第2話 柔らかな手
空気を甘やかに震わし、胸をかき乱す旋律が室内に溶け込んでいく。
砂霞は月琴を抱えたまま、正面に座るエシュルバルド王子に一礼した。
「お耳汚しを」
「実に素晴らしい!」
一拍置いてエシュルバルドの高らかな声が場に響く。
彼は熱狂的に拍手をしながら、興奮冷めやらぬといった風情で感想を
「哀愁を帯びた切なくなる音色が病みつきになりますね。情緒的で細やかな表現力も実にいいです!」
なおも拍手しながらエシュルバルドは両脇に控える2人にも同意を求める。
両脇に控える2人。
向かって右の近衛騎士レトは人の良さそうな笑顔で、向かって左の帝国貴族ジョーディ=トソリアント=アウルドゥルクは、うんうんと頷きながら王子への同意を表わした。
「本当にいいものを聞かせていただきました。砂霞殿」
「お喜びいただけたようで、恐悦至極に存じます」
「これは是非、お姉様にもお聞かせしたいものです」
やっと拍手を終えてエシュルバルドは満足そうに一息ついた。
そしてぐっと前に身を乗り出して来る。
「類稀なる貴方の才に褒美を送りたいのですが。御希望があれば何なりと」
“いいね?砂霞”
和佐の声がふわりと脳裏で甦った。
砂霞は、いいえと首を振る。
「エシュルバルド殿下。それには及びません」
「え?しかし」
砂霞はスッと月琴を置いて立ち上がると、困惑した体のエシュルバルドの前へと進み出て、紫翠国式にその場で膝をつくと、両腕を胸の高さで組み、深々と頭を下げる。
「代わりに我が主へのお力添えを願いたく」
「和佐殿下に?」
エシュルバルドは傍らのレトを見上げた。レトが1つ頷くのを見届けて砂霞に目を戻す。
「お伺いいたしましょう」
「御恩情に感謝致します」
「あの、出来れば椅子に腰かけていただきたいのですが。その方が私も聞きやすいので」
「承知致しました」
砂霞は元々座っていた椅子に腰を降ろした。袂を払って、両手をたおやかに膝の上で揃える。
「それで和佐殿下の願いとは何でしょうか」
「皇太子殿下のことです」
「お姉様の?」
エシュルバルドの表情が引き締まる。
「主は皇太子殿下を今の状況から救い出したいと望んでおります。そのためにエシュルバルド殿下のお力をお借りしたいと」
「なるほど」
簡潔に返して、彼は首をかしげた。
「しかし何故、和佐殿下が?」
言い方は柔らかいが、底意にうっすらと不信感、次いで不快感が漂う。
当然の感情だ。
こちらの申し出が随分と失礼なのは分かっている。
ここからは間違えられない。
和佐の意図を的確に伝えねばならない。
砂霞は襟元をすっと正して、昂然と顔を上げた。
久方振りにつけた耳飾りがしゃらんと揺れる。
「皇族方の個人的なことに踏み込むべきではないのは重々承知しております。礼を失することであるのも十二分に。それでも世話になっている御方が、つまらぬ者のつまらぬ企みにはまって評判を落として行く様を黙って見ていることは義にもとります」
エシュルバルドは微動だにしない。
心持、目を見開いてこちらをじっと見つめて来る。見開いた両の眼で砂霞の、ひいては和佐の意図を見抜こうとしている。
この外国人の主従は信頼に足る者達か。
申し立てた真意は言葉通りのものなのか。
年若くあどけなさが抜け切らない風貌の王子だが、その眼力はほとんど大人のそれである。
エシュルバルド王子は聡い。だからこそ和佐も彼に白羽の矢を立てたのだ。
「確かに今のお姉様の状況に危機感を抱いている点は私も同じです」
「では」
素早い反応を示した砂霞を片手で制止して、エシュルバルドはすげなく首を振った。
「しかし帝国外の方を介入させるのは本意ではありません」
「でも」
「殿下、宜しいでしょうか」
砂霞の言葉にかぶせるようにして、横から入って来る声があった。地統大務アウルドゥルク侯の次男とかいう男、ジョーディだ。
エシュルバルドは首を巡らして彼を見やり、小さく頷いた。
するとジョーディは芝居がかった動作で仰々しく一礼してみせる。流行の最先端を行く完全無欠な格好をしているだけに、大仰なリアクションが一際嫌味っぽく映った。
そういえばこの人はどうしてこの場にいるのか。
せり上がって来た疑問を呑み下し、進み出て来た彼に注視する。
「私の意見を申し上げれば、和佐殿下のお申し出はエシュルバルド殿下にとっても悪くないかと」
「しかし」
「分かります。分かりますとも殿下」
人差し指をチ、チと振って大袈裟に同意しつつ、ジョーディはくるりと砂霞を見やって、「怒らないで下さいよ?」とウィンクを寄越して来た。
うへぇと洩れそうになった心の声をひた隠して神妙に頷く。
頷きはしたものの、心中にはしゃしゃり出て来たこの洒落者に対する軽蔑が急速に広がりつつある。
「では失礼を承知で申し上げますが。エシュルバルド殿下の懸念は和佐殿下にお力添え、いわば
「そんな事……!」
「だから、怒らないでとお願いしましたよ」
気色ばんだ砂霞にジョーディがすかさず投げかける。砂霞はぐっとこらえて続きを待った。
