第9話 木漏れ日の眼差し

「あの」と声をかけると、リスディファマスは目元を緩ませた。

 

 目尻に皺が寄る、穏和な笑顔はいつもの父の笑顔である。彼は手を伸ばし、思いつめた表情の長女のほっそりとした両手を取り、優しく言葉をかけた。


「お前もご苦労だったな。疲れたろ」

「いいえ。大丈夫ですわ」

 

 首を振り、目を伏せる。

 そのまま深く息を吸い、意を決して父を真正面から見つめる。

「あの、お父様。レオナール殿にも何卒寛大な処置を」

 リスディファマスの口元が一瞬、す、と引き締まった。フェスタローゼと全く同じ。深くきらめく碧眼が娘をひた、と捉える。

 

 怒られる。

 びくりと身を震わせた娘を、リスディファマスはしばらくの間、無言のままに見据えていた。

 怒るでもなく、嘆くでもなく、ただじっと。

 それはこちらの意図を見極めようとしているようでもあり、意見を翻すのを待ち構えているようでもあった。

 

 気まずい沈黙が続いた果てに、フェスタローゼに向けられた声音は意外にも、柔らかく情のこもったものだった。


「それは娘としての願いか」

「あ、あの……ええ、はい」

 

 慌てて同意した彼女に、父は笑顔のままで言った。


「だったら言う場を間違えている。ここは執務室だ」

 フェスタローゼは口をつぐんだ。


「時にフェスタローゼ」

 

 リスディファマスはフェスタローゼの手を放し、椅子の肘掛けにゆったりと頬杖をついた。


「和佐殿の接待はちゃんと務めているか。不自由などさせてはいないかね?」

 この話はこれで終了、という明確な態度に少なからずがっかりとして、フェスタローゼは肩を落とした。


「ええ。出来るだけの時間を割いて、日に一度は必ず顔を出すようにはしております。今日もこれから会いに行こうかと」

「そうか」

 リスディファマスは頬杖を解いて満足そうに頷く。

「ちゃんと務めていてくれるならばいい。だが、根を詰め過ぎて息の仕方を忘れぬようにな」

「え?」

 

 軽く目を見張ったフェスタローゼに父は穏やかな表情のまま、しかし抗えない強い調子で告げた。

「ここの所、何かと焦っているように見える。お前に取り入るためならば人はいかような手段でも使う。耳に心地よいことを言う者は腹の内に毒を持っていると心得よ」

「……承知致しましたわ」

 ぎゅうと胸元を握る。

 リスディファマスはその手を一瞥したが、それ以上は何も言わずに顔を背けると机に積んである書類を手に取った。

「失礼致します」

 声をかけると父は目だけ上げて、すぐに書類に目を落とした。


 すっかりと冷え切った心のままに、アンリエットを伴って廊下へ出ると、執務室からやや離れた所で話し込んでいるラハルトとスルンダール上級伯が目に入った。

 しかもスルンダール上級伯がラハルトに深く頭を下げている。


「殿下、よろしくお願い致します。オルドス様にはどうぞよしなに」

「分かった。安心してまかせられよ。そのために使者に手を挙げたのだ」

 ラハルトはスルンダール上級伯の肩に気安く手を置いて、励ますようにポンっとたたいた。


――これはまずい所に出て来てしまったかしら。

 

 いつでも冷静沈着でむしろ傲岸にすら見えるスーシェの父が、あのように頭を下げている場面なんて初めて見た。


 気まずく感じて回れ右をしようとしたが、それより早く、身を起こしたスルンダール上級伯と目が合ってしまった。

 こちらを射抜いてくる厳しい眼光に竦んで、その場に立ち尽くしていると、彼は真顔のままで「皇太子殿下」と呼びかけて来る。


「何……でしょうか」

「皇太子殿下は実にお優しい」

 

 叱られているのかしら?と訝しむ程に、ニコリともせずにスルンダール上級伯は言う。

 喜んでいいのか、恐縮しないといけないのか。

 判断がつきかねてフェスタローゼは「ありがとうございます?」と疑問形のまま答えた。傍らのラハルトが苦笑いする.


