4章 胎動の予感
第1話 女神の夜 (1)
夜風に混じり、ドンチャン騒ぎの声がどこからか流れてくる。
艶やかな旋律に軽快な拍を打つ音、笑いさざめく声が気紛れに一際高くなり、水面に映る常夜灯がほのかに揺れる。
どこの真夏の夜よりも間違いなく暑い場所。
真地随一の不夜城であり、玉都の華・色街
「これでいよいよ、アルフレッド様も年貢の納め時ですわね」
その一角。賑やかな大通りから一本裏に外れた妓楼の一室で、スイハはしっとりと落ち着いた声音で秘めやかに笑い、客の空になったグラスに琥珀色の上酒を注ぐ。
「けれど、これでお見限りはご勘弁」と、きっちり付け加える彼女にザインベルグは曖昧な返事をして、グラスに軽く口をつけた。
濃く長い睫毛に彩られたスイハの薄茶の瞳が思わせぶりな光をはらんでザインベルグを捉え、テーブルの向かいに座るもう一人の黒衣の男へと向けられる。
黒衣の男、キリエはせっかちな動作で煙管から灰を落とすと、物言わずスイハに目配せした。
それはほんの一瞬のことで、注視していなければ分からない程に素早い一瞥だった。
「あら邪険なこと」
スイハは軽く頬を膨らませた。そういう表情をすると、まだ何となく少女らしさが垣間見える。
彼女は「ま、いいわ」と溜息ひとつ。ザインベルグの傍らから立ち上がると、つんと勝気に顎を突き出した。
「殿方同士のイケナイお話があるのでしょう?邪魔者は一時撤退しますわ」
「それなら待合で一節唄ってやるといい。今日は良く客が入っているから
そう言ってから、ひょいとザインベルグを見て「よろしいですね?」とキリエは確認して来た。本日のスイハに花代を出しているのは自分だから、当然と言えば当然だ。
「いいよ、行っておいで」
「では行って参ります」
ごゆっくり、と言い置いて彼女は退出していった。
いたずらっ子のような蠱惑的な眼差しが長く尾を引く。
5年前。この店に初めて来た時、彼女はまだ見習い中の娼妓で、亜麻色の髪は目を引いたが、今よりもやせっぽっちでもっとこじんまりとした印象だった。
それが今ではここ、
「スイハも5年目か。見違える美しさじゃないか」
「ナヅキが見つけた逸材でも最高ランクの1人ですからね、あれ位になってもらわなきゃ困るってもんですよ」
「小鳥の札引きの矜持か」
キリエは無言のままに、ふんとニヒルに笑った。
娼妓張りに美しい顔立ちは今年30才になる男とは到底思えない透明感をはらみ、得体の知れない闇を感じさせる黒の瞳は底なし沼の淀みを思い出させる。
娼妓をスカウトする札引きに齢15という異例の若さでなってから早15年。持ち前の胆力と並外れた洞察力、たゆまぬ努力とで、ドゥール=ベルテシアにその人有りと言われるまでに登り詰めた名札引き。それがこのキリエである。
「旦那。改めて乾杯致しやしょう」
キリエは酒瓶を手に取り、ザインベルグのグラスに並々と注いだ。代わってキリエのグラスに注ごうとするも、彼はそれを制して手酌をする。
そして目の高さまでグラスを掲げて不敵に笑った。
「アルフレッド様の前途洋々たる未来に。ご婚約おめでとうございます」
「大袈裟だな」
同じようにグラスを目の高さまで上げる。
キリエは1回でグラスのほとんどを飲み干してしまったがケロリとした顔をしている。彼と飲んでいると、まるで茶でも飲んでいるかのような感覚ですいすい飲んでいくので釣られてつい飲み過ぎそうになる。
「それにしてもアウルドゥルク侯はお目が高い。旦那に目を付けるとは侮れない慧眼だ」
まんま札付きの目つきでザインベルグを眺める彼に思わず苦笑してしまう。これでは見世場で娼妓を選んでいる客にかける言葉そのものである。
「これでやっと見えてきましたね、旦那」
キリエの言わんとすることはよく分かっている。大貴族の娘を迎えて目指すは頂点。警務大務の座、と彼は言っているのだ。
しかし、ザインベルグは否定も肯定もせずに「さぁ、どうだかね」と言葉を濁すに止めた。
「それにメサーユンデール侯もまだまだ健在だ」と駄目押しに付け加えてみたものの、意味あり気に底光りするキリエの双眸に無駄な努力と思い知る。
それも当然な話だ。夜ごと寝物語に種々雑多な情報が蓄積して行くこの街でひとかどの立場にいる男だ。政界でうねり始めた胎動を知らぬはずがない。
諦めにも似た境地でザインベルグは息をつき、キリエを見た。
全く。この男といい、あの男といい。厄介な2人と知り合ったものである。
“あの男”
同じように無数の情報が雪のように降り注ぐ宮廷の中で気障ったらしい笑みを浮かべるジョーディの顔が脳裏をよぎった。
しかもあちらはついに義兄となってしまった。
道具と縁は使い様なんていう古い言い方もあるが、ジョーディにしろキリエにしろ黙って使われるだけの人間ではないのは確かだ。
頼り過ぎるのだけはやめておこう。
