第4話 悲劇の娘

 窓の外では雨季の篠突く雨が音もなく降っている。

 窓ガラスに当たった雨だれが柔らかな跡をつけながらスルスルと滑り落ちて行った。


 メディク伯爵家の読書室に満ちているのは、滔々と詩を読み上げる伯爵の滑らかな声だ。

 伯爵の通り良い声は読書室のドーム状の天井に気持ちよく反響し、豊かな余韻を残して消え去って行く。


 本日は親交の深いメディク伯爵家での詩の読み合わせ会である。

 集まった貴族達は15、6人程度。

 比較的気心の知れた人々の集まりに身を置きながらも、フェスタローゼの心はともすると陰鬱に沈み込んでいく。


 伯爵の声は耳の表面をなぞって行くだけで内面には入って来ない。頭の中で繰り返されるのは、従兄・レオナールの放った言葉だ。


“精道法もまともに扱えない欠陥品のフェスタローゼ”


 “欠陥品”であることは自覚している。

 しかし自ら自覚しているのと、改めて他人に指摘されることは全くの別物だ。むしろ指摘されることによって傷口はより一層抉られる。


 しかもその指摘をしたのが、幼い頃より親交のあった従兄だった。その事実はフェスタローゼの心をさいなみ、黒く塗りつぶして行く。


 フェスタローゼはたまらず、そっと吐息を洩らした。

 ふと違和感に気付いて目を上げる。

 響いていた伯爵の声は止み、読書室に沈黙が降りていた。その場の誰もが怪訝そうにフェスタローゼを見つめている。


 フェスタローゼはぽかんとして、居並ぶ人々を見つめ返した。すぐに置かれている状況に気付いて、慌てて膝に乗せていた詩集を取り上げる。


「あの……ええと……彼の道筋は玉に彩られし……」


 しどろもどろに読み始めた彼女にメディク伯爵が、おほんと控えめに咳払いをした。

「殿下。いや、実に。その一文も珠玉と言ってよい一文でありますな。何度読んでも胸に迫る見事な情感の込められたものです」

「……ええ」

 フェスタローゼは唇をきゅっと噛んで俯いた。

 伏せた顔から耳の際まで瞬時に紅く染まって行くのが自分でも良く分かる。


「ごめんなさい」

 泣き出しそうな気持でやっと絞り出す。

「少し気分が優れなくて……申し訳ございませんが少し休ませていただいても?」

「もちろんですわ、殿下。さぁこちらへ」

 メディク伯爵夫人が席からさっと立ち上がる。

 フェスタローゼは夫人に誘導されるがままに、読書室を後にした。


 しっとりと趣のある応接間に通されたフェスタローゼはぐったりと安楽椅子にもたれかかった。

「殿下」

「ハルツグ、ごめんなさい。1人にして欲しいの。しばらく席を外してちょうだい」

「承知致しました」

 優しく頷いてハルツグは立ち上がる。衣擦れの儚げな音が遠ざかっていき、パタンと扉が閉まる。


 フェスタローゼは安楽椅子の上で縮こまり、両手で顔を覆った。

 またやってしまった。

 忸怩たる思いが汚泥となって胸を塞ぐ。閉じた瞼の裏にフェストーナの優越感に満ちた笑顔がちらついた。


 こんこん、とノックの音がする。

「どうぞ」と返すより先にサッと扉が開く。戸口に立ったサティナの姿にフェスタローゼは始め不機嫌に眉をひそめたが、直にはっとして目を見開いた。


「あら、もうそんな時間なの?」

「ええ。殿下。お約束のお時間です」


 先のレオナールの変に関することで相談したいと言っている方がいる。

 サティナに耳打ちされたのが数日前。

 今日はその人物と秘密裡に会うことになっていたのだ。


「今日の読み合わせにいらしてる方と聞いてはいるけど……」

 伯爵家の応接間を勝手に使っていいものか、という言葉が出るより先にスルリと入って来た女性がいた。

 

 年の頃は40過ぎ。紺地に金の縁取りが鮮やかな衣装を纏った女性だった。豊かな濃い茶色の髪をうなじでくるりとまとめる今年流行の髪型をしている。


「できれば場所を移した方が」と言いつつ、フェスタローゼは内心で首を傾げた。

 今日の会にこんな女性はいただろうか。


 しかし、そんな疑問は女性によって押し流された。

 彼女はその場に膝をついて、床に額づく最敬礼の型を取る。


「無体な申し出をしておりますのは重々に承知致しております。しかし私どもは途方もない窮地に陥っており、最早殿下にお縋りするしか手立てのない状況。どうかこの愚かな私に殿下の御慈悲を賜りたく恥を忍んで罷り越しました」