「非常に賢明な方ですね、貴方は」
じろりとジョーディをねめつける。
彼は気にした風もなく、くるりとエシュルバルドの方に向いた。
「まぁ、このように自制の利いた得難い御方と分かって私も安堵致しました。これで心置きなく彼女と同行できそうです」
「え?」
「は?」
エシュルバルドと砂霞の声が重なった。
余りに美しく飛び出したハーモニーにレトが、あはは、と呑気に笑い出す。
場を
何だろう、帝国騎士というのはこれが普通なのだろうか。
「いや、レト。笑ってるけど! ジョーディ殿もどういう事ですか」
「ですので、私がこの御方に同行致しましょうか、という提案です。同行するというよりは私の手伝いをしていただくと言った方が適当やもしれません」
「私が貴殿に同行するのですか」
驚いて自らを指差すと、ジョーディは「おや」と雅な動作で肩をすくめた。
「まさか和佐殿下自らが動き回る予定でいらしたのですか」
「いえ、そんな事は。殿下は私に動くようにおっしゃいました」
「そうでしょうね」
「でも」
砂霞は遠慮なく、じろじろとジョーディを不躾に眺めた。
金糸で縁取られた濃い薔薇色の上衣の裾からは、入念に整えられたであろう見事なレースが繊細なひだを作って、幾層も覗いている。
手は丁寧に手入れされ、桜色の爪が艶々と輝きを放っている。頭の先から爪先に至るまで完璧に飾り立てられたこの男に、いか程のものがあるというのか。整い過ぎて逆に胡散臭さしかないこの男に。
砂霞の無言の視線を受けてエシュルバルドが苦笑いする。
「砂霞殿。疑う気持ちは分かりますが。彼は宮廷内の情報にかけましては並び立つ者のいない事情通であるのは事実です。必ずやお役に立つでしょう」
「情報こそが我が力ですので」
優雅にしっとりと一礼したジョーディを見やり、エシュルバルドは付け足した。
「少々……何と言うか。こういう方ですが」
「こういう方とはどういう事でしょう」と、すかさず訊き返した彼にレトがおっとりと切り返す。
「気障に過ぎるということです。ほとんど道化だ」
「言いにくいことをズバリと言うね、君」
「我が主の口から言うと角が立ちますもので」
「君が言っても同義だと思うがね」
「おや、そうですか」
眉1つ動かさずにすっ呆けたレトに、思わずくすりと笑ってしまった。エシュルバルドも可笑しそうに口元を緩めている。
「砂霞殿」
目元に笑みを残したままエシュルバルドが呼びかける。
砂霞は居住まいを正して王子に向き合った。
「こういう次第ですので、和佐殿下にはお申し出ありがたくお受け致します、とお伝えください」
「……必ずや!」
ばんっと跳ねるように立ち上がって、深く一礼する。
帝国式も紫翠式もない。心の底から突き上がって来た感謝の気持ちに自然と頭が下がった。
何とか和佐の願いが通った。
ヒラヒラとした気に食わない男に救われたというのが少々癪ではあるが、目的が達成できるのであれば些末なことだ。
「ではジョーディ殿。この件は貴殿に託していいという事ですね?」
改めて念押しした年若い王子に向かって、ジョーディはゆっくりと左腕を開き、右手は胸に添えて膝を曲げた。
「仰せのままに、貴き御方よ。全身全霊をかけて事に当たりましょう」
「……その気障っぽさがなければもっといいのですが」
「ついに自らおっしゃってしまったな」
前を向いたまま、ぽそりとレトが呟く。
「無駄骨でしたね、レト殿」
「ごめんなさい、レト。つい言ってしまいました」
律儀にレトへ頭を下げて、エシュルバルドはほっそりとした手を行儀よく膝の上で揃えた。
「それで、私はどう動けば良いのでしょうか」
「いいえ。殿下は基本的にお声掛けをしていただければ結構です。実際にチョロチョロ動き回るのは私と砂霞殿の役目です」
「チョロチョロ、ですか」
反復するように呟いた砂霞にジョーディは「そう、チョロチョロです」と頷く。
「素知らぬ振りで、時には馬鹿者であるかのような顔をして、こうチョロチョロと」
ジョーディの手が鍵盤をなぞるのとそっくりな動きで左右に目まぐるしく動く。
その動きを目で追いながら、心もとない、曖昧な気持ちで砂霞は言った。
「承知致しました」
「私達きっとうまくいきますよ」
彼はぐっと胸を張り、おもむろに手を差し出して来た。
「では、よろしくお願い致します。相棒殿」
砂霞は目の前に差し出された手をじっと見つめた。
手入れの行き届いた手はすらりと美しく、男性らしからぬ柔らかそうな物だ。間違っても手の平にマメなど出来ていない。
こんなつるりとした、まさしく掴み所のない手を掴んでいいものか。一体、この伊達者はどこまでの人物なのか。
分からない。全く以て分からない。
でも今は、この手の持ち主に付いて行くしかなさそうだ。
砂霞はジョーディの手をしっかりと握った。
「こちらこそ宜しくお願い致します」
全ては我が主のために。
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