「これでも褒めてはいるらしい」

「慈しみの心は得難い特質です」

 そう言って、切れ者の皇内大務は一旦言葉を切った。

「しかし、付け込まれぬように。私はそれが気がかりです」

「……分かりましたわ」

 素直にこくりと頷く。

 スルンダール上級伯はラハルトの方へ向き直った。

 話は以上らしい。

 フェスタローゼは2人に会釈してアンリエットと共にその場を後にした。


 和佐を訪ねると案内されたのは庭であった。

「あちらにおみえです」

 令侍の示す先にはガゼボで読書している和佐の姿があった。ガゼボの入り口にはいつもの通りに砂霞が待機している。


「ここまでで結構よ。ありがとう」

 令侍はふわりと膝を折り、滑るような足取りで去って行った。


「ご機嫌よう、和佐様」

 近付きながら声を掛けると、和佐は頬に当てていた栞を外して柔らかな笑顔を浮かべた。

 親しみに溢れた爽やかな表情が、先程の報告会で擦り減らした心にしみじみと温かく染み渡って行く。

 この王子の柔和さには日々本当に救われている。どちらが接待されているのか分からない程に。


「今日はお庭ですのね」

「ええ。久し振りに晴れ間が出たもので」

「明日からまた雨かしら。早く雨季が終わって欲しいものですわ」

 お邪魔しても?と入り口で首をかしげる。

 和佐はパタンと本を閉じて頷いた。

「もちろんです。殿下」

 裾をからげて段差をまたぎ、ガゼボ内の籐椅子に腰を降ろす。

 今日の彼は風通しの良さそうな上布じょうふの平服を着ている。意匠化されたツル草が織り上げられた薄藍の上布で作られた平服は目にも涼しく、和佐本人にもよく似合っていた。


「お忙しい中、いつもありがとうございます。どうやら一段落ついたようですね」

「ええ、まぁ。ひとまずの区切りにはなりましたから」

「何でも給仕の中に自死を選んだ者までいたとか」

 和佐の言葉に、付き従っていたハルツグの顔がふと打ち沈む。


「給仕と言いますか……給仕を管理する役職の内侍司ないしのつかさ参正さんしょう殿ですわね。父1人娘一人で頑張ってみえたのに、何故あのようなことに」

「そのご令嬢はどちらに?」

 思わず訊いたフェスタローゼだが、ハルツグは軽く首を振る。

「私も良くは存じ上げませんの。ただお父様の御遺体の引き取りにはみえなかったようで……」

「ご令嬢も今はさぞお辛いでしょうね。私も7年前に母を亡くしておりますので辛さは多少分かります」

「もしかしたら引き取りに行けない別の理由があるのかもしれないわ」

「それはどういう?」


 和佐の疑問にフェスタローゼは、はっとなって口を噤む。

 慌てて、「あら嫌ですわ、忘れてましたわ」とハルツグの持っていた花籠を受け取って和佐の前に差し出した。


「今日はガルベーラをお持ちしましたのよ。片隅に飾って下さいませね」

 花籠いっぱいに摘んだ色とりどりのガルベーラを和佐に見せる。彼は嬉しそうに目を輝かせて、花籠を興味深げに覗き込んだ。

「これがガルベーラですか! 初めて見ますが鮮やかで目を引く花ですね」

「あら、紫翠国には咲きませんの?」

「我が国は帝国よりも全体的に気温が低いもので。母が時々、ガルベーラも育たないなんてと嘆いておりました」

「お母様はガルベーラを御存知ですのね」

「私の母は紫翠人ではないのですよ」

「あら」

 軽く目を見張ったフェスタローゼに和佐はどこか寂し気に微笑み返した。


「このガルベーラは太暁宮で咲いているのですか」

「太暁宮の庭ではないのですけど。近くに咲いている所がありますの」

「それはいいですね」

「ええ」

「皇太子殿下、そろそろ」とハルツグがそっと耳元で囁く。

「あら、もうそんな時間ですのね?」


 フェスタローゼは溜息と共に立ち上がり、眉を下げて苦笑した。

「慌ただしくて申し訳ございません、和佐様。またゆっくり紫翠国のお話もうかがいたいですわ」

「それは是非。いつでもお待ちしております」

「その時は多分、お供が増えましてよ。従弟のエシュルバルドが紫翠国の風習を知りたいと、目を爛々とさせていましたから」

「楽しみにお待ちしております」

「では、また明日お邪魔いたしますわ」

 フェスタローゼは軽く会釈すると、来た時同様、ハルツグを伴ってガゼボから出て行った。


 皇太子が去った後、和佐はすとん、と腰を降ろした。

 彼は読みかけの本を手に取ったが、すぐにテーブルに戻すと、目の前に置かれた花籠をじっと見つめる。

 先程まで柔らかく笑んでいた瞳は重く沈み、唇は真一文字に結ばれている。

 フェスタローゼには見せたことのない渋面で、和佐はガルベーラの花を一輪、手に取った。

 そして、その花を指先で弄びながら、ガゼボ入り口に控える砂霞に問いかける。


「どうにも、なぁ……」

「……ええ」

 砂霞は主の方に体を向けて静かに言った。

「宮廷に身を置いておりますと様々なことが耳に入って参ります。……あくまでも噂ですが太暁府の資金が急速に流出しているとか」

 和佐は深く溜息をついてガルベーラの花を見降ろした。

「皇太子殿下は……余り良くない状況だね」 

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