2章 皇帝襲撃
第1話 過去からの咆哮(1)
風の香に湿り気がふんだんに含まれるようになった
濃淡の鮮やかな水色の衣装の襟元に手を添え、胸飾りを落ち着きなく弄りながら、人々の集まり始めた庭園を見渡す。
ざっと見渡した限り、妹・フェストーナの姿はまだない。
今日もまた底意ある瞳に向き合うのかと、憂鬱だった胸に一条の光が差し込んだ。
もちろん皇帝主催の音楽会にフェストーナが来ないなんてことはない。いづれは顔を合わせるのだが、その時は遅ければ遅い程いいに決まっている。
ほっと胸を撫で下ろして、背後に控えるサティナに視線を走らせる。
いつもながらの仏頂面ではあるものの、彼女も今朝から大人しい。どこかぴりぴりとした様子の会場の雰囲気に呑まれているのかもしれない。だが、眉をしかめての繰り言を聞かなくて済むだけで本当に心が軽い。
今日は何だか気分がいい。
開放的な気分に浮き立つフェスタローゼに柔らかな声がかかった。
「皇太子殿下」
栗色の髪が目を引く、穏和そうな顔立ちの青年に一瞬言葉を失って相手を見つめる。途端にあの時感じた悪寒を思い出すも、相手は他国の王子。失礼があってはいけないとフェスタローゼはなんとか微笑んで見せた。
「これは和佐殿下。お久し振りですわね」
紫翠国第3王子・和佐は優し気にふわりと笑んで、完璧な身のこなしで帝国式の挨拶をした。彼に付き従う女官も流麗な仕草で両手を胸の前で交差し、深く膝を折った。すらりとした姿態の優美な女官に既視感を感じて思わず首を傾げる。
「お連れの方は……あの時の武官の方?」
「ええ。そうです」
和佐はちらりと彼女を見やる。
「本日の音楽会にて我が国の伝統楽器を弾くことになっておりまして」
「あぁ、それで。随分と見違えられたこと」
「……うーん、確かにねぇ」と背後からラムダの声がする。
振り向いて見ると、いつも通りに寛いだ立ち姿のラムダの隣で、彼女を真正面から凝視するスーシェの姿が目に入った。
「スーシェ。そんなに女性を見つめるものではないわ。失礼でしょう」
「え? いや……」
余りに不躾なスーシェの視線に恥ずかしさを感じて、反射的に彼を諌める。スーシェは2、3度目を瞬きさせると、ぱっと顔を伏せた。
「大変失礼致しました」
「申し訳ございません、砂霞殿」
「いえ、私は全く気にしておりません」
砂霞はきびきびとした口調で返して来る。形こそ女官であるものの、口を開けばやはり武官の喋り方だ。
「もぉ、美人とくれば目がない奴だなぁ!」
「そういうわけでは……!」
「そこ全力で否定しても失礼じゃないか?」
スーシェの狼狽振りに一同から笑い声が洩れる。柔らかく笑う和佐の笑顔に、この間感じた不快感は微塵もない。
あれは何かの気のせいであったのか。
思い直したフェスタローゼは「そういえば、和佐殿下」と彼の方に目を向けた。
その瞬間、絹を裂く悲鳴と陶器の割れる派手な音が穏やかな空気を突如としめ震わした。
ラムダが急にフェスタローゼを自らの後ろに押しやると、油断なく構えて辺りを警戒する。ほぼ同時に厳しい顔つきになった砂霞が和佐の前に立ちはだかった。
「何だ、お前達は!!」
庭園のあちらこちらから悲鳴と怒号が上がる。
垂れ込め始めた曇天の下、刀を抜いて来賓達を取り囲んだのはあろうことか会場の給仕達であった。有り得ない光景にフェスタローゼはぎゅうと強く両手を握りしめる。
「一体……?」
息を詰めて皇帝の方に頭を巡らすと、きらめく白刃を向けられてもなお、すっくりと背を伸ばして凛々しくある横顔が近衛騎士達の間から覗き見える。
皇帝のすぐ隣に立っている皇后も、怯えた様は見せずにしっかりと前を見据えていた。
「これは一体何事か」
落ち着いたイデルの声が堂々と場に響く。
皇帝の盾となっている彼は取り囲む給仕達をじろりとねめつけた。
「己らが何をしでかしているのか分かった上での所業か」
「もちろんですとも」
一筋の声が割り込んで来る。
皇帝と場にいる貴族達を取り囲んでいた給仕の輪が開き、真新しい鎧を着込んだ青年が1人進み出て来た。彼の顔を見た貴族達からざわりとどよめきが上がる。
「……レオナール殿」
呆然と呟いたフェスタローゼの言葉に和佐が首を傾げる。
「レオナール殿?」
「レオナール殿は皇帝陛下の弟君が当主であるハイランジア公爵家の嫡子です」と、彼に注釈するハルツグの声がやたら遠くから聞こえた。
「それはつまり殿下にとっては」
「……外戚の従兄に当たります」
レオナールから目を離さないままに言葉を添える。
今、眼前で起きている事が俄には信じられない。