 声は切れ切れであるけれども、切羽詰った必死な力が籠っている。

 フェスタローゼは傍らのサティナを見上げた。サティナは厳粛な表情で首肯する。


「私に何が出来るかは分からないけど、話を聞くだけなら……」 

 

 おずおずと申し出たフェスタローゼの返事に女性が身を起こす。彼女はフェスタローゼを拝まんばかりに握り締めた両手を掲げて、自らの額に押し当てた。


「それだけでも、どれだけ心強いか」

「あなた、お名前は?」

「セルトと申します」

 そう言ってセルトは、ぱっと面を伏せる。


「あの、事情がございまして……家門や名字はご容赦願いたく」

 揉み絞るように落ち着きなく動く指に彼女の苦悩が見て取れてる。

 心ほだされたフェスタローゼは安楽椅子からソファーに移動し、縮こまるセルトを穏やかに手招いた。


「サティナからはレオナール殿に関することで、と聞いているけど具体的にはどういうことかしら?」

「レオナール様というよりも……殿下は給仕にレオナール様の手の者を引き入れた者が自殺したことは御存知でしょうか?」

「えぇ、まぁ。詳しくは知らないけど。給仕を管理する内侍司ないしのつかさ参正さんしょうが事件に関わっていて自殺したということだけは」

「実はその参正に関することですの」

「参正に?」


 疑わし気に顔を曇らせたフェスタローゼにサティナが身を屈めて、そっと耳元で囁く。


「参正の悪巧みはどうも脅されて致し方なくということのようですわ」

「どういうこと?」

 向かいに座ったセルトが身を前に乗り出す。勢い、フェスタローゼも身を乗り出して彼女の言葉を聞き洩らすまいと集中する。


「参正には丁度、殿下と同い年のご令嬢がいらっしゃるのですけど。レオナール様配下の者がそのご令嬢を人質に取って無理矢理に参正を仲間に引き入れた、ということですの」

「え……?」

「しかも言う通りに配下の者を手引きしたのにご令嬢は帰って来ず、しかもあのような大事に。進退窮まった参正は……」


 セルトは皆まで言わずに、そっと目元を拭う仕草をした。


「それでそのご令嬢は?」

「殿下にお縋りしたいのはそのことですの」

「私に?」

「かねてよりご令嬢とは親しくお付き合いさせていただいておりまして……私にとってのあの方は娘同然の方なのです。参正をお救いする事は叶いませんでしたが、せめて。せめてご令嬢だけは……!」

 言葉の後半は嗚咽に紛れてか細く消えた。

 声もなく忍び泣くセルトの姿にフェスタローゼの胸中に灯る火があった。


「取り乱しまして申し訳ございません……」

「構いません。無理はしないで。……それで?」

「助け出す算段はあるのですが、立場的に私では叶わぬ事もあり、畏れ多くも殿下のお力添えを賜りたく無礼を承知で拝謁を願い出た次第でございます」


 セルトの懇願を受けてフェスタローゼの心は大いに揺り動かされた。

 若きご令嬢を思い、涙する目の前の女性の力添えになりたい。本心はそう告げるものの、自らの立場を思う声がそれをとどめる。


 それに、これ程のことを自分1人の胸に秘めていいのかと懸念もある。


「分かりました。まずは少参丈に相談してみます。大丈夫。彼女はとても信頼のできる人で世間によく通じている。きっと心強い味方になってくれるわ」

「お待ちください、殿下。このことは他の誰にも洩らさぬようお願いしたいのです」

「どういう事?」

「事は繊細でご令嬢の命がかかっております。少参丈殿を信頼できぬわけではないのですが……どうぞご容赦を」

「でも……」


 フェスタローゼは少なからず困惑して胸飾りに手を添えた。


「どうかお願い致します」

 卓に額を付けるようにしてセルトが深く頭を下げる。

 フェスタローゼはぎゅうと胸飾りを握り込んで、手を放した。


「分かりました。私は何をすればよいのかしら」

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