心密かに誓って、ザインベルグはグラスを飲み干した。
早速、注ごうとするキリエを手で制して首を振る。
「何だ旦那。もう上がりですかい」
「十分飲んだよ。それより殿下の件では世話になったな」
「へえ」
ニヤリとキリエは笑った。子憎たらしいくらいに食えない笑顔だ。
「お役に立てたようで何よりです。ま、尤もアンナの野郎はやっぱりな結末でしたね」
「あぁ、まぁな」
ザインベルグは中途半端に合意する。
アンナことセルトは皇内大務の前に引き出される前に、牢内で自殺を遂げてしまった。
自殺であるかは限りなく疑わしい状況であったが、朱玉府が自殺と断定すれば自殺が事実となるだけだ。
もう一人の当事者である令侍のサティナは結局、実家預かりとなり宿下がりしていった。
あの令侍は“始まりの7氏族”に属する娘であるから、事件についての追及がされることはまずないだろう。
セルトとサティナの2人が法主の手先であった事実はセルトの死によって闇に葬り去られ、功を焦った皇太子が愚かな口車に乗ったという片手落ちな事実だけが世間に喧伝されてしまった。
「事件は半端に終わったが、皇太子殿下の元には乳母のタレイア伯爵が復帰されたようだから、大分隙がなくなるんじゃないか」
「やっぱり留守居の少参丈じゃ、役者不足ってことですかね?」
「少参丈というよりもあそこは大参丈が……」と思わず口にしかけて、キリエを見る。
キリエはいかにも何も知らないといった風情で純朴そうに微笑んでいるが、瞳の奥の老獪さまでは消し切れていない。
ザインベルグは首を振った。
「お前の口から少参丈が出て来るとはな」
「いやぁ、職業柄ね?宮廷のイイ女の話になると必ず名が出てきますからね。何でも奮いつきたくなるような美女だとか」
「確かに美女ではあるが、特筆する程のものではない。よっぽどかスイハの方がイイ女だ」
「スイハを褒めていただけるのは光栄の至りですけどね。少参丈を大した事ないと言い切るとは、宮廷ってモンは恐ろしくていけねぇ」
わざとらしく、こわやこわやと首を竦める彼に、「こちらだって同じようなもんだろう」と言い返す。
「色と権力は世の理の両輪でさ。情愛があるだけこちらの世界の方がちっとだけまともってもんですよ」
「何にせよ、今回は助かった。褒美を取らせよう」
ザインベルグは瓶を取り上げて空いたままのキリエのグラスに注いだ。
キリエはそれを受けつつ冗談ぽく口を尖らす。
「褒美だってのに色がなくていけねぇや」
「男2人ではな」
ザインベルグも気安く軽口をたたいた。
「それにしても旦那」
すいっと一口、酒を流し込んでキリエが訊いてくる。
「前々から気にはなってましたが、あっちの方は大丈夫なんですかい?」
「あっち?」
「いやぁ。若い奥方を娶るんだ。当然あっちの方で」
「そっちか」
突然の下方面の振りにザインベルグは苦笑いした。
ユベールでさえ訊いて来ない、こんな話題を臆面もなく直截に切り込んで来るのが、いかにも彼らしい。
「いや何せ世の中にはね、花玉を毎回指名して莫大な花代を払うくせに、添い寝だの膝枕だのだけで、しかも2、3刻程度で帰っちまう変態な客がいるらしいもんでね?」
まんま私の事か。
いよいよ苦笑いが深まる。
「いつもそうなわけでもない」
「ほぉ? よろしくやっていく日があると?」
「一体、何の心配をされているんだ、私は」
グイッとグラスをキリエに突き出す。すると彼はこぼれんばかりにたっぷりと注いで来た。
「今晩にでもスイハに手ほどきを受けた方がいい。新婚になるんだからミスティア神のご加護はいるでしょう。だいいち、幾ら
「口うるさい札引きもいたもんだ」
「札引きだからこそ言うんでさ。ドゥール=ベルテシアの娼妓は抱き枕じゃない。美と情愛の女神、ミスティア神のれっきとした使徒なのだから。抱きもしねぇ男に女神の加護は授けられんってもんですよ」
「御忠告痛み入る」
おどけて頭を下げる。
キリエの方はまだ言い足りなさそうな顔をしていたが、「ま、いいでしょう」と煙管を取り出した。
一服した彼の周りにふわりと紫煙が広がる。
丁度、煙幕のようになった煙の向こうから、人を食った掴み所のない瞳が真っ直ぐに射抜いて来る。
こちらを射抜く瞳を見返すと、たちどころに飄々とした光が瞳を覆いつくしていった。
大遊里だって十二分に恐ろしい所じゃないか。
こんな猛獣が眼前に解き放たれている。
※用語が分からない方、確認したい方は下のリンクから用語解説に行けます。
https://kakuyomu.jp/works/16817330649949704724/episodes/16817330658007556572
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