ハイランジア公爵家のレオナールは数多いる従兄弟の中でも特に親しく交わった従兄である。兄、リスデシャイルと年が近い彼は太暁宮に良く遊びに来ていた。
そんな彼が、兄と共に笑い転げていたかつての少年が、双眸に怒りの炎を宿した青年となって皇帝の前に立ちはだかる。レオナールは真っ直ぐに皇帝を見据えて、不遜に胸を張った。
「我等は帝国の現状を憂う愛国の士である。本日は皇帝陛下に我々の提案を受け入れていただくために罷り越した!」
音の絶えた庭園にレオナールの口上だけが朗々と響いた。彼の背後には4、50人程の武装した兵士が付き従っている。
居並ぶ彼らを見たラムダがぼそりと呟いた。
「……素人だな」
「そうだな。装備もバラバラで総じてみすぼらしい」
「愛国の士を名乗るにゃ、締りのねぇ奴らだな」
「それはつまり?」
囁き交わすラムダとスーシェに和佐が問い掛ける。ラムダは前を向いたまま、口元を皮肉気に歪めた。
「金で雇われた烏合の衆ということですよ」
「でも、そんな」
思わず悲壮な呟きを洩らした所に再びレオナールの声が響き渡る。
「我々の要求は2つ! 現皇帝リスディファマスの退位と20年前に地位を追われた元皇族達の復位である!!」
皇帝は何も言わない。
自らの前に兵を率いて現れた甥に真正面から強い視線を向けたまま、皇帝はぴくりとも動かない。
「陛下、ご決断を!!」
呼び掛ける声に僅かな揺らぎが浮かぶ。
なおも皇帝は答えない。のしかかる重い沈黙に耐えられずレオナールが皇帝から目を逸らした。
「どうして? レオナール殿、どうしてこのような事を?」
たまらず一歩前に出たフェスタローゼを、「殿下」と和佐が制止する。
レオナールがフェスタローゼに向き直った。その顔には、はっきりと侮蔑の色が浮かんでいる。彼は、僅かに舌打ちして「みっともない欠陥品の分際で」と冷たく言い捨てた。
無邪気に親愛の情を抱いていた従兄から出た拒絶が胸の深い所をまともに抉る。フェスタローゼはぐっと息を飲み込んで、その場に棒立ちになった。
「残念ながら陛下が皇帝でいる限り、この国の状況は良くならない。私はそう考えております」
「でも……」
反論しかけたフェスタローゼの言葉をレオナールの大音声が押し潰す。
「この場にいる者、皆知っているだろう?! 陛下が戴冠と同時に断行したおぞましき悪行を!」
急に口調が跳ね上がった。
ぐるりと周囲を見回すレオナールの目を避けて誰もが面を伏せる。それでも彼は熱を込めて言い上げた。
「20年前のあのおぞましき悪行が今に至る低迷の端緒ではなかろうか!!」
「……苛烈な戴冠……!」
斜め後ろから怨嗟を含んだ細い声がした。
レオナールは我が意を得たり、とばかりにこちらに向けて両手を広げる。
「そう! そうです、サティナ殿!! 私の父上と貴殿の父上の運命を歪めた悪行……数多の皇族の命を奪い去り、不当に地位を奪った忌まわしき悪行だ! あの悪行以来、我が帝国の皇族は史上類を見ない程に数を減らした。そして国政の中枢を担うべき成人皇族が10人にも満たぬ異常事態は未だに解消されていない!」
自らの過去を“悪行”と断じられてもなお、レオナールに向けられた皇帝の目には何の感情もない。
「あらゆる問題が山積しているのに事に当たる皇族が足りていない現状を見兼ねて、私は再三、苛烈な戴冠で追放された皇族達の復位を申し出た!! しかし陛下は一切耳を貸さなかった」
皇帝からの反論がないことに力を得たレオナールはいよいよ声を張り上げた。独壇場と化した管絃宮の庭園に、彼の声が滔々と広がる。
「まだリスデシャイル様がおみえだった頃は希望があった。リスデシャイル様ならば側室を多数娶り、どれだけでも皇族を増やしていく事が出来た。だが2年前、殿下は逝去してしまった」
今は亡き兄の名がフェスタローゼの中の癒えない傷を突っ付く。更に強く胸飾りを握り締めると、傍らにいるスーシェもまた小さく唇を噛み締めた。
「なのに現皇帝リスディファマスは、精道法もまともに扱えない欠陥品のフェスタローゼを皇太子に据え、国の未来を閉ざそうとしている。これを看過し、帝国が更なる衰退の道を突き進むのを黙って見過ごす訳には行かない!」
周囲の貴族がちらちらとフェスタローゼを見やる。容赦なく突き刺さる哀れみと蔑み相半ばの視線に思わず目を伏せる。
衆人の憐憫に晒されたフェスタローゼの目に映るのは、爽やかに萌え立つ鮮やかな芝の緑だった。
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