「今、何刻?」
「さっき
「じゃあ、
「承知致しました」
スイハの柔らかい髪の間に指を入れて梳きながら、うとうとと微睡かける。意識が酔いに引きずられていくその刹那、不意にスイハが呟いた。
「やっぱりアルフレッド様には奥方様が必要ですわね」
「どうして?」
「御自分の限界を知らない方だからですわ」
そう答えると彼女は一層強く胸に頬を寄せて来る。
「奥方様になる御方、私とさして年齢が変わらないのでしょう?しっかりとアルフレッド様を叱ることのできる方だといいのですけど」
「不穏だなぁ。私が何をするんだ」
「アルフレッド様は御者のいない早馬ですもの。少しは自覚なさいませ」
「御者のいない早馬ね」
「でも悪い事ばかりじゃないと思いますわ」
闇の中からスイハの声がする。
「それだけ脇目も振らずに疾走してきたって証ですからね」
「疾走……」
「疾走する方、個人的には好みですわよ」
しっとりと笑いを含んだ声で言って彼女はザインベルグの頬を優しく、まろやかに撫でた。
「由無い事を申しましたわね。さぁ、お休みくださいませ」
目を閉じる。
瞼の裏に浮かびかけたシャルロットの面影を振り払いたくて、ザインベルグはスイハの細い肩を抱き寄せた。
濃密な真夏の夜の熱気に包まれて、女神の夜は更けていく。
一方、色街から遠く離れた貴族街の一角にある、一際大きな屋敷。帰宅したばかりの当主グリゼルダが、盛大な溜息と共に瀟洒な扇を居間のテーブルに放り投げた。
扇は豪奢なテーブルを滑り、かつんと灰皿に当たって止まる。
グリゼルダ=サイジアンティス=ランディバル。世間ではランディバル侯爵で通っている彼女は、くっきりとした顔立ちの目を引く美人である。
数多の男性を魅了する
やや目尻の上がった瞳が、贅を凝らした居間の中を彷徨い、奥の一点で止まる。
「あら、いたの」
窓際に置かれた安楽椅子で1人寡黙に盤上ゲームのポステアに興じているのは、10数日振りに見かける夫の姿であった。
グリゼルダの言葉に、あぁともふんともつかぬ返事をして夫は駒をぽんっと置き、考え込んでいる。
つまらない男。1人であんな事をして何が楽しいのかしら。
煙草をぎゅっと灰皿に押し当てて火を消し、手袋の紐を緩めながら夫に近づく。
「そういえばメサーユンデール侯が警務大務をおやめになるのよね」
沈黙。おざなりに「ああ」の声。
「もっと続ければよろしいのに。メサーユンデール侯は能力も間違いないし、本当に適任だったわ。やはり大務や
「うん、そうだとも」
「それなのに今の大務連中は何なのかしら。8人中5人が
「そうだねぇ」
全くの上の空で返しながら、夫は駒を進めて腕を組む。
「それで? 後任はもちろんモロヴィー上級伯なのよね?あの方なら安心だわ。
「ん? あぁ、ああ」
そこでようやく夫はグリゼルダに目を向けた。
温順なだけが取り柄の凡庸な男。
グリゼルダが侯爵夫君に取り立ててやらなかったら、今でもきっと単なる部屋住みでしかなかった男。グリゼルダの与えた立場のお陰で、ひとかどの人物として警務師大師院に議席があるわけだ。
大師院は官制八師それぞれに設けられた諮問機関で、各師の長たる大務に助言をし、師の方向性を定める首脳部に当たる。
そして大務が辞任した折には新たな大務を選出して、皇帝に奏上するのも大師院の役目の一つだ。
グリゼルダがメサーユンデール侯の勇退を耳にしてからしばらく経つ。そろそろ後任が決まったろうと考えて、候補者の中から唯一の適任者を上げた彼女に返って来たのは、予想外の結果だった。
「いや、違うよ。新しい大務はザインベルグ一等爵士だ」
首を傾けて耳飾りを取ろうとしていたグリゼルダの手が止まる。
彼女は滑稽に目を見開いて「え?」と問い返した。
「誰? そんな候補者いたかしら」
「いたよ。私は少し若過ぎるのじゃないかと思うが。何せ35才だ。私達とそんなに変わらない。でも、ま、首席准参預としての実績があるからね」
「知らないわ、そんな人」と呟きながら耳飾りをむしり取って、ぐっと握り込む。
「そりゃあ君は知らないだろうね。大師卿の仕事は私に任せるって言うから」
「……ちなみにそいつの家門は」
夫は首を捻りつつ、
「んー……マシェインタ……だから」
「マシェインタ!
「そんな事言ったって」
彼はふいっと目を逸らして、再び盤面に視線を落とす。
「家門は一番下の
何を言っているの、この男は!大務に
グリゼルダの目にカッと怒りが弾ける。
彼女は握り込んでいた耳飾りを思いっきり夫に投げつけた。投げつけられた耳飾りの片方が夫の肩に当たって床に転がる。
「優秀だとか実績だとか、そんなのどうでもいいのよ!! 大務に一番必要なのは家格よ、家格!
「仕方ないだろ、今更」
平生から妻の癇癪には慣れている彼は別段怒った風もなく、耳飾りを拾って、かたんと盤面に置いた。
「ザインベルグ殿はアウルドゥルク侯の娘と婚約しているんだよ。侯爵としても娘婿になる男に箔付けしたいんだろうよ。今回の選出に当たって大分、暗躍してたみたいだからな」
「それを分かってて何を悠長な! 今すぐ異議申し立てをしなさいっ。こんな無法がまかり通っていいはずないわ!」
「もう無理だよ。皇帝陛下への奏上は済んでいるし」
「本当にあなたって人は無能の役立たずね! こんな下らないことして遊んでいる間に、もう少しまともな働きをしてみせなさいよ!」
グリゼルダはポステアの盤面から駒を払い落とすと、くるりと踵を返し、憤然と居間を出て行った。
残された夫は、やれやれと腰を上げて床に散らばった駒を1つ1つ拾い上げながら、溜息混じりに呟いた。
「……だったら自分で大師卿をやれってんだ